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青に生きる 8

 目を見るのが苦手だった。

 正面から見つめられると、見透かされている気分になるのだ。不器用で、見窄らしくて、惨めな自分を見て、嘲笑されるのではないかと恐怖を覚える。そう思うようになったのはいつからだろうか。

 私の靴を投げるふりをして、冗談だよと笑う彼はどうだろう。

 初めて会った時は、他の人と同様に怖かった。彼なら平気だと信頼したきっかけは、一緒に海を見たこと。彼の目を見ても、言葉を使って自分を曝け出しても、彼は笑わなかった。遮らず、頷いて、彼自身の思いを教えてくれた。

 立ち尽くす自分に声をかけてくれた友人もそうだった。纏まらない話を、目に涙を浮かべて聞いてくれた。

 最近、少しだけ考える。

 世界は、自分が思っているよりも優しいのかもしれない。


 *


 初夏を過ぎると、夏がやってきた。例年と変わらない長さの梅雨を乗り越えた途端、猛烈な暑さに襲われた。湿度の高い暑さに比べれば、からりと渇いた日の方が過ごしやすいとはいえ、暑いことには変わりない。通勤時は額に汗を浮かべ、仕事中は冷房が欠かせない。当然ながら、客も汗だくでやってくる。タオルが手放せないと皆一様に苦笑いを浮かべていた。いつにも増して暑い、と言うのが既に口癖になってしまっていた。

 愛生と迎える最初の夏は、遊び尽くすと決めていた。今まで屋外に遊びに行った経験が殆どないと話す愛生に、色々なものを体験させようと考えた。王道である海水浴から近年流行りのグランピングに水族館など、県内では有名なスポットを調べ尽くした。愛生は弾んだ声で楽しそうと言ったが、躊躇した様子で、私と一緒に過ごして楽しめるかなと言っていた。行ってみないと分からないよ、と告げて夏が始まった。

 毎週月曜日、午前中に病院を受診した愛生を正午過ぎに駅へ迎えに行く。梅雨の間は公共交通機関で遠出していたが、ある月曜日を境に月曜日へ変えた。その週は、久々の晴れだが何をしようか決めあぐねていた。昼食を2人で済ませて、さてどうしようかという時に愛生が言った。

「バイクの後ろに乗れるようになったら、楽しいかな」

 へえ、と感心した。初めて乗った時に憤慨していたためもう乗りたくないと思っているだろうと推測していた。彼女は控えめで、大胆な行動を好まない傾向がある。生育環境も相まって、新しいことに挑戦することを避け現状維持を好む。そのため、出掛けようと提案しても最初は否定から入る癖がある。彼女が望むならやめておこうかと一時は思案したが、それでは変化が少なく面白くないと考え直し最近は強引に彼女を外に連れ出している。カフェに行くことさえ否定的だったのが、自分がいる時であれば目についたお店に自ら立ち寄るようになった。

 小さな積み重ねが功を奏したのか、愛生の口からバイクに乗れたらという言葉を引き出した。この機会を逃すわけにはいかないとその日は2人乗りを試した。乗降に始め、基本姿勢など一つずつ教えた。一度強引に乗せたこともあり、身体が覚えていたのか問題なく乗れるようになった。

 バイクを降りて公園のベンチに座って額の汗を拭う彼女に、園内の自販機で買ったペットボトルに入ったジュースを差し出す。ありがとう、と言い愛生が受け取る。

「上手に乗れてた?」

 愛生の質問に頷き、ばっちりだよと返す。その言葉に愛生は笑顔になった。

「よかった。自転車と同じって言い聞かせて乗っていたら、ちょっと楽しかった。まだ怖いけど」

「上出来だよ。怖いのはそのうち慣れていくから大丈夫」

 初めて乗った時、自分も最初は恐怖心が抜けなかったことを思い出す。ただ、それを上回る高揚感があった。教習所で失敗した回数など覚えていないが、絶対に乗りこなしてみせると躍起になったものだ。教官には、大人しそうに見えて熱血だなと笑われた。

