第一話【止まらない剣】
赤い月が空に昇る薄闇の森。木々の隙間から差し込むかすかな光が、大地に揺れる影を落としている。
草むらがざわめき、低い唸り声が響いた。その瞬間、アイン・ロクスフィールドは素早く剣を構えた。
「くっ……また出てきたか!」
現れたのは、牙を剥き出しにした巨大な狼型のモンスター。血走った目がアインを捉えた瞬間、獲物を狩るように飛びかかってきた。
「速い……!」
アインは一瞬の躊躇もなく地面を蹴り、モンスターの爪をかわした。その反撃として繰り出した剣が、鋭い音を立てて狼の側面を切り裂く。
だが、モンスターは倒れない。
傷を負った怒りがさらにその動きを激しくさせ、次々と鋭い攻撃を繰り出してくる。
「……これ以上時間をかけられない!」
アインは冷静に息を整え、モンスターの隙を見極めると、渾身の力を込めて剣を振り下ろした。その一撃がモンスターの首筋に深く突き刺さり、ようやく動きが止まる。
モンスターが倒れると同時に、アインの体が淡い光に包まれた。力が湧き上がる感覚――それは、彼にとって唯一の救いであり、同時に恐怖でもあった。
「レベルアップ」
「これで……また少しだけ猶予ができた」
アインは自分の腕に刻まれた黒い紋章を見つめる。その刻印には、冷たく無機質な数字が浮かび上がっていた。
「次のレベルまでの猶予:3日」
短く息を吐き、剣を鞘に収める。森の静寂が戻ったが、それはアインにとっての安息ではなかった。次の戦いまでの時間が少し延びただけで、決して終わることはないのだ。
◇
木々の間を抜けて小さな焚き火のもとへ戻ると、そこには小柄な少年――ライ・フィンレイが待っていた。焚き火に照らされたライは、膝の上に開いた手帳を持ちながらアインに声をかける。
「おかえり、アイン。無事でよかった」
「無事だけが取り柄だからな。それより、また書いてるのか?」
アインがライの手帳を指差すと、彼は穏やかに笑った。
「うん。君の戦いの記録をね」
「そんなものまで記録してるのかよ……。まあ、お前の趣味だし好きにしろ」
アインは焚き火の前に腰を下ろし、剣を取り出して刃を磨き始めた。ライの記録は何の役に立つのか分からないが、文句を言う気もない。それがライの「旅の役目」なのだと思っていたからだ。
ライは焚き火の明かりの中、静かに手帳にペンを走らせる。アインの戦いの様子を思い返しながら、細かな言葉を一つずつ記録していく。
「ライ、そんなに毎日書いてて飽きないのか?」
「飽きる? いや、僕にとってはこれが大事なことなんだ。君の戦いも、今日見た景色も――全部残しておきたいからね」
アインは肩をすくめて笑う。
「お前のその熱心さ、俺にはよく分からないな。けど……そうだな、どっかに記録が残るのも悪くないか」
その言葉に、ライは一瞬だけ表情を曇らせた。だがすぐにいつもの笑みを浮かべる。
「うん。記録は未来への道しるべになるからね」
焚き火がぱちぱちと燃える音が二人の間を埋めた。その炎は、明日を生きるための希望のように揺れていた。
◇
夕暮れ時、森の奥深く、静寂を破る声が響いた。
「焔よ、悪しき影を焼き払え!《フレイム・シアー》!」
アインとライが進む道の先、紫のローブを纏った女性が片手に魔道書を掲げ、巨大な狼型モンスターと対峙していた。彼女が放った魔法は、真紅の炎を帯びた刃となり、モンスターの前脚を切り裂く。しかし、モンスターはまだ動きを止めない。
女性は息を切らしながら、もう一度魔道書を開き、次の詠唱を始めようとするが、間に合わない――。
「危ない!」
その声と共にアインが飛び出し、鋭い剣の一閃でモンスターを仕留めた。
「助かったわ……ありがとう」
女性は額の汗を拭いながら、安堵の表情を浮かべる。
