表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/13

青に生きる 9

 帰宅して夕食と風呂を済ませた後は携帯を開く。連絡する相手は決まって愛生で、この1ヶ月は毎日通話していた。仕事の話から、最近始めた携帯ゲーム、友達のこと、学生時代の思い出。とりとめのない会話は心地よくどんなことよりも心を癒やした。時には、お互いにやりたいことに集中しただ黙っているだけの日もあった。喋らないから通話を繋げる必要はなかったが、どちらも通話を辞めるという選択をしなかった。

 その習慣を中止して2週間。

 愛生から届いたメッセージは、あの夜から更新されていない。携帯画面に表示された時間は8月1日の23時4分で止まっている。何度開いても愛生からの連絡はなかった。

 1人で過ごす時間が愛生と出会う前と同じぐらい確保出来るようになって変化したことがある。まず、彼女の体調と病気に悩む回数が減った。彼女を心配する気持ちがなくなった訳ではないが、今日はちゃんと目を覚ましただろうかと不安を抱えながら目を覚ますことはない。ベッドを抜けてカーテンを開けると、どんな宝石よりも目映い朝日に出迎えられる。澄み切った空気を胸いっぱいに吸い、新たな一日が始まったと胸を躍らせる。店に来て、開店前の準備を進めながらスタッフたちと昨日の出来事や面白かったテレビ番組などの話題で盛り上がる。来店した客と雑談しながらヘアカットやカラーなど希望に沿ったメニューを熟し、外が暗くなると先輩や後輩たちにまた明日と言って自宅に帰る。携帯を常に気にする生活を辞めてから、俄然調子が良くなった。純粋に、仕事が楽しいと思えたのは久しぶりだった。

 充実した生活だ。何の文句もない。良い人たちに恵まれた日々だから、忙しさ故に休憩がなかなか取れなくても苦ではなかった。立ちっぱなしで身体が固まるのだと言い合い、息抜きと称して後輩や同期と共に居酒屋へ行き朝まで飲み明かした。泥酔し、覚束ない足取りで帰宅するとそのまま夜まで寝入ってしまったのだが、どうやら全員同じことをやったようで言い合いになった。だから早めに終わろうと言ったのに、と相手に責任を押しつけ合う会話の何と愚かなことか。二日酔いの状態で出勤すると、先輩たちにこっぴどく叱られた。先輩からもらった飴を皆で舐めながら、また飲みに行こうと笑ったあの日はおそらくこの先の人生で何度も笑いのタネになることだろう。

 間違いなく、幸せだった。だというのに、いつも頭の片隅で考えてしまう。この話を彼女に言ったら。今、愛生に連絡をしたら、笑ってくれるのだろうかと。

 何かあると、誰よりも先に話したいと思う。美味しいコーヒーを飲むと、今度誘ってみようと考える。自分以外の物音がない静かな部屋にいると、声を聞きたいと胸を焦がしている。離れたいと言ったのは自分なのに、再び彼女を求めているのも自分だった。彼女を求めるほどに、付きまとううつ病の存在。最高潮に達した恋慕は、その存在に気付くと急降下していく。まるでジェットコースターのような感情の起伏。無意識に彼女へメッセージを送ろうとしては、薄暗い雲が胸中を覆い送信する手を止めてしまう。たった2週間の間に何度繰り返したか分からないその動きを、今日もまたやってしまっていた。

「何やっているんだ、俺」

 髪をくしゃくしゃに掻き回し、ソファに傾れかかる。

 愛生の病を治したい。その気持ちは嘘ではないが、今まで彼女と刻んできた時間は正しいものなのかという不安が拭えずにいる。彼女の問題は複雑だ。一つは、心を病む原因となった家庭環境。これは、父親と物理的に離れるしか解決しないのではないかと考えている。愛生と交際してからまだ一度も暴力や暴言が発生していないが次がいつ訪れるか分からない。今は虫の居所が良いだけで、今この瞬間に被害に遭っている可能性も否定出来ない。親子間にメスを入れなければ、彼女を救うなど夢物語でしかないだろう。その現実に目を背け、目の前の快楽だけを求めてしまったのが良くなかった。愛生が少しでも元気になればいいとその場しのぎで接したことで、自分が提案出来る「楽しいこと」が尽きてしまい、手を尽くしても改善しない病状にこちらが勝手に苦しくなった。

 彼女に出来ることは無いのではないかと無力感に打ちひしがれているが、そんな暇はないはずだ。家から連れ出して匿えばいい、と言ってしまえば簡単な話に思えるが、父親がもし追いかけてきたらどうすればいいか。結婚もしていない、ただの恋人が家庭問題に踏み込むことで相手が法的手段を講じたら。そんな不安が渦巻いて、考えることを辞めてしまう。