 そんな話にも、愛生は笑った。

「藍翔、見かけに寄らず熱いよね。私もクールな人なのかなって思っていたよ」

「そうか? 見た目どおりの人間だよ」

「見た目からは分からないよ。藍翔の性格は」

 首を傾げてみせると、くすくすと笑う愛生。

 他愛のない会話も、すっかり当たり前のことになった。彼女と過ごした時間が増える度、愛生を知ることが出来た気になる。実感すると、より彼女を愛おしく感じた。

 愛生の体調は一進一退といったところだ。仕事は継続できているが、調子の良い日もあれば連絡するのも億劫な日があった。父親からの暴力や暴言も最近は起こらず、自傷行為もしていないことは不幸中の幸いだ。無理矢理やめさせるものではないらしいが、自傷するきっかけになる出来事はなるべく起きない方が良い。この状態が長く続けば、自傷行為そのものを克服できるかもしれない。

 最近の愛生は息を殺して同じ家に帰り、なるべく顔も合わせていないようだ。父親の視界に入らないように今まで以上に気を遣いながら過ごすのは苦痛だろうが、彼女は叩かれるよりましだと言った。

 そして、その父親にも変化が現れた。知らない女性を家に招いているのだ。夜中に目を覚まし、水を飲もうとリビングに行こうとした時に、父親のいる部屋から女の声が聞こえたそうだ。中は覗き込んでいないが、2人で談笑していたという。

 愛生はショックを受けたのではないかと心配になったが、彼女は平然としていた。取り繕っているだけなのかもしれないが、良い人が見つかって幸せになれるならそれでいいと思うと言っていた。それ以上は口を開かなかったため追求しなかった。

 一見穏やかに見える日々。いつ崩れてしまうか分からない。一時的な平穏だとしても、その間に愛生の体調が良くなればいいと考えた。楽しいと感じる時間を増やし、愛生が元気に過ごせるように少しでも力になりたかった。

 日が暮れる前に、愛生をバイクに乗せて自宅近くまで送り届けた。愛生は微笑んで、また連絡するねと言って背を向け歩き出した。

 明かりの付いていない家に1人で歩いて行く彼女を見届けて、嘆息する。

 果たして、自分たちのやっていることは正解なのだろうか。現実逃避のために、一時的な快楽を求めているだけなのではないか。そんな後ろ向きな考えが浮かぶが、頭を振って追い払う。

 自分たちに出来ることを出来る分だけこなすしかないのだ。自分を奮い立たせて、再びバイクを走らせた。


 愛生がバイクに乗れるようになった日から2週間後の月曜日。梅雨明けしたとの報道は耳に新しい。湿気による纏い付くような暑さが嘘のように乾いた空気だ。出掛けるにはぴったりの天気と言える。

 晴れたら二人で行ってみようと話し合っていた場所へと出向いたのだが、夏休みに入ったこともあってか混雑していた。愛生と二人でチケット売り場へ並び、長蛇の列を見てこっそりとため息をつく。客が殺到する開館時間ではない昼過ぎの時間帯だというのに入場まで15分も待つことになるとは思わなかった。隣の愛生は建物を見上げ物珍しそうにしていた。

「水族館は来たことあるか」

 問いかけると、愛生はこちらを見上げて首を左右に振る。

「ないよ。お母さんが人混み嫌いだったからこういう場所には行かなかった」

 彼女の表情に影はない。悲しいことだと受け止めたら彼女への同情で今日を心から楽しめなくなってしまう。そっか、と相槌だけ打った。

「初めて来たならきっと楽しめるよ」

 愛生は笑顔で頷いた。

 訪れたのは県内にある水族館。旅行客も多数訪れる、地方では大きな水族館として有名だ。ニュースやバラエティ番組でもよく取り上げられるこの場所は集合場所の駅からバイクで40分ほどの距離にある。水族館のすぐ近くに海があることでも好評だ。

 数ヶ月交際して分かったことだが、子どもの頃から両親に遊んでもらう機会がなく、また友人関係も乏しかった彼女は外に出て遊ぶ方法を知らなかった。そのため、折角2人でバイクに乗れるのだからと遠くへの外出を提案したのだ。愛生は、最初こそ楽しめるだろうかと躊躇していたが、いらぬ心配だったようだ。