「一人で何をしてたんだ?こんな危険な場所で」
アインが鋭い口調で問いかけると、女性は少し不機嫌そうに肩をすくめた。
「調査よ。この森の魔力の流れを調べていたの。最近、モンスターの数が増えているのは、この異常な魔力のせいだと思ってね」
「魔力の調査?そんなことしてる暇があるなら、まず自分の身を守る方法を考えろ」
アインは呆れたようにため息をつく。
「無茶を承知でやってるの。こうやって誰かが助けてくれるなら、むしろ運がいいほうでしょ?」
女性は不敵な笑みを浮かべるが、魔法の使い過ぎで疲れ果てた体を隠せず、ふらりと膝をついた。
アインは仕方なく焚き火を起こし、女性に簡単な食事を渡す。彼女は少し戸惑いながらも、それを受け取った。
「優しいのね、あなた」
「俺は優しくない。ただお前がこれ以上倒れると面倒だからだ」
アインは素っ気なく答えながら、焚き火の炎を見つめる。
その横で、ライが彼女に尋ねる。
「どうして魔力の調査をしてるの?こんなに危険なのに」
女性は魔道書を撫でながら答えた。
「魔力の流れを調べれば、モンスターの発生源を突き止められるかもしれないからよ。それが分かれば、被害を減らせるでしょ?」
ライは興味深げに頷くが、アインは冷たく言い放つ。
「それで死んだら意味がないだろう」
「あなたはどうしてそんなに冷たいのかしらね」
女性は微笑みながら、じっとアインを見つめる。
翌朝、彼女はようやく元気を取り戻した様子だった。別れ際、少し躊躇いながらこう切り出す。
「あなたたち、これからどこへ向かうの?」
「次の狩場だ」
アインが短く答えると、彼女は頷いてから言った。
「だったら、少しだけ同行させてもらえないかしら?」
「……理由は?」
「私一人じゃ調査を進めるのは危険だもの。でも、あなたたちと行動すれば安全だし、私もあなたたちの役に立てるかもしれないわ」
アインは少し考え込むが、ライが先に口を開く。
「彼女の力があれば、僕たちも助かるかもしれない。昨日だって、モンスターの動きが分かってたのは彼女のおかげだし」
「……足手まといになるなよ。それなら許す」
アインはため息をつきながら答え、彼女は満足げに笑った。
「そうね、それじゃ自己紹介をしましょうか。私はリリス・エヴァンジェル。魔術の研究者よ」
「……アインだ。こっちはライ」
「よろしくね、二人とも」
◇
森を抜けると、見えてきたのは小高い丘に立つ小さな村だった。木造の家々が並び、村の中央には枯れかけた噴水がある。だが、その雰囲気はどこか異様だった。
「……静かすぎる」
アインが呟くと、ライがこわごわと村を見回す。
「確かに……こんなに静かな村、初めて見たかも」
人の気配はあるが、村人たちは家の窓や扉の影からこちらを伺っているだけで、外に出てくる者はいなかった。まるで、何かに怯えているかのようだ。
村の中央でしばらく待っていると、やがて一人の老人が現れた。杖をつきながら歩いてくるその姿に、アインたちは警戒しつつも声をかけた。
「この村で何か起きているのか?」
アインの質問に、老人――村長は深いため息をつきながら答える。
「ここに来る旅人も珍しい……。実は、この村は今、ある連中に脅かされておるんじゃ」
「連中?」
ライが首をかしげると、村長は神妙な面持ちで説明を始めた。
「密猟団だ。この近くの森には珍しいモンスターが生息している。それを捕まえて売ることで儲けている連中が、この辺りを荒らし回っておる。村人が森で遭遇すれば、問答無用で脅される。中には命を奪われた者もいる……」
村長の声には恐怖と無力感が滲んでいた。
村長の話を聞きながら、アインたちは村の様子に目を向ける。噴水の周りには割れた樽や散らばった物資が放置されており、村人たちは外で作業をする代わりに、家にこもって震えているように見えた。