 もう一つ、うつ病を理解することの難しさ。愛生と過ごした時間の中で体調に波があることは分かった。一日元気だったとしてもそれが翌日以降も続くとは限らない。一喜一憂しないように意識しても難しく、例えば彼女の腕に切り傷が増えていた日には酷く落ち込んだ。自分の愛している人が自分を嫌い、傷つけているのはやはり堪える。今のところ自殺未遂のような過激な行為に手を出していないのが不幸中の幸いだ。ただし、いつそれが起きてしまうのかは分からない。綱渡りをしているような不安定な状態で生活を続けると彼女自身も気が休まらず、周囲も疲れてしまう。過度な心配が彼女へのプレッシャーになっている可能性もあるため、自分の心の平穏を保たなければならない。なるべく負担にならないようにと言葉を選び、態度に出さず平静に努めるのは決して楽ではない。

 思考は堂々巡りして前に進まない。どれだけ考えても、愛生への愛情と大きすぎる壁への絶望感で気持ちが定まらない。何度も葛藤して悩めば答えは出てくると信じていたが、どんどん深みにはまり結局正解が分からなくなってしまった。道徳的に正しいのは、世間的に正しいのは、自分の気持ちに一番寄り添っているのは、一体どの選択なのだろう。

 家に向かう足取りは重たい。バイクに乗ればいいのに、何故か乗る気分にならずいつもの倍の時間をかけて出勤した。歩くのが遅くなっているせいで自宅が果てしなく遠く感じ、余計に歩くのが億劫になった。

 深いため息をついた時、携帯が軽快なメロディを奏でた。取り出すと、久しく顔を見ていない相手の名前が表示されている。

「もしもし、照にい?」

『よお。今日暇か? 今から飲みに来いよ』

 タイミングを見計らったような誘いにこれ幸いと二つ返事で承諾した。自宅へと続く道を引き返し照輝の店へと小走りで向かう。店の扉を開ければ、缶ビールを手に持った照輝がカウンター越しに微笑んだ。

「いらっしゃい」

 最後に来た時から何も変わっていない店内の様子に安心感を覚える。店内には彼と、カウンターを隔て照輝の正面に座っている女性しかいなかった。まだ店を開けて1時間だからかいつも賑やかな店は静かだ。

 カウンターの右端にある椅子に座る。女性は自分から2つ離れた右隣の席。適当にお酒を頼んでも、彼女は突っ伏したまま顔を上げない。酔いつぶれているのだろう。

「お前の話になって、そういえば最近顔見てなかったなと思ってさ。急に呼んで悪かった」

「ちょうど飲みに行きたいと思っていたから嬉しいよ」

 作ってもらったカクテルの入ったグラスと缶ビールが合わさり間抜けな音が鳴る。一口呷って隣の女性をちらりと見る。

「俺のこと話していたのか」

 照輝は頷く。未だに動かない女性を見て苦笑いした。

「由梨に愚痴を聞いていたら、お前の名前が出てきたんだよ」

「え?」

 由梨といえば、愛生と居酒屋へ行った日の帰りに、照輝と一緒にいた女性だ。彼女と会ったのはあの日が初めてで、それ以外の接点は何もないはずだが。

 困惑していると、照輝はまあそうだろうなと1人で納得している。

「マッチングアプリだっけ?藍翔も使っていただろ」

「まあ。彼女が出来たし、大分前に消したよ」

「その時に知り合った相手の中に、ユリって女性がいた覚えは?」

 記憶を辿る。そういえば、いた気がする。ユリは自分の顔を写した写真を載せていなかったため後ろ姿しか知らない。会話する中で彼女は頭が良いのだろうと思うほど、知的な雰囲気を持っていた。あくまでチャット上の印象だが。

 隣にいる女性は同じ名前だ。だが、同じ名前を持つ人はこの世にごまんといる。ただの偶然だろうと考えていた。

「ここにいる由梨が、藍翔とマッチした【ユリ】だったらしいぜ」

 率直に告げられた事実に思わず大きな声が出た。その声にぴく、と由梨の肩が跳ねのっそりと顔を上げる。こちらを見た途端に、キッと睨み付けてくる。

「ちょっと、私を振った男が何でここにいるのよ!?」

「え、えぇ……」

「照輝が呼んだのね!? やめてよ、気まずくて美味しく飲めなくなるでしょ」

 開口一番に傷つく言葉を浴びてショックを受けていると、照輝は人の悪い笑みを浮かべていた。

「あんた、性格悪いわね。婚期逃しそうで悩んでいる女性にこんな酷い仕打ちを」

「彼女を断ったのは事実だけどこんな嫌がらせみたいなことしなくていいだろ」

「対面させたら面白いと思って」

「人を玩具扱いしないで!」

「そうだよ、大体照にいは昔から……」

 狭い店に店主である照輝への罵声が飛ぶ。捲し立てる俺と由梨をよそに、涼しい顔でビールで喉を潤す彼に2人の怒りは急速に静まった。

「はあ。まあ、あんたはそういう人よね」

「照にいには何言っても無駄だから」

「人が困る顔を見るのが趣味な男だもの」

 由梨の言葉に全くそのとおりだと頷く。照輝は他人事のように酷い言われようだとけらけら笑った。

「好みじゃなかったらふられるのも当然なのだけど。やっぱり、断られると少しくるのよね」

 ため息を吐いて由梨が言った。

「ふられると言ってもまだそこまで惹かれてなかったけど。むしろ良い子が見つかって良かったわねって思っているし。恨んでいないから安心して」

 聞いてもいないうちから心境を打ち明けてくれる彼女に相槌を打つ。由梨とは毎日連絡をとっていたのではなく、彼女の仕事が落ち着いている日だけだった。それでも、こちらに気を遣って2日に1回は必ず返信をしてくれた。働くのは楽しいが1人で眠るのが苦手で恋人がいる時は心が少し安らぐのだと話していたはずだ。