 前に並んでいた家族連れがチケットを受け取り館内へ進むのを見送って自分たちも購入する。イルカやペンギンなどが映った可愛らしいデザインのチケットに愛生は喜んだ。

 館内にまず現れるのは明かりの少ないエスカレーター。スタッフが足下に気をつけるように注意を促している。

「真っ暗なのはどうして?」

 愛生の疑問に、以前来た時の記憶を掘り起こして答える。

「深海をイメージしているとか言っていたかな。この先は日の光が届く明るい海らしい」

「へえ。何だかわくわくするね」

 エスカレーターを降りた先は広い空間となっている。天井の明かりは最低限しかなく、水槽の中だけが明るい世界となっている。

「最初は川魚、次に海の生き物だったかな。魚以外にも亀もいるよ。深海魚も」

「そうなんだ。……凄い、沢山いるね。口がぱくぱくしていて可愛い」

 愛生のテンションは既に最高潮に達しているようだ。水槽に額を付けてきょうだいや親に言葉にならない声をあげる子どもたちに負けず劣らず愛生は水の中で暮らす彼らに興奮した。魚の名前や生態などの説明を読み上げては感想を述べ、凄いね、面白いねと笑っている。

「まだ序の口だよ。この先はもっと凄い」

 愛生の期待に満ちた瞳で見上げられると、否応なく心臓が高鳴る。近頃は彼女の境遇に鬱屈とした感情ばかり抱いていたため、純粋なときめきは新鮮な気がした。愛生にそんな感情をちゃんと抱けることが無性に嬉しかった。

 愛生と一緒に水槽を眺め、一つ一つ説明を読みながら館内を進む。子どもから大人まで、皆一様に水の世界を楽しんでいる。子どもと同じように歓声を上げ、時には声をあげて笑う。それを知ってか知らずか、水槽の向こうでは優雅に魚たちが泳いでいる。

「水族館、楽しいね。もっと早く来ればよかった。知っていたら何度も通っていたのに」

「これから毎年でも毎月でも行けば良いよ。幾つになっても楽しめる場所だからさ」

 幼い時に知っていれば、と残念そうに言う彼女を宥める。過ぎた時間は取り戻せない。だが、大切なのは過去ではなく今と未来だ。悔いの残った過去を見て嘆くのではなく出来ることを探すのだ。これからを考えるだけでなく、出来なかったことがあったからこそ今得られるものを見つけたらいい。人より難しい問題を抱える愛生だからこそ出来ることを、楽しめることを。

「愛生はこれからだよ」

 可憐に踊る熱帯魚から顔を上げて、俺を見つめる愛生。ふっと口元を綻ばせてこくりと頷いた。

「そうだ、イルカっているの?」

 手をぽんと叩いて聞く愛生の目は一際輝いている。入場口でチケットと共に手渡されたパンフレットを開く。隣から覗き込む愛生にも見えるように冊子を少し彼女の方へ向けた。

「この先だな」

「鮫とかエイとかいる水槽の先かな」

 海月やクリオネがふよふよと舞う水槽も眺めてから周りの来場客と同じ方向へ進む。少し歩いた先は階段になっており下の階へと続いていた。降りた先に、再び開かれた空間が現れた。床から天井まである大きな水槽。横幅も大きく四方から眺めることが出来る。多くの人が立ち止まり水槽を眺めており、中で泳いでいる生き物たちを指さし携帯のカメラを向けていた。

「大きい水槽だね。あ、鮫がいる。小魚も沢山いるね」

「何度見ても凄いな……」

 海を切り取ってそのまま持ってきたのではないかと思うほどの規模だ。他の展示と同様に水槽の中だけが明るく照らされている。程よい暗さのため、水の世界はより幻想的に見えた。実際の海もきっとこんな景色が広がっているのだろう。