ライが小声で呟く。
「これじゃ、村の生活が成り立たないよ……。畑仕事すらできてないんじゃないかな」
「……だからって、密猟団と戦う義理はない」
アインが冷静に答えると、村長は肩を落とし、目を伏せた。
その時、リリスが一歩前に出る。
「村長、密猟団についてもう少し詳しく教えてくれるかしら?」
村長は少し驚いた顔をして、続ける。
「……森の奥に拠点を構えているらしい。檻や罠を使ってモンスターを捕らえ、運び出している。人間には危害を加えないときもあるが、邪魔する者は容赦なく……」
「なるほど。だったら、何とかしてその密猟団を追い払えないかしら?」
リリスがそう提案すると、村長の顔に希望の色が浮かぶ。
「お嬢さん……本気で言っておるのか?」
「あの人たちのせいで、村がこんなに苦しめられてるのよ。見過ごすなんてできないわ」
だが、アインが即座に口を挟む。
「悪いが、無理だ」
リリスが振り返り、眉をひそめる。
「どうして?あなた、戦えるでしょう?」
「……俺には、やるべきことがある。それに、そんな連中相手にしても意味がない」
アインの冷たい言葉に、リリスの表情が怒りに染まる。
「意味がないですって……?人々が怯えて、苦しんでるのよ。それを見て、何もしないなんて……!」
アインは視線を逸らし、腕の刻印をちらりと確認する。残りの猶予が迫っていることを感じ、苛立ちを押し殺しながら答えた。
「すまないが、お前一人でやればいい」
「……分かったわ。だったら、私一人で行くわよ」
リリスは魔道書を抱え直し、村長に別れを告げると、怒りを露わにしたまま森へと歩き去った。
ライが心配そうにアインを見つめる。
「アイン……リリスが一人で行っちゃったよ。どうするの?」
「どうもしない。……今は自分のことで手一杯だ」
アインはそう言いながらも、手が僅かに震えているのを感じていた。
数時間後、村の少年が森から駆け戻り、涙ながらに訴える。
「お姉ちゃんが僕を助けてくれた!でも、密猟団に捕まっちゃったんだ!」
少年の言葉に、アインの胸の中に強い衝撃が走る。ライが焦ったように叫ぶ。
「アイン、どうするの?」
アインは刻印を確認する。猶予はあとわずか。だが、迷いはすぐに振り払われた。
「行くぞ。見捨てられるわけがない」
こうして、アインは再び森へと向かうのだった――。
◇
森を抜けた先に、密猟団のアジトが現れた。荒れ果てた小屋と檻がいくつも並び、獰猛なモンスターたちが閉じ込められている。その中央には、縄で縛られたリリスが椅子に座らされ、複数の密猟者たちに囲まれていた。
「この女、ただの魔術師じゃねぇな。いい知恵袋になりそうだ」
「ああ、魔法の知識を利用して捕獲を効率化するってのも悪くねえ!」
密猟者たちの下卑た笑い声が響く中、アインは静かに物陰から様子を伺う。刻印を見ると、猶予の数字がじりじりと減っていくのが目に入る。
「猶予:15分」
(時間がねえ……早く決着をつけるしかない)
アインは剣を構え、密猟者たちの不意を突くようにアジトに突進した。一人の背後に迫ると、無言で一撃を加えて無力化する。
「なんだ!?敵襲か!」
密猟者たちは慌てて武器を手に取るが、アインの動きは素早かった。次々と間合いに飛び込み、的確な一撃で無力化していく。
「こいつ、ただの旅人じゃねえぞ!」
一人が叫ぶが、アインは冷たい視線を向けただけだった。
「お前らに構ってる暇はない……!」
だが、相手の数が多いため、完全に無傷で戦うことは難しい。数人を倒す間に、アインは背中を短剣で掠められ、深い傷ができた。
(くそ……!早くしないと、時間が……!)