「結局、私の方は誰とも上手くいってなくてこうしてこの男と飲んでいるわけ」

「……なるほど」

「俺以外に飲んでくれる相手がいないんだよ」

 照輝のからかいを含んだ言葉に、由梨が顔を(しか)め余計なことを言うなと肩を怒らせた。一触即発といった空気に思わず肩を竦め、取りなすために口を開いた。

「気軽に言い合えるのは良いことだから。俺も照にいなら言えることが沢山あるし」

 由梨はまだ言い足りないという表情をしていたが、それもそうねと同意してくれた。

「そういえば、貴方の彼女は今日いないのね」

「確か愛生ちゃんだっけ」

 由梨の疑問に照輝も首を傾げた。続けて、あの子も社会人だろうから偶々都合が合わなかっただけかと照輝に聞かれる。そうだ、と適当に話を合わせれば良かったのに、わざわざ事実を伝えなければと思ってしまう律儀な自分に内心で呆れながら口を開く。

「今、ちょっと距離置いていて。もう2週間連絡していない、かな」

 照輝と由梨は、一度顔を見合わせた。照輝は表情を変えずそうか、と頷き由梨はばつの悪そうな顔になった。

「ごめんなさい。てっきり上手くいっていると思っていたの」

「そんな、謝らなくていいです。気にしないでください」

「敬語は使わなくていいわ。そっかあ。すれ違いか……」

 何か訳知り顔で呟く由梨。照輝は再びビールを飲み、何があったのかといつもと変わらない声音で問うた。

「俺が勝手に悩んでいるだけなんだけどさ」

 ぽつぽつと事情を話す。愛生が病を抱えていること、原因は彼女の家庭にあること、体調が改善しないことなど思い詰めていたことを吐き出した。答えのない迷路を彷徨うあまり彼女のことを考えるのが苦しくなって連絡を絶ったと。

「一緒にいると楽しいけど、愛生の体調が悪くなると全部無駄になった気がして、自分が何をしているのか分からなくなる」

 うつ病を治したい。だがどうすれば良いのか分からない。愛生と出掛けて楽しい時を過ごすことが治療に繋がっているのだろうか。例え愛生が楽しめたとしても次の日には再びマイナスに戻ってしまう。

 彼女と付き合っているのは同情が理由なのではないか。そう思ってしまうほどに自分は迷走している。2週間前、愛生に笑っていて欲しいと、好きだと確かに感じたはずなのに。

 まとまらない思考をそのまま言葉に出した。2人は茶々を入れず真剣に聞いてくれた。空調の音だけが聞こえる室内の沈黙を破ったのは照輝だった。

「藍翔は結局どうしたい?」

 照輝の表情は普段と同じだった。特段悩んでいる様子も、困っている印象も受けない。

「俺は……」

「難しい問題だと思う。それでも大事なのは自分がどうしたいか、今後どうするかってことだけじゃないか」

 算数の解き方を教えるような軽い口調で照輝は続ける。

「話を聞く限り、お前はちょっと考えすぎだ」

「考えすぎ?」

 空になったグラスを受け取った照輝は、背後に並べられたボトルを一つ手に取りグラスへ注いだ。爽やかな水色の液体をコーラで割って差し出されたのはマリブコークというカクテルだ。

「治すとか上手くいっていないとか、そんなのは一般人のお前がやることじゃないだろ」

「それは……そう、だけど」

 冷たく甘いカクテルが喉を滑って火照った身体を冷ましていく。夏になると毎年飲みたくなる一杯だ。照輝が作ってくれるカクテルはどんな一流が用意してくれたものよりも美味しいと頭の片隅で思った。

 自分のやることではない。照輝の言うとおり、愛生の思いを聞いて体調の改善を図るのは医者がやることだろう。昨今はインターネットや本から豊富な情報を得られるがそれでも医学に携わる専門職者に比べれば足下にも及ばない。そんな自分がうつ病を治そうと躍起になっても出来ることは多くない。行き詰まるのも当然と言えば当然だ。

「難しいことは置いといて、自分のことを一番に考えてみるのはどうだ。好きなら好き、一緒にいて辛いなら離れる。自分がしんどくなっているのに付き合い続けるのはお互いにとって毒でしかないから、俺なら別れるね」