「わあ。大きいねえ」

 目の前を名前の分からないエイが通った。人よりも大きいそれは身体を波打たせてすいすいと泳いでいる。おお、と驚いていると愛生が指を差して笑った。

「お腹の部分にあったのって、顔なのかな。可愛い顔だね」

 愛生の言葉に、いつかテレビで解説していた言葉を思い出す。

「あれ、目に見える部分は鼻の穴だよ。その下にあるのは口で、目は表面にある。見えにくいけど」

「えぇ、鼻なの?どう見ても目なのに」

 愛生は近くを泳いでいるエイに目を凝らす。そして、本当だと声をあげ驚いた。

「小さい目がある」

 その隣で、子どもがエイの白い面を見て叫んだ。顔がついている、面白いと背後にいる両親を見上げた。母親は笑い、父親があれは顔じゃないよと説明した。

 その様子を見て愛生は気まずそうに俯いた。その顔が赤く染まっていることに気付き盛大に吹き出してしまった。

「わ、笑わなくてもいいじゃん」

 愛生は頬を膨らませて仏頂面になった。なかなか笑いが収まらず片手で口を覆うと、愛生にぺちんと肩を叩かれた。

「だって知らなかったもん」

「ごめん。可愛いなって思っただけ」

「何それ」

 ぷいっと顔を背け足早にその場から離れる彼女を追う。

「ほら、この先にイルカがいるよ」

 指を差した先には、先程より天井は低いが横に広い水槽があった。中には、真っ白な身体で気持ちよさそうに泳ぐシロイルカが5体いた。一頭だけ身体が小さく、一回りほど大きいシロイルカの後を追って泳いでいる。

「白いイルカ?」

「全国で数カ所だけ飼育されているとか聞いたよ」

「じゃあ珍しい子なんだね」

 こちらが見えているのか、水槽に近づいた自分たちをじっと見ている。目が合った、気がしたがふいっと逸らされてしなやかな動きで離れていった。

「可愛い顔。マシュマロみたいな顔だね」

「柔らかそうだよな」

 水槽の前に立ち指さす3人組の女性に2頭のイルカが寄ってきた。1人が腕を動かすとそれを辿るようにシロイルカが顔を動かしている。可愛い、と黄色い声が上がるとシロイルカはくるりと身体を一回転させて水面へと上がっていった。

「賢いのかな。可愛いねえ」

 愛生が頬を緩ませた。締まりのない顔に、先程の目が合ったシロイルカの顔が思い浮かぶ。緊張感のない雰囲気がそっくりだと言えば彼女は再びむくれるだろう、と暢気に考えた。

 暫く眺めた後、ペンギンやカワウソといった生き物たちを見て回り最後の水槽に辿り着いた。そこにいたのは大きな身体に虎のような模様を持つ動物が4匹。

「あざらしだぁ」

 愛生が小走りで水槽に飛びついた。つぶらな瞳は夜を思わせる深い黒色を持ち、短いひれと己の身体を器用に使って飛ぶように泳いでいる。何度か来たはあるが、思えばまじまじとこの動物を見たことはなかったように思う。

「ゴマフアザラシだね。北海道とか寒い地域で暮らしている子たちだよ」

「へえ。詳しいな」

 入場してから見る物すべてに新鮮な反応をしていたため、知っている生き物がいることに少し驚く。愛生は何故か誇らしい表情だ。

「子どもの時に拾ったぬいぐるみがゴマフアザラシの赤ちゃんをモデルにしたキャラクターなの」

「だからあざらしだけ知っているのか」

 頷く愛生。2人であざらしを見上げる。頭上を泳ぐあざらしも、こちらをじっと見つめ返してくる。水面に浮上したかと思ったら、今度は自分たちの目線の高さまで潜ってきた。身体を回転させながら自由気ままに泳ぎ、定期的に水面へと戻っていくのを繰り返した。

「丸くて可愛いよね。きゅるんとした顔も可愛い」

「しっかり見たのは初めてだから知らなかったけど確かに可愛いな」

「でしょう?」

 小躍りしそうな勢いで言う愛生は、水槽越しにあざらしへ手を振った。あざらしは他の客へと気を取られていた。カップルであろう男女にひれを揺らしている。

「私のところにも来てくれるかな?」

「待っていたら来るよ。ほら」

 言うやいなや、眼前に一頭が姿を現した。愛生が歓声をあげる。あざらしは愛生を見て、まるで首を傾げるように左右へくるくると身体を振った。

「遊んでいるのかな」

「そうかも」

 愛生が手を掲げると、あざらしは愛生の手を見上げた。わあ、という愛生の声と同時に彼女が腕を時計回りに動かした。あざらしは掌を追って大きく身体を動かした。喜びと興奮の混じった声で愛生がはしゃいだ。

「すごい、見えているみたい!」

 おお、と感動していると彼、もしくは彼女は一度水面へと戻った。少しして再び自分たちの前にやってきた。目線の先は先程まで追っていた愛生の掌。期待に応えるためにもと愛生が手を動かせば、あざらしがついてくる。

