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青に生きる 7

 天気に恵まれた月曜日。愛生に出掛けようと声をかけ、二人で電車に乗った。電車で40分ほど行った先に、県内では有名な植物公園がある。春も終わりに近づく中、おすすめの外出先として各メディアで紹介されていた。それを見たのか、花音から行ってみたらどうかと連絡が入った。愛生と気分転換するためにも良いのではないかという結論に至り、愛生に提案した。基本的に自宅で籠もってばかりだという彼女はまだ行ったことがなく、自分も同様だったため、休日を利用して遊びに行くことになった。

「どこかに遠出するのは初めてだね」

 電車内は乗客が多いため、愛生が周囲に配慮して小声で言った。

「いつも町中だとつまらないからな」

 そう言うと、愛生はそうでもないよとくすくす笑った。

「藍翔といたら、どこへ行っても楽しい」

 心臓を弓矢で貫かれた心地がした。惚れた弱みと言われれば否定できないが、愛生は可愛い。彼女が笑ったり、喜んだりすると毎度のようにときめいてしまう。不謹慎だが泣き顔も可愛い。意志の強い瞳が水分で揺らいでいる様子には、否応なく鼓動が跳ねる。怒っている時も、当然のように可愛い。今近くに知り合いがいれば、邪険に扱われるだろう惚気を炸裂してしまいそうだ。

 窓の外を景色が流れていく。ビルや道路が多い街から離れた地域にある公園は、人口の少ない場所にある。建物よりも田んぼや自然が多く、家もまばらに建っているような少し寂しい景観だ。だが、街中とは異なる瑞々しい空気を味わえるため、植物公園に出掛ける人は毎年多いそうだ。

 人混みに晒されることで感じるストレスから離れてリフレッシュしたいという観光客は今日も多いようで、車内は満員だった。

「どんなところかな。何も調べずに来たから想像つかないなあ」

 愛生は楽しそうに言った。それに頷いた時、目的地を告げるアナウンスが車内に流れた。程なくして電車が停車し、降車する人々の後を着いていく。駅の構内を歩く間、はぐれないようにするためか愛生に弱い力で服の裾を掴まれていた。手を繋げば良かったかな、と少し後悔しながら改札を抜ける。

 駅から徒歩5分ほどの場所に公園はあった。観光客が多いのだろう、案内板が各地にあったため迷うことはなかった。入場料を払い、受け取ったパンフレットを各々受け取る。公園の右端に丘があり、そこは一面花畑になるらしい。入り口を通って暫くは、チューリップやパンジーを始めとした色鮮やかな花が植えられているそうだ。

 パンフレットに書かれたルートに沿って園内を進む。一つ一つの花が、空に向かって気持ちよさそうに咲く姿は見事だった。時々立ち止まり、花壇の間に作られた道を通って色彩を楽しんだ。

「みんな綺麗だね。すごく素敵な場所」

 愛生は目尻を下げた。花に囲まれて喜ぶ彼女の姿に心があたたまる。年相応、もしくは少し幼く見える様子を見て、今の彼女が本来の姿なのだろうと思った。友人と出掛けて、そこで出会うものに感動し、様々な感情を抱いて、心を豊かにしていく。多くの人が当たり前に経験したことを、これからは愛生にも体験してもらいたい。痛みに怯え、身動きできなかった過去の彼女がやりたかったことを、少しずつ叶えたい。そんな想いで、今日も誘った。

 日射しの下を歩く彼女を、とても眩しく感じた。

「この先が花畑の丘みたい」

 道の先を指さして、愛生が言った。整備された道は右側に曲がっており、それに沿って木々が植えられているためにその先の景色が見えなくなっていた。

 興奮しながら花畑に向けて駆けていく子どもや、手を繋いでゆっくりと進んでいくカップルが横を通り過ぎていく。愛生も少しだけ足早になっていた。彼女の隣を歩いてその道を抜けると、急に視界が開けた。

 眼前には青一色の世界が広がっていた。雲ひとつない快晴の空。その下には、どこまでも続く青い花畑。

 どちらともなく、ほうと