「照輝と同意見だわ」

 それまで黙っていた由梨が言った。由梨は、彼女の前に置かれているグラスを撫で深く息を吸った。

「自分が不幸になってまで一緒にいる意味なんてない。自分の人生を一番に考えないと生きづらくなるばかりよ」

 ぐうの音も出なかった。2人の意見はもっともだ。相手を大事に思うあまり自分の首を絞めてしまっては意味が無い。誰かの犠牲の上で成り立つ幸福はないのだから、状況を打開する手段を選ぶしかない。

「藍翔さん、だったわね」

「藍翔で良いよ」

「じゃあ藍翔で。あなたは、彼女の何になりたいの?」

 由梨がこちらを見る。彼女から目を逸らすことは許さないと凄みがあった。

「冷たいことを言えば、藍翔が苦しむくらいなら別れてほしい。俺にとってはその子よりも藍翔の方が付き合いが長いから、藍翔の方が大事だ」

 照輝の抑揚のない声は深く心臓を貫いた。考えないようにしていた選択肢を突きつけられ嫌な汗が背中を伝う。

 同情で付き合っている訳ではないはずだ。最初は。彼女に一目惚れし、確かに一緒にいたいと強く願った。時間が経つにつれて恋心は同情へと歪んでしまった可能性に気付かされ絶句する。自分を犠牲にして愛生の回復を促す。こんなのは健全な恋愛とは程遠い。どうみても狂っているのだから、別れるという選択が正解なのだ。それが正解だと分かっていた。だが、選択肢から目を背け続けた。同情か、愛情か分からない彼女への執着を理由に、付き合い続けることが正しいのだと言い聞かせていた。

「うつ病についてよく知らないから的外れかもしれないけど……彼女のことが大切でそばにいたいなら、それでいいと思う」

 返答に窮していると由梨が軽く背伸びをしながら言った。後頭部で結んでいる長い髪がさらりと揺れた。

「難しいことは分からないわ。でも、貴方たちは治療者と患者ではないでしょう。彼女は不幸があって、偶々病気を抱えてしまっただけで藍翔や照輝と同じ、今を生きる1人の人間よ」

 2人の顔を見ていられなくなり、俯く。カウンターの上で握りしめた拳は力が入りすぎて僅かに震えているのが見なくても分かった。

「誰でも似たり寄ったりな問題を抱えているもんだ。愛生ちゃんはそれが病気だっただけの話」

 そうだ。自分は、愛生をいつからか病人として扱っていた。落ち込み、涙を流すことや辛いと訴えていても病気のせいだと曲解した。病気による症状ではなく、彼女自身の正常な心の動きであると考えなかった。愛生を完璧な健康状態に戻さなければいけないと躍起になった。完璧な人などこの世にはいないのに――――。

 突然、背中に強い衝撃を受けた。じんと痛みを訴える身体に意識を戻されて顔を上げる。照輝は平時と変わらぬ笑顔で

「そういえば、お前は考えすぎる癖があったよなあ」

 と笑った。

 幼い時を思い出して頬が熱くなる。思わず隣の由梨を見ると、彼女は目を見開いたままこちらを見ていた。一拍置いて、我に返ったように照輝を咎めた。

「別に叩かなくてもいいでしょう」

「加減はしたよ。それに小さい時からやっていることだから藍翔も慣れているさ」

「……いや、慣れないよ」

 照輝は悪びれなく笑っていた。由梨が自分の代わりに怒ってくれているから怒りがわき上がることも無く、ただ気が抜けてしまった。四六時中、愛生のために出来ることを考えていた思考が止まったのはいつ以来か。

「一つのことに集中しすぎて視野が狭くなるのは昔から変わらないな」

 まだまだ子どもだなと言わんばかりに照輝は両手を広げた。由梨は苦虫を噛み潰したような険しい表情になっている。

「照輝に言われるとどうしてこうもムカつくのかしら……」

 照輝にもその言葉は届いているだろうが何処吹く風といった様子で店に備え付けてある冷蔵庫から缶ビールを一本取りだした。もう一杯貰うよと俺に向けて缶を掲げたので片手を挙げてそれに応えた。

「分からなくなったら、一回考えるのを辞めてしまえばいい。藍翔が困っている時は大体1人で考えすぎているのが原因。頭の中で考えるから誰にも言えずパンクするのが常だ」

「あら、そうなの?」

 由梨に聞かれ、不承不承に肯定する。得意げな照輝が少し恨めしい。

「小学生の時からテストや友達との関係、成績……行き詰まった時はいつも無駄に考えを広げて結論を見失う癖があるみたいで。大人になっても治らなくて」

「へえ。落ち着いているしクールな子だと思っていたけど案外熱いハートを持っているのね」

 褒めているのかただ感想を述べただけなのか分からないが、ありがとうと曖昧に微笑む。

「愛生ちゃんが大事なのはよく分かったよ。本気で好きになれる相手がまた見つかったのは良いことだよ。あとは、その気持ちにお前がどう向き合うか」

 すっかり氷が溶けてしまったグラスを見る。結露の付いたグラスを持つと、掌に水滴が付いて濡れてしまった。構わず口元まで持って行き冷たいアルコールを身体に流し込んだ。混乱していた頭は随分静かになっていた。

