溺殺
「お風呂に沈めてしまえばいいわ」
美弥子は言った。
入浴中に溺れ死んだことにすればいい。よくある事故だ。まずバレることはない。何故こんな簡単な方法を先に思いつかなかったのだろう。
「今度は絶対成功させるわ」
ミヤコは自信を持って、そう宣言した。
母の男はたまに変わった。若かったり歳をとっていたり、太っていたり痩せていたり、あまり一貫性があるようには思えなかった。あからさまに美弥子を邪険にする者が多かったが、時には優しくしてくれる人もいた。今度の男は後者だった。温厚なサラリーマン風で、時々美弥子への土産に子供向けのアクセサリーを買って来てくれた。
美弥子は小学校五年生だった。胸も膨らみ、身体つきも少し大人びてきていた美弥子に、そのアクセサリーはよく似合った。
──この人がお父さんになってくれたらいいのに。
その男と付き合い始めてから、母は少し優しくなったように思う。美弥子に対する暴言も、男の前では影をひそめる。母のふるまいも少し上品になったように思えた。幸せの予感がした。けれど……。
暑い夏の夕暮れ時だった。母は夕食の買い物に出かけ、美弥子はお風呂を洗っていた。間違ってシャワーを頭からかぶってしまい、ついでだからと着ているものを脱いで身体を洗った。脱衣所に出てから着替えが無いのに気付き、バスタオルを巻いて浴室を出た。
ちょうど、その時だった。玄関の鍵を開ける音と、続いてドアが開く音が聞こえた。母が帰って来たものだとばかり思って廊下に出た美弥子は、玄関に立つ男の姿を見て驚いた。
慌ててお辞儀だけをして奥に駆け込もうとした美弥子の肩が掴まれた。
「美弥子ちゃん」
耳元で聞こえた男の囁きは、妙に生々しい響きを持っていた。
バスタオルを剥ぎ取られ、美弥子は廊下に押し倒された。男の手が小さな乳房に触れるのを感じて、全身に怖気が走った。
「可愛いねえ」
嫌らしい声だった。男の手が太ももの内側を撫で、ゆっくり上に上がって来る。喉が固まったように声が出なかった。恐怖のあまり抵抗することも出来ず、美弥子は固く目を閉じた。
「何してるの!」
ヒステリックな声に眼を開くと、眉を吊り上げた母の顔があった。男が慌てて美弥子から離れ、頭を掻く。
「お母さん、この人が……」
美弥子の目に、漸く涙が溢れた。助かった。そう思った。
けれど母の反応は違った。
「何を色気づいてるの」
母はそう言って冷たく笑った。
「美弥子ちゃんが誘ったんだ」
男は当然のようにそう言い、母は男に媚びた視線を送った。
「こんな下品な子を相手にしちゃだめ」
美弥子は裸のまま玄関の外に出された。アパートの廊下の低い柵は道路に面しており、帰宅途中の人の流れがあった。目を逸らす者もいた。けれど子供たちは美弥子を指さし、男たちはニヤニヤと笑いながら横目で美弥子を眺めていた。
美弥子が悪かったのだろうか。無防備にあんな格好で廊下に出たから。だから誘ったと思われたのだろうか。美弥子がだらしないから、こんな恥ずかしい罰を受けるのだろうか。
太ももの内側に一筋、赤いものが糸を引くように伝った。その後何年も、生理が来るたびにこの日を思い出して美弥子の心が黒く濁るのを、ミヤコはやるせない気持ちで見詰めていた。
お風呂が沸いた。いい温度だ。車椅子の母は脱衣させるだけでも大変な苦労を要する。ミヤコはくたくたになった身体で母を立たせようと身体を持ち上げた。
その時だった。濡れた床に踏み込んだ足が滑った。後頭部にガンという衝撃を感じ、ミヤコは意識を失った。
気が付いたら、布団にうつ伏せに寝かされていた。
「起きた? たんこぶ出来てるから大丈夫よ」
目の前に、大家の顔があった。福々しい笑顔に、ミヤコは計画の失敗を悟った。
「大きな音がしたからびっくりして、合鍵で入っちゃった。お母さんのお風呂はヘルパーさんたちが済ませてくれたからね」
同じアパートに住む介護ヘルパーの女性たちが、食卓で談笑していた。それに混じって笑う母の顔を見ながら、ミヤコは唯々絶望感に苛まれた。
Bad End その3