墜殺
「崖から突き落として欲しいの」
美弥子は言った。山へツツジを見に行き、柵の隙間から車椅子ごと落とす。ストッパーが外れたことにすればいい。とても簡単だ。今度こそ成功させる。ミヤコは入念に計画を練った。
高校に入学して初めての夏だった。クラスメートの一人が、美弥子にハムスターの子供をくれた。
「可愛いでしょ。ヒマワリの種と水を与えておけば大丈夫だから簡単よ」
そう言って渡された箱の中に息づく小さな命を、美弥子は愛おし気に見詰めていた。
今になって思えば、増えすぎたハムスターを捌こうとしていただけだったのかも知れないが、友達がいない美弥子に声を掛けてくれたことが嬉しかった。そして、小さなハムスターはとても可愛らしかった。
美弥子はハムスターに、ハム助と名前を付けた。
「もう少しだけ我慢してね。素敵なお家を作ってあげる」
お菓子の空き箱の中にドールハウスみたいに部屋を作ろう。アパートの窓から見えるゴミ捨て場で拾ってきた錆びた鳥籠の中で、ハム助はキョトンとした丸い眼でこちらを見詰めていた。
美弥子は古い鳥籠をピカピカに磨き上げた。お菓子の空き箱の中に、端切れを集めて縫った小さなベッドを置いた。慣れない工作で指を傷だらけにして作った回し車も気に入ってくれたようで、ハム助は昼間は手作りのベッドで眠り、夜になるとカタカタと回し車の中を走った。母がうるさいと怒ったので、美弥子は夕方になると籠に布を掛けた。
愛されることがなくても、自分が愛情を受けることが出来なくても、愛するものがいれば人は幸せでいられるのかもしれない。美弥子は幸せそうだった。毎日愛おし気にハム助を眺め、優しく声を掛けた。
一週間後、美弥子が学校から戻ったとき、机の上にハム助の籠はなかった。母が動かしたのだろうか。どこに置いたのだろうと部屋を見回した美弥子は、ふと窓が開いたままにになている事に気付いた。不吉な予感に怯えながら、美弥子は窓から顔を出した。アパートの裏手、三階の窓から見下ろしたすぐ下には、粗大ごみが放置された空き地があった。そこに見覚えのある籠を見付けて、美弥子は部屋を駆け出した。
ハム助は死んでいた。籠の底に小さな身体を横たえ、口から血を吐いて。籠はひしゃげ、ほとんど潰れていた。窓から籠ごと投げ捨てられたのだと分かった。
美弥子が親に反抗したのはこの時が最初で最後だったかもしれない。ハム助の遺骸を手に、美弥子は母に食って掛かった。
「何故こんな酷いことをするの」
怒り狂う美弥子に面倒くさそうな視線を向けた母は、美弥子の手の中のハム助を見て眉を顰めた。
「気持ち悪い」
母はただ一言、汚らわし気にそう吐き捨てただけだった。
死骸を捨ててきなさいと言われ、美弥子は部屋を出た。公園の花壇の隅に穴を掘って、ハム助を埋めた。泥だらけの手を顔に当てて美弥子は泣いた。長い時間泣いて、気付いた時には、美弥子はいなくなっていた。
指を動かし足を動かして、ミヤコは身体の感触を確かめた。美弥子とミヤコが逆転した瞬間だった。
一日に数時間だけ、母の機嫌が悪い時に美弥子は出て来てくれたけれど、やがて、その時間は次第に減って行った。母が弱ってからは、それはより顕著になり、今では、ほとんど姿を現すことはない。
ツツジの花は満開で、とても綺麗だった。山の上の展望台には、ミヤコと母の他に人影は無かった。
柵の下を覗き込むと切り立った崖が見えた。『自撮り注意。柵を乗り越えないでください』と書かれた看板の大事な部分の赤い文字が、陽射しで色褪せて消えかけていた。
おあつらえ向きに柵の一部が壊れていた。崖の縁に車椅子を進めると、母は歓声を上げた。
「綺麗ね。よく見えるわ」
車輪が石ころを跳ね、それはパラパラと崖を落ちていった。もっと前へ。ミヤコは震える手で車椅子を押した。車輪が少し崖からはみ出した時、母は振り向いてミヤコに笑顔を見せた。
「ここから飛ぶの? 鳥人間コンテストかしら? すごいね。頑張って、優勝しようね」
何という呑気さだろう。今から殺されようというのに。
力が抜けたミヤコは後ずさり、車椅子は壊れた柵の内側に戻った。殺せない。無理だ。私には無理。だって母はもう何も分からないのだから。きっと何も憶えていないのだから。
環境が違えば、優しい母だったのかもしれない。母だって辛かったのだ。だから美弥子に当たったのだ。
──美弥子、やっぱり無理。
そう告げようとした瞬間だった。ミヤコの意識が暗い場所へと引き込まれた。手足の感覚がなくなる。言葉が声になる回路が断ち切られる。
美弥子が出てきたのだ。この体の主体は、やはり美弥子だった。美弥子が外に出ようという意思を持てば、ミヤコにはそれに抗う術はない。ミヤコは久しぶりに、意識の奥底の闇へと落ちていった。
ぼんやりと、スクリーンを見るように状況が見て取れる。
「お母さん」
優しげな声で、美弥子は母に呼びかけた。優しい呼びかけであったにも関わらず、母の表情は硬くなった。
「美弥子……」
ミヤコと美弥子が入れ替わるのと同時に、母も一時的に正気を取り戻したように見えた。
母の目に一瞬鋭い光が宿り、すぐにそれは頼りなげな微笑に変わった。
「美弥子、ごめんね」
母は言った。
「親らしいことを何も《《してあげられなくて》》、ごめんね」
美弥子の口元に微笑が浮かんだ。優しい、限りなく優しい微笑を浮かべ、美弥子は小さく頷いた。
突然、ミヤコの視界が闇に沈んだ。「ジャーンプ」という母の声が聞こえたような気がしたけれど、すぐに全ての音は消え去り、あたりは暗闇と静寂に包まれた。
どれぐらいの時間が経ったのだろうか。ミヤコが再び目を開けた時、美弥子はもう、どこにもいなかった。
Merry bad end