「彼女に、いつも笑っていて欲しい。俺が隣にいなくてもどこかで元気に生きていてほしい」

「本当にそう思っているの?」

 由梨の問いに、躊躇しながら続きを述べた。

「隣にいなくてもっていうのは虚勢かな。……一緒に生きたいよ。何が起きても、どれだけ難しくても。愛生が好きだから」

 覇気の無い声が室内に溶けた。由梨と照輝は、満足そうに微笑んだ。

「その気持ち、そのまま彼女にぶつけてあげなさい」

「手の打ちようがないことでも解決の糸口はある。自分の心に正直になることが最優先、悩むのは後回しだ」

 張り詰めていた糸が緩んだと同時に涙腺も緩んでしまった。鼻を啜ると、好きなだけ泣いて良いけど高く付くぞと照輝に揶揄され、由梨がため息をついた。この数ヶ月忘れていたが、世界は優しいものなのだと今になって思い出したのだった。



 ?

 照輝と由梨に相談をした日から一週間が経った。愛生への思いを改めて認識したら、次にやるべきは彼女へ連絡することだ。もう返事が来ないかもしれないと不安が顔を覗かせるが、強い意志でそれを振り切ってメッセージを送信する。

 朝日が昇り、いつもの癖で一番に携帯を見る。待ち望んでいた名前が表示されているのを寝ぼけ眼が捉えた。慌てて起き上がり全文を表示させる。

『おはよう。ずっと連絡しなくてごめんなさい。沢山考えていたら、どうしたらいいのか分からなくなって藍翔を避けてしまった。いつでも良いから、また落ち着いてお話したいです』

 最初に感じたのは安堵だった。まだ自分たちは繋がっている。それだけで、全ての物事が上手く進んでいるような錯覚を覚えた。寝起きの頭を必死に回転させて返事を送る。都合の良い日を教えてくれたら合わせる、と入力した。

 次に返信が来たのは昼休憩の最中だった。愛生からの返信は連絡が途絶える以前と同じように絵文字付きの文章だった。

『ありがとう。じゃあ、明後日の月曜日でもいい?あと、一つお願いがあるのだけど聞いてくれる?』

 お願い事、という文字に首を傾げながらも了承する。1分も経たないうちに返事がきた。

『実は、髪をまた切ってもらいたいの』

「髪?」

 思わず呟くと、後輩にどうしたのかと声をかけられる。何でも無いと誤魔化すと、興味なさそうに携帯へ目を戻した。

 愛生の髪を切ったのは3月の下旬。5ヶ月の間に髪も随分伸びた。予約の空いている日を伝えると愛生からは、本当に大丈夫なのかと心配されたが問題ないから予定通り来るように念押しした。

 連絡を取った数時間後。日が傾き空は薄い橙色に変わり始めている時間帯に店の扉が開いた。

「あ、あのー……18時で予約した木山です。あ、藍翔」

「いらっしゃい。荷物預かるよ」

 背後から、物珍しそうな視線を感じるが無視を決め込む。久々に会った愛生は記憶している姿より少し覇気が無いように見える。メイクはしておらず、服はスキニーに7分丈のシャツというシンプルな服装だ。目が合うと愛生は微笑むが、すぐに明後日の方向へ逸らされてしまう。数週間ぶりに会ったのに会話もなく、必要最低限の言葉しか交わさない。

 違う。こんなはずではなかった。自然に声をかけ、連絡をとっていなかった間のことを話すつもりだったのに、話し方を忘れたように口は動いてくれない。先輩たちは和気藹々と話しているのに、自分たちだけが重苦しい沈黙に包まれていた。何か話題を、と椅子に掛けた愛生を鏡越しに見た。

「最近、体調崩したりしていないか」

 しまった。当たり障りのない質問をしてしまった。内心で後悔していると愛生は眉尻を下げた。

「元気だったよ。ちょっとだけ切っちゃったけど……でも、一回だけ。傷も浅いから何ともない」

「そうか。元気なら良かった」

 切ったというのは自傷行為のことだろう。それをやってしまう時点で精神的に危うい状態だったのではないかと心配になるが、愛生の表情は朗らかだ。左手首に貼られている絆創膏の下に、おそらく傷口がある。彼女と出会った時には包帯が何重にも巻かれていたのが思い出される。あの時に比べれば状態は回復に向かっていると言えるのかもしれない。何より、痛々しい傷口は跡にならず綺麗に消失していることが嬉しかった。身体に傷跡が残るのは気分の良いものではないから。

「切るのは久しぶりだな」

 話題を変える。愛生は目を細めてこくりと首を振った。

「結構伸びてきちゃった。藍翔ならまたいい感じに切ってくれるかなと思ってお願いしちゃった」

 無理言ってごめんねと謝られるが、元々予約枠が空いていたのでむしろ都合が良かった。愛生は今日夜勤明けだったそうで、朝に勤務が終わり午後からは予定がなく時間を持て余していたようだ。