「餌だと思われているな、これは」

 爛々と輝いているように見えるあざらしの目を見て呟くと、愛生は渋面を作る。

「夢のない分析……」

「現実的だと言って欲しいな」

 苦笑してあざらしを見る。こちらの様子に気付くこともなく、夢中になって愛生の手を追い続けている無邪気な生き物。

 ふと、自分が穏やかな気持ちになっていることを自覚した。愛生のことを考える時は常に靄が付きまとい、正解のない迷路を彷徨って悩み続けていたのに今はどうだろう。微塵も悩んでいない。何を迷っていたのかと笑ってしまいたくなるほど心はすっきりと晴れている。曇りのない、たった一つの想いだけがそこにあったことに気付いた。

 愛生に笑っていてほしい。

「藍翔」

 愛生が下から俺を見上げていた。我に返って、ぼんやりしていたと取り繕う。特に気にすることもなく愛生はにやりと悪い笑みを浮かべた。

「さては、愛生ちゃんに見とれていたのね」

 瞬きして、愛生を見る。

「愛生も冗談言うのか」

「……今のなし! 聞かなかったことにしてっ」

 背中を向けて歩き出す愛生の耳が赤い。性に合わないことをしてしまったと背中で語る姿が愛おしい。

 彼女に、笑っていてほしい。その隣にいるのが自分でなくてもいい。快晴の空を想起させる笑顔は何よりも恋しくて。

 愛生が、うつ病など抱えていなければいいのにと、思ってしまった。


 *


 アシカショーを楽しみ、お土産コーナーで各々欲しいものを購入した後のこと。館内の音楽が陽気なものからどこかで耳にしたことのあるクラシックに変わった。周囲には数えるほどしか客がいないのも合点がいく。愛生は辺りを見て、不安そうだった。

「もう閉館の時間?私たちも出た方が……」

「いや、大丈夫。まだゆっくり出来るよ」

「え? でも」

 困惑する愛生に、兎に角もう少し楽しもうと諭す。納得していない表情で目の前にいるシロイルカを見上げた。

 一度水槽の奥へと姿を消し再び愛生の前に現れたシロイルカ。水槽に口と思われる部分を擦りつけている様を見て、愛生が破顔する。

「来てくれた。遊んで欲しいのかな?」

 愛生は両手を振って、やっほーと言う。呼応するように首を左右に振るシロイルカ。その横から、小柄なシロイルカが現れて愛生は先程より高い声を出した。

「この子たち、名前はあるのかな」

 水槽の近くに、シロイルカの生態と名前が書いてあるパネルがあった。子どもとその両親は横並びに飾ってある。

「父親はニコ、母親がベル、子どもはティナで性別はオス」

「へえ。ティナって名前なのね。隣の子はお母さんなのかな」

 愛生の隣へ戻り親と思われるシロイルカを見る。写真と見比べてみても、父親なのか母親なのか全く判別出来ない。分からないな、と2人で首を傾げた。

 時間にして5分ほど2頭のシロイルカと戯れていると、愛生が背後を振り返る。自分たちの後ろには、既に誰もいなかった。水の音と自分たちの声、そして流れ続けている館内の音楽だけが聞こえる世界になっていた。

「他の場所はどうなのか知らないけど、ここはちょっとした貸し切り状態が楽しめるんだ」

 愛生が俺を見上げた。彼女に微笑んで、水槽の前に備え付けられている一つの長いすに腰掛けた。愛生は立ったままこちらを振り返る。

「どういうこと?」

 水槽の明かりで逆行になった愛生の表情は暗くてよく見えない。その声音が強ばっていないことを確認して話し始める。

「子どもの時、両親にこの水族館へ連れてきてもらったことがあってさ。昼間に着く予定が、渋滞に巻き込まれて到着が随分遅れたんだ」

 長時間、車で過ごしたストレスと閉館時間まであと1時間半しかないことに機嫌を損ねた幼い自分は、長い時間入れないならもう帰るとぐずった。両親は短い時間でも楽しめるからと俺を慰めて泣き喚く俺を抱き入場した。機嫌を取ろうと色々な展示を見せてくれたが、一度始まった不機嫌はなかなか収まらなかった。抱き上げてくれたのに、わざと見ないように顔を背けていた。2人の困り果てた顔に罪悪感を抱きながら、それでも気持ちは静まらなかった。

 休憩しようと館内に設置されている椅子へ腰掛け、暫くの間ぐずる自分の背中を母が撫でてくれた。ショーも全て終わってしまった時間帯に楽しめることは少なく、両親はお手上げだったそうだ。