刻印を再び見ると、猶予は**「7分」**を切っていた。焦燥感が胸を締めつける。体力も限界に近い中、アインは自分を奮い立たせるように剣を強く握りしめた。
最後の密猟者を地面に叩き伏せたアインは、すぐにリリスのもとへ駆け寄った。
「……助かったわ。ありがとう」
リリスは疲労した表情の中に、どこか安心した笑みを浮かべた。
だが、アインは返事もせず、すぐに縄を解きながら辺りを見回す。
「礼なら後だ。まだ……終わっちゃいない」
その言葉にリリスは驚いた表情を浮かべたが、アインが何かを探している様子を見て、何も言わずに立ち上がった。
刻印の猶予は、残り**「5分」**を切っていた。アインは檻の中にうごめくモンスターたちを睨みつける。
「……くそっ。人間を倒しても経験値は稼げない……どうする?」
リリスが苛立ちを隠せない声で叫ぶ。
「一体何をそんなに焦ってるの?終わってないってどういう――」
その時、アインの視線が檻に囚われた1匹のモンスターに止まった。鋭い赤い瞳、巨大な牙、黒い鬣が不気味に揺れる。その存在感は異様だった。
「あのモンスターは……?」
アインの問いにリリスが驚いた表情で振り返る。
「あれは、この辺りじゃ一番凶悪で希少性の高いモンスター、《ナイトメア・ウルフ》。密猟団が狙うのも無理はないけど……アイン、どういうつもりか知らないけど、一人じゃ無理よ!」
アインは黙ったまま剣を握り直し、檻の方へ目を向ける。その視線には迷いも恐れもない。
「一人ならな」
その言葉を聞いた瞬間、リリスは息を呑む。同時に、アインの意図を理解した彼女は、魔道書を手に立ち上がった。
「……分かった。でも、生きて帰りなさいよ!」
アインは静かに頷き、檻に向かって疾風のように駆け出した。
リリスが魔道書を開き、詠唱を始める。その声はこれまで以上に鋭く力強いものだった。
「雷鳴よ、破滅の光を纏いし牙となれ!《ライトニング・ランス》!」
雷の槍が檻を撃ち抜き、金属の扉を焼き切った。解放された《ナイトメア・ウルフ》が咆哮を上げると同時に、アインはその懐に飛び込む。
「お前を倒す!」
剣が閃き、ウルフの爪と激しくぶつかり合う。猛スピードで襲いかかる牙を寸前でかわし、アインは次の一撃を放つ。だが、モンスターの耐久力は高く、決定打には至らない。
リリスが再び魔道書を掲げ、今度は炎の魔法を唱える。
「焔よ、悪しき闇を焼き払え!《フレイム・シアー》!」
灼熱の刃がウルフの側面を切り裂き、モンスターの動きを一瞬鈍らせた。その隙を見逃すはずもなく、アインは剣を高く振り上げる。
「これで終わりだ!」
渾身の力を込めた一撃がモンスターの首元を貫いた。ウルフの咆哮が静寂に変わり、その巨体が地面に崩れ落ちる。
アインの体が淡い光に包まれる。
「レベルアップ」
刻印の数字がリセットされ、冷たかった光が再び命を宿す温もりに変わる。
「はぁ……なんとか、間に合った」
アインは膝をつき、大きく息を吐き出す。
リリスが駆け寄り、その場にしゃがみ込むと、信じられないという顔でアインを見つめた。
「……なんなのよ、あなた……どうしてそこまでして……?」
リリスの問いに、アインはしばらく沈黙していたが、やがて剣を地面に突き刺し、ゆっくりと答える。
「……俺には、時間がないんだ」
「時間がないって……どういう意味?」
リリスの声が震える。アインは腕の刻印を見せ、その意味を語り始めた。
「これは……俺にかけられた呪いだ。レベルを上げ続けなきゃ、俺は生きられない。止まれば、ただそれだけで――死ぬんだ」
リリスは息を呑む。その言葉の重さに反論する言葉も見つからない。
アインは苦しげに笑いながら続ける。
「お前の質問に答えた。これで、満足か?」
「……満足なんて、できるわけないでしょ」
リリスは小さく呟きながらも、彼の言葉を受け止めるしかなかった。
夜の静寂が森を包む中、アインは立ち上がり、剣を鞘に収めると振り返らずに言った。
「俺は止まれない。それが、この呪いだ」
彼の背中を見つめるリリスの瞳には、複雑な感情が揺れていた。
その背中にどんな運命が待っているのか――リリスはまだ知らない。




