AIのある世界で、それでも残るもの
22世紀。
知識の獲得に苦労する人間はいなくなった。生まれた瞬間からAIアシスタントが付き添い、問えばすぐに答えが返ってくる。
博士号すら、AIに相談すれば最短ルートで取得できた。情報はあふれ、問いも答えも簡潔になった。
それでも、アカネは大学に残っていた。
彼女は博士課程の7年目。テーマは「AI時代における非決定性の意味論」――要するに、なぜ「運」があるように感じるのか、という話だ。
仲間からは時代遅れと冷やかされた。
「全部AIに聞けばいいじゃん」「なんでそんなに遠回りするの?」
でも、アカネは知っていた。「遠回り」こそが、本当に問いを持つということだと。
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ある日、彼女のAIアシスタントが突然こんなことを言った。
> 「あなたの研究の結論は、95.3%の確率で“主観的偶然性は身体的制約から生じる”に収束します。終了しますか?」
彼女は答えなかった。
いや、答えられなかった。
その「答え」が正しいかどうかではない。
その「過程」を、自分の手で歩きたかった。
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研究室の窓から見える祭囃子の音が風に乗って聞こえた。
人工知能が完璧に模倣したはずの夏祭り。それでも、なぜか“本物の祭り”の方が、心に残る。
隣の教室では、100年前の論文を手書きで写している学生がいた。無意味に見えるが、彼は言った。
「これは、文化の写経です。形をなぞることで、心がついてくるんです」
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確かに、AIはすべてを知っているかもしれない。
でも、「わからないから知りたい」「意味があると信じたい」「それでもやってみたい」という気持ちは、答えの先にある何かを求めている。
運。文化。そして、博士教育。
それらはどれも、無駄なようでいて、人間が人間である証のようなものだ。