「どんな髪にしてもらおうか急いで調べたの。どんな髪が似合うか分からないからなかなか決められなかった」

「そうだな。愛生なら可愛い系統が合うかなあ」

「ベリーショートも挑戦してみたい気持ちはあるけど、まだ勇気出ないからこの前より少し短いくらいでお願いしようかなあって」

 自然な流れでヘアスタイルの話題へと移っていき、2人の間に流れた気まずさも緩和された。自分の調子を思い出し、こちらのペースで話を進めた。

「どのぐらい切りたい? 写真があると助かる」

 愛生は手に持っていた携帯を操作して一枚の写真を表示させた。覗き込んで、画面の向こうで微笑む女性の髪型に思わず声をあげてしまう。

「そんなに切っていいのか」

「うん。この長さが良いな」

「愛生が良いなら・・・・・・思い切ったな」

 前回は胸元まである髪を顎先までの長さでうなじを半分覆うくらいのショートボブに仕上げたのだが、今回は更に短くしたいと言う。全体を丸みのあるラインに整え横髪は耳に掛ける長さに、前髪は大人っぽい印象を与えるシースルーバング。

「似合わないかな」

 困った顔で首を傾げる愛生に、そんなことはないと首を振るが、内心で頭を抱える。

 近年はロングヘアが流行と言われているためショートカットにしたいと希望する人は一時期に比べると少ない。周りの子が伸ばしているから流行に振り回されず思い切って切りたいと言う人もいるが、後々アレンジが難しいことに気付き後悔した客もいる。勿論、ショートヘアを楽しんでいる者が大半のためいらぬ心配だと思うが。

「ここまで切ったら暫くロングに出来ないよ」

 念のために確認すると、愛生は目を輝かせ力強く頷きよろしくお願いしますと目を細くした。

 春に愛生の髪を手掛けてから数ヶ月。当時より伸びた毛先は肩に軽く触れる長さとなっている。愛生が希望する長さに切れば、この長さに戻すまで10ヶ月以上かかるだろう。髪型は自分らしさを表現するものだ。美容師が安易に手をかけていいはずもなく、本人の意志に最大限寄り添わなければならない。あくまで持論だが。

 愛生は自分の髪を右手で何度か軽く梳いた。ツヤのあるそれはさらさらと彼女の指から滑り落ちる。一瞬だけ目を伏せたが意を決したように鏡越しに見つめられた。深呼吸の後、首を縦に振り再び微笑んだ。

「新しい自分に会ってみたいの」

 春先に愛生が『Illusory Hair』へ来た時に話したことが脳裏に蘇る。一度短くすると今の髪に戻るまで時間がかかるがそれでも良いか、と聞いた。それに対し、彼女は数秒の間逡巡し頷いたのだ。

『自分じゃない自分……新しい自分に、会ってみたくて』

 これが彼女の本性か。

 来店時からどこか自信のなさそうな表情で、周囲を気にするように目を泳がせていた愛生が真っ直ぐに鏡の自分を見つめた。自分は変わるのだ、生きるのだと叫んでいた。今、目の前にいる愛生の表情が過去の彼女と重なった。

 人は絶えず変化している。その一つに、容姿がある。メイクやファッション、髪型に体型、近年需要が高まっている整形など手段は様々だ。常日頃から意識している人は勿論のこと、今まで関心がなかった客も皆同じ言葉を口にする。新しい自分になりたい。その思いは切実で、どれをとっても尊いものだ。美容師は、自分は、彼らの背中を押すために存在している。他の美容師がどんな志を掲げているか知らない。だが、この店に従事する者は同じ気持ちだ。来店した者の人生を輝かせたい。

「きっと似合うよ」

 彼女の首にタオルを巻きながら言うと、愛生の口元が綻んだ。

「可愛くしてね」

 タオルの上からケープで覆い、ブラシで髪を整える。愛生が用意した写真を見ながらどこまで切るか髪に触れながら確認する。黙々と進めていると、おずおずといった様子で愛生が口を開いた。

「ねえ、聞き流してくれていいから喋っても良い?」

 手は止めずにちゃんと聞いているから大丈夫だと告げる。愛生は小さく頷いて話し始めた。

「3ヶ月前に話したこと、覚えている?」

「うん」

「藍翔の幸せを考えたら、やっぱり離れるべきだって改めて思った」

 愛生の髪に触れた指先がひりつく。じわじわと焼かれているような感覚を味わいながら手は止めない。

「私が浅はかだったせいで藍翔を苦しめてしまった。藍翔と一緒にいる資格なんてないよ」

 そっか、と返すのが精一杯だった。仕事中は話題をこちらから振って会話を盛り上げるスタンスのはずが今はそれが出来ない。何かで締め付けられているように喉が苦しく、言葉を紡げない。

