轢殺
「お母さんを殺して欲しいの」
美弥子はそう言った。感情のない暗い眼をして。
「どうやって?」
ミヤコは訊ねる。美弥子の願いなら叶えてやりたい。どんな事をしてでも。
「そうねえ。どんな方法がいいかな」
暫く考え込んでいた美弥子は、やがて悪戯を思いついたように小さく口の端をゆがめた。
「あのね……」
美弥子は一人娘である。母は美弥子が物心つく前に離婚した為、美弥子は父親を知らない。そもそも正式に結婚していたのかすら分からない。保育園の友達を時々迎えに来る男の人、それが「お父さん」という生き物であることを美弥子は知った。美弥子には、それがいなかった。美弥子には母しかいなかった。誕生日やクリスマスにプレゼントをくれる「おじいちゃん」「おばあちゃん」も存在しなかった。友達を囲んで笑いあう奇妙な大人たちは、美弥子にとっては異世界の住人にしか思えなかった。
「車椅子を、線路に置き去りにしよう」
美弥子はそう言って少し笑った。
「分かった。やってみる」
ミヤコは答える。今の美弥子には、それは出来ない。ならば自分がやるしかない。ミヤコは心を決め、深呼吸をして顔を上げた。
母は化粧品のセールスをしていたのだと記憶している。濃い化粧をして派手な服を着て、毎日不機嫌な顔で家に帰って来た。学童保育から暗い部屋に戻っていた美弥子の、母が帰って来たという嬉しい気持ちを、冷たい一瞥で叩き潰し、一言も言葉を発することなく浴室へと消えた。
ごみが散乱した部屋を片付け、シンクに溢れた食器を美弥子が洗うようになったのは、何歳の頃からだっただろうか。子供用の椅子にのって蛇口に手を伸ばし、冷たい水でグラスやカップを洗う。茶碗や皿はなかった。代わりにカップ麺の空き容器と割り箸が、いつもシンクに捨てられていた。
「あんたのせいで……」
母はよく、そう言って美弥子を睨んだ。手を上げられることはなかった。ただ蔑む様な冷たい眼差しとともに、美弥子の一挙手一投足を罵倒した。「父親に似て下品だ」そう言って。
母と同じようにしているだけなのに、一生懸命真似をしているのに、母は気に入らないようだった。美弥子が黙って俯くのを、ミヤコは遠くから見ていた。
夕暮れ時の踏切。カンカンという警報音が聞こえてくる。遮断機はまだ下りていない。人通りはない。線路の真ん中に車椅子ごと母を置き去りにして逃げればいい。電車が通った後で悲鳴を上げる。目を離したすきに線路に入り込んだ。そう言い逃れればいいのだ。さあ、このまま真っ直ぐ進んで……。
母は悲劇のヒロインだった。自分は不幸だ。もっと幸せになっていい筈なのに、周りの誰かのせいで不幸の淵に陥れられている。そう思い込んでいるようだった。そのストレスを美弥子にぶつけた。罵倒、暴言。理不尽で自分勝手な理屈により、美弥子に「悪い子」「我儘な子」というレッテルを貼った。美弥子は逃れる術を知らず、それを一身に受けた。
やがて母は美弥子に感情があることを忘れてしまったようだった。何を言ってもいい、何をしてもいい。この子には、心などないのだから、と。
虐待ではない。これは躾なのだ。何故なら美弥子は暴力を振るわれてはいないから。カップ麺ではあっても、食べ物を与えられているから。学校にも行かせてもらっているから。だから虐待ではないのだ。
保育所では友達がいた筈なのに、小学校に上がって少ししてから、美弥子はクラスで浮いた存在になった。最初は仲良くしてくれた子も、次第に美弥子から離れていく。美弥子は何処かしら薄汚かったのかもしれない。性格が悪かったのかもしれない。勉強は頑張ったけれど、成績は下の方だった。いつの間にか孤立し、一人でいることが多くなった。いじめが始まり、みんなから無視された。それは中学を卒業するまで続き、美弥子は独りに慣れた。
嘘だ。決して慣れることなどなかった。だからミヤコが生まれた。言葉を交わすことも出来ず、表に出ることも出来ず、暗い闇の底からミヤコは美弥子の苦しみを見ていた。
美弥子は結婚の機会がないまま五十歳を過ぎた。母は七十歳を越えたあたりから早々に認知症を発症した。症状の進行と共に身体も弱り、車椅子生活になった。美弥子の事も分かっているのかいないのか、ただニコニコ笑って日々を過ごしている。
ミヤコは車椅子を押して線路に進んだ。背中で遮断機が下りるのが分かった。
手前の線路の真ん中まで進んだ時、突然車椅子が動かなくなった。車輪が溝に嵌ったのだろうか、力任せに押しても引いても、ピクリとも動かない。向こう側の軌道、あと少し進めは届く筈の奥の線路に電車が近付いて来る。嫌な汗が出た。動かない。動けない。
「あら、重いのかしら。ミヤコちゃん大丈夫? アタシが替わってあげようか」
母が呑気に声を掛ける。返事を返す余裕もなく、ミヤコは力いっぱい車椅子を押す。
どうして上手くいかないの? いらだちが募った。車椅子の上で母は歌い出す。
「線路は続くよ、どこまでも~。野~を越え山越え、た~に越えて~」
は~るかな町まで、僕たちの~。つられて頭の中で続きを歌ってしまい、ミヤコは情けなくなって頭を抱えた。
目の前を列車が走り抜ける。想像を超える轟音と強風に、ミヤコは腰を抜かした。
「う~ん、良い風」
のんびりした母の声に被さり、再び警報が聞こえる。こんどはこちら側の線路に電車が来る。車椅子を置いて離れなければ。けれどミヤコは動けない。足に力が入らず、立ち上がることさえ出来ない。
──誰か、助けて。
心の声に応答するように、人が駆け寄って来るのが分かった。
「大丈夫ですか?」
「早く外へ」
いつの間にか集まった人々により車椅子は持ち上げられ、線路の外へと降ろされた。
「危ないところでしたね」
善意の人々が笑顔でそう言う。
「……ありがとうございました」
とりあえず礼を言わなければこの場は収まらない。忸怩たる気持ちのまま、ミヤコは車椅子の向きを変え、トボトボと家へ向かった。
Bad End その1