 館内の音楽が変わったことに気付いて顔を上げる。明るい音楽から、どこか切なさを覚える美しいメロディに切り替わっていた。辺りを見渡すと、出口に向かって大人たちが去っていき、自分と両親しかその場所にいなかった。

 水槽の前で話を聞いていた愛生が隣に腰掛け、続きを促した。

 皆が帰っていることに気づき自分たちも出なくていいのかと問うた。両親は、まだ閉まる時間じゃないから大丈夫だと笑って、俺の頭を撫でた。

『この時間帯は、貴方の貸し切りよ』

 貸し切りという言葉の意味は分からなかった。ただ、殆どの客は既に帰ってしまい自分たちだけが展示を見ているという状況なのは分かった。水槽の前まで手を引かれ待っていると、どこからか大きな白い生き物が現れた。絵本で見た人魚のような足、否、ひれを持つそれは自分を見た。目が合って、吸い込まれるように水槽へ手を付けた。生き物は透明な板に顔を押しつけて変な顔になった。驚いて離れると、生き物も身体を離してすいとどこかへ消えた。後から先程よりも少し小さい同じ身体の個体がやってきた。

 水族館は海に近い位置にあり、人が住む場所とは離れている。そのため、来場客の多くは閉館の30分から1時間前に帰るそうだ。誰もいない訳ではないが各フロアに2、3人いるかどうか。開館と同時に人が殺到するこの場所が静かになる唯一の時間帯は、海本来の静寂に満ちた世界を再現しているかのようだった。秘密基地を見つけたような高揚感を覚え、もう一度始めから見ようと両親の手を握った。閉館5分前になるまで、自分だけの水族館を堪能したのだった。

「素敵だね」

 愛生が目を細める。

「仕事があるから本当は16時頃に帰らないと駄目だったけど、俺の為に無理してくれたらしい。大きくなってから教えてもらったよ」

 両親には感謝しきれない。手のかかる子どもだったとよく言われるがそれでも精一杯の愛情を与えてくれた。

「昔、両親がデートした時に似たような理由で到着が遅れて、折角だからって最後までいたことがあるとか言っていたな。多分、その時を思い出して俺にも見せてくれたんだと思う」

「だから藍翔も私に見せてくれたのね」

 にこ、と微笑む彼女に頬が熱くなる。改めて言われると恥ずかしい。愛生が少しでも楽しめたらと思ったが、果たして喜んでくれただろうか。

「ありがとう」

 右手に何かの温もりを感じる。柔らかいそれは、自分の手の甲を覆い軽く力を込められた。愛生の手だと気付くのに時間を要さなかった。

「今日、すごく楽しかった」

 愛生の横顔が水槽の明かりで青く照らされている。この瞬間を彼女が確かに息をしていることを強く実感して、右手を包む温度に胸が締め付けられた。

「どうすれば愛生が幸せになるのか、考えるけどさ」

 言ってはいけないのに、言葉が喉から滑り落ちていく。この憂鬱は、葛藤は、彼女に明かす必要はない。自分が持っていれば良いはずだ。

「分からない。どうすれば治るのかも、愛生が辛い思いをしなくなるのかも」

 彼女に笑ってほしい。いなくなりたい、自分が嫌いなどと思ってほしくない。身体が重いせいで起きることも出来ないなんて日は、訪れて欲しくない。好きなものを美味しいと思えて、好きなだけ食べられて、好きなゲームをして。そんな当たり前が彼女の人生に溢れてほしい。でも、それを叶えるには病気を治さなくてはいけなくて、治すためには体調の変化も受け止めて改善策を考えなくてはならない。

「愛生に幸せに生きて欲しい。たったそれだけのことなのに。どうしてこんなに……難しいんだ」

 左手で顔を覆い俯く。考えても、試しても、愛生の病は消えてくれない。良くなったと思った数時間後に彼女は孤独と自責に苛まれる。そんな日が数ヶ月の間に何度もあった。

「今こうして一緒に笑っていても、夜まで元気とは限らない。また愛生が苦しむかもしれない。そう思うと、自分の無力が腹立たしい。俺に出来ることなどないって、突きつけられているようで」

 医者でもない、魔法使いでもない。彼女を一時的に楽しませることしか出来ない、ただの人間。居ても居なくても、きっとそんなに変わらない。自分に大業を成せるなどと思っていた訳ではない。だが、たった1人の、愛しい人の雨を晴らすことさえ出来ない。それが悔しくて、情けない。

「ごめん、愛生。あんなこと宣っておいて、何も出来なくて」

 愛生に出会って5ヶ月、交際が始まって3ヶ月目を迎えた。短い期間だ、まだ諦めるには早計だと言われるかもしれない。短時間でも分かってしまうほどの困難なのだ、うつ病という壁は。年単位で闘病している愛生が味わった苦痛に比べれば、自分のそれはちっぽけなものだが。

 右手に、力が込められた。無意識に作っていた拳を、愛生の左手が覆っている。

「苦しい思いをさせて、ごめんね」

 満月の下で波ひとつない海を思わせる落ち着いた声音で、愛生は言った。

「私が恋愛なんてものを望んだのがいけなかった」

 お互いの呼吸の音と、館内で流れている音楽だけがこの空間を作っている。

「他の子と同じように、自分の人生を歩んで良いって主治医に言われたことがあるの。友達も同じことを言って励ましてくれた。出来心でマッチングアプリを始めてしまった」

 名前さえ忘れてしまったアプリの存在を思い出す。彼女に初めましての挨拶を送った日のことは、まだ記憶に新しい。

「本気で恋するつもりはなかったの。一度だけ誰かとデートして恋愛がどれだけ素敵なものか知れたら良いなって思っていただけ。こんな動機で使うなんて最低だよね」

 顔を覆っていた手を離し、愛生を見た。愛生の横顔に表情はなかった。

「使ってみたら、楽しかった。藍翔としか連絡を取っていなかったけど時間を見つけてはアプリを見て返事が届いてないか確認していた。共通点が見つかって、話が盛り上がって、連絡の頻度が上がって。それから一緒に食事に行くことになって」

 そういえば、マッチングアプリは消してしまった。トーク履歴は既に復元出来ないだろう。折角なら残しておけば良かった。彼女と知り合った頃の会話を二度と見られないのは残念だ。

「何時もより見た目に気を遣ってメイクしたり、着る服を選んだり。美容師さんに……藍翔に教えてもらったやり方で髪を巻いて。私、普通の女の人みたいだなって嬉しくなった」

「……」

「初めてデートして、もう少しだけ楽しみたいと欲張った。あと一回だけを繰り返した後に告白されて現実に引き戻された。本当は断らなきゃいけなかったのに藍翔と過ごす時間が楽しくて、自分から離れることが出来なかった。だから、藍翔に任せてしまった。貴方からふってもらうように」

 私と、生きてくれますか。

 好きでも、嫌いでも、ごめんなさいでもなく愛生はそう言った。生きることをやめたいと願う彼女と生きる。愛生は、この恋愛が生優しい花畑でなく茨の道であることを知っていた。自分は、それを甘く見ていたのだろうか。

「それでも一緒に生きたいって言ってくれて嬉しかった。治すよって、一緒に変わろうって言葉に、今度こそ頑張ろうと思えた」

「そう、か」

「これでもね、体調の悪い日は少し減ったんだ。食欲が戻って食事を美味しいと思えるようになったし、毎日同じ時間に起きて身なりを整えられる。まだ体調に波はあるけどね」

 愛生が俺の目を見る。

「藍翔に沢山教えてもらって、生きてみようと思える日が増えて。いつか藍翔に何倍にでもして恩返しするって決めたの。藍翔を喜ばせたいから。でも、その前に藍翔をこんなにも傷つけてしまった」

 その目が潤んで瞳の炎が揺れる。水槽から漏れる青い光に照らされたそれは、神秘的な宝石を見違えそうだった。

「ずっと考えていた。なのに、言えなくてごめんなさい」

 何を、という言葉は音にならなかった。

「私と、わ……他人同士に、戻ってくれませんか」

 曇りのない彼女への想い。それを蝕む、また体調を崩したら自分はどうすればという憂鬱。愛生のことが好きなのに、最善の選択はこの恋を続けることではない。

 どうして、神は残酷な試練を与えるのだろう。

「俺は、愛生が好きだよ」

 愛生の目尻から涙が一筋流れた。

「離れるつもりはない、けど」

 懇願するように、彼女の左手に己の左手を重ねて頭を下げる。

「少しだけ、距離をとらせてほしい」

 その日の夜。

 おやすみなさいという就寝前の連絡を最後に、愛生からの返信が途絶えた。


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