 愛生の気持ちは分かる。正しくは分かったつもりでいる。病気、それも身体ではなく目に見えない精神疾患。目に見えて治ったか分からない上にうつ病はそもそも完治しない。症状が消失して寛解するのが限界だ。例え寛解しても再発する可能性が常に付きまとう。薬を飲めば改善するという簡単な話ではないため気が抜けない日々が続くだろう。彼女はそれを覚悟して生き続けなければならない。また、彼女のパートナーとして生きる自分も。

 自分がしんどくなっているのに付き合い続けるのはお互いにとって毒でしかないから、俺なら別れると照輝は言った。知識も十分とは言えず、また経験もしたことがない支援を行うのは誰だって難しいのだから無理に背負うなという意見は至極真っ当だ。

「藍翔の負担になりたくない。私といるせいで苦しい思いをさせてしまうのは嫌」

 彼女が吐露した思いと同じものを自分も抱えている。彼女が苦しむなら、自分といることで病と闘うことになり苦しませてしまうのは嫌だと。

 お互いに、相手のことが大事という気持ちは一緒なのだと気付く。

「でも、でもね……藍翔と別れるのは、嫌なの」

 愛生が顔を歪めた。声が僅かに震えている。

「藍翔に連絡出来なくなるのが嫌。美味しいものを食べた時に、今度一緒に行こうって言えなくなるのが嫌。何でもない時に手を繋いで、近くの公園に遊びに行けなくなったりするのが、嫌」

「……俺も、そうなるのは嫌だな」

 鋏で愛生の髪を切る音がやけに大きく聞こえる。愛生は、暫く目を伏せて沈鬱な表情で黙り込んでいた。横髪の調整を終えた時に彼女から再び口を開いた。

「死にたいって言い続けているのに、一丁前に恋愛したいと思うなんて矛盾しているよね。自分でも笑っちゃう」

 何と返せばいいのか分からず黙っていると、愛生は話を続けた。

「友達にね、話したんだ。自分といるせいで大切な人を苦しめてしまうから別れようと思っているって」

 彼女の言葉に間違いはなかった。付き合いたての頃は戸惑いなどなかったというのに、今は彼女を思うあまりに自分のことも見失った。何をしようにも必ず病のことが脳にちらつき、もし体調が悪かったら、気分が落ち込む日だったら、自傷行為をしていたら、連絡が途切れてそのまま返ってこなくなったら。朝に目覚めた時、世界から彼女がいなかったら。

 最悪な想像ばかり浮かんでは消えていく日々。愛生が苦しむ姿を見ると息が苦しくなる。愛生を失うのではないかと目を閉じるのが怖い。彼女のおやすみを聞いてから、日が昇るまでの時間が恐ろしい。目を開けて一番にやるのは、携帯を開いて愛生におはよう、と連絡を入れること。愛生の仕事は不規則なシフトであるため、昼間に起きる日もある。返事が遅くなることも理解しているがそれでも既読の文字や返事のない時は心臓が冷える。ちゃんと返事はくると自分に言い聞かせながら仕事して、休憩時間に携帯を見て、胸を撫で下ろすのだ。そろそろ休憩だよね、午後も頑張ってという無機質な文字は世界中にあるどんな物よりも心を宥めてくれた。

 そんな日を何度繰り返しただろうか。そして、これから何度繰り返すのだろう。

「病気のせいでって言うのは言い訳でしかないけど。病気がなかったら、もっと藍翔を笑顔にしてあげられるのに。私のことで一緒に悩ませることもないのに。私が……私以外の誰かだったら良かったのに」

 ずきずきと胸の辺りに鈍い痛みを覚える。愛生は静かに微笑んだまま、されるがままに髪を切られている。こうして話している間も手元が狂うことはないのは幸いだった。

「でもね。友達は、私に怒った」

 愛生は苦笑いした。

「馬鹿なこと言わないで、愛生は愛生だから良いの、病気だからって自分の人生を諦めなければいけないのはおかしいって」

 鏡越しに愛生の目を見る。彼女の目はいつもと変わらず、瞳の奥に炎を飼っていた。一目見ただけで惹かれてしまった強い輝き。何度水をかけられても決して消えることなく燃え続けてきたのだろう魂がそこにあった。

「現実的に言えば諦めなきゃいけないことはあるよ。病気になっていない人に比べると出来ないことは色々あるから。でも……病気があっても自分の人生を諦める必要はないなんて、考えたことなかった。私はうつ病だからやったら駄目、みたいな考え方していたの」

「そんなこと」

 思わなくて良い。照輝と由梨が話していたとおり、彼女のように傷を負った人も、他の人々と同じ1人の人間だ。誰もが自分らしさを追求して生きていくものだ。一緒に遊びたい友達と出掛けて、愛する人と手を繋いで、大事な家族と食卓を囲む。やってみたいことに挑戦して、ゲームで全滅してももう一度やり直して。

「愛生は愛生のやりたいことをして生きていい。俺もその友達も同じだ。皆、やりたいようにやっている」

 思わず手を止めて噛みしめるように告げる。気分を害することなく、愛生は嬉しそうに笑った。

「そうだよね。友達に怒られて思ったの」

 止めてしまった手を再び動かす。愛生の足下には切った髪が散らばっている。肩まであった髪はすっかり短くなりうなじが露出するほどの長さだ。全体のカットは終わったため、後は前髪を整えるだけ。髪を洗って最後の調整をすれば終了となる。

「私ね、藍翔と一緒にいたい。藍翔のことが好き。私に何が出来るのか分からないけど藍翔を少しでも幸せに出来たらきっとすごく嬉しい」

 愛生が小さく息を吸う。一瞬、世界が2人だけになったように、周りの音が消えた。

「私、もう一度……今度はちゃんと、藍翔と向き合って生きてみたい」

 カットが終わり、鋏をワゴンに入れる。鏡を見た愛生が声をあげた。

「すごい。写真と同じになった」

「シャンプーするからこっち来て」

 顔を左右に振って髪の長さをまじまじと見ているのが可愛い。椅子を回してシャンプー台へと促すと軽い足取りで移動した。

「短くなったから髪を洗うのが楽になるね」

「楽すぎて感動すると思うよ」

「そんなに? ずっと長かったから想像つかない」

 泡を流し、タオルで髪の水分を拭く。愛生は再び椅子に腰掛けて自分の髪を見ていた。

「乾かすのも簡単そう」

「そりゃあもう」

 ドライヤーで根元に風を当てる。短い髪は跳ねやすいが、頭上から風を当てれば癖がつきにくいことを説明しながら乾かして、最後の仕上げに入る。

「横の髪は耳にかけてもかけなくても良いな。耳にかけると大人っぽくなるし、下ろしたら小顔効果ある」

 ヘアアレンジの説明を愛生は何度も頷きながら聞いた。ショートヘアのためアレンジの種類は少ないが、前髪を巻いたり片側に寄せたりと出来ることはある。自分らしい髪型を見つけてくれたらいいと思った。

 愛生の首に巻いていたケープとタオルを外して適当にワゴンへと置く。愛生がありがとうと言い満面の笑みを浮かべた。

「美容師さんって凄いね。魔法が使えるから」

「魔法?」

 現実感のない言葉に首を捻る。片付ける手は止めずに愛生を見る。

「今までと違う自分を作ってくれるでしょう? 魔法みたいだなって」

 担当していた客の対応を終え偶々愛生の横を通りかかった後輩が吹き出した。愛生の顔が真っ赤になる。

「藤島先輩、いつの間に魔法使いになったんすか」

「うるせえ。盗み聞きするな」

 ケラケラと笑う彼を追い払う。恥ずかしさから耳まで熱くなってしまい手で顔を仰ぐ。首まで真っ赤に染めた愛生は体を縮こまらせていた。

「ご、ごめんね。馬鹿なこと言っちゃって」

「いや。嬉しいよ。ありがとう」

 互いに赤面しているこの状況に、先輩たちもこちらをちらりと見ては笑いを堪えている。キャラに合わない褒め言葉をもらっている自覚はあるがそこまで笑わなくてもいいだろう。

 一つため息を吐くと、愛生がこちらを見上げていることに気付く。その手には携帯が握られていた。

「ね、ね。写真撮ってもいい?」

 真新しい玩具を見つけて好奇心に目を輝かせる子どものような表情をする愛生。微笑んで、いいよと堪えれば口角を上げた。

「ありがとう」

 鏡に映る自分へ携帯のカメラを向け一度画面をタップする。シャッターの音が鳴り一瞬液晶が白一色に染まるがすぐに元の画面に戻った。撮ったものを見返して満足そうに頷く愛生に手を差し出す。愛生は俺の手を見て、意図を掴みあぐねているのか首を傾げた。

「後ろも撮ってあげるよ」

「いいの?やったあ」

 差し出された携帯を受け取り、愛生に再び鏡を見てもらうように促す。背筋を伸ばした愛生の背後にまわり何度かシャッターボタンを押す。横顔も何枚か撮って携帯を返した。

「こうして見ると短くなったなあって実感するね。春までこのぐらいまであったのに」

 胸の辺りを示しながら写真を見ている彼女に同意しながら店の入り口へ誘導する。会計を済ませてからバッグを手渡し入り口のドアを開けた。

「もう暗くなっているから気をつけて」

「うん。藍翔はまだやることあるよね?藍翔も気をつけて帰ってね」

 エレベーターの扉が開く。愛生だけが乗り込みこちらを振り向いた。

「次会うのは、月曜日だね」

 頷いて軽く手を振る。愛生は少しほっとした様子で微笑み手を振り返してくれた。静かにエレベーターが閉まり、階層を示すランプが店のある階から1階へと切り替わっていくのを見届け店内へ戻った。

 考えるまでもなく気持ちは既に固まっている。照輝たちにすべてを吐き出したあの日から。否、愛生へ伝えたい想いは、最初から変わっていない。ただ、彼女が笑って生きていることだけが、自分の願う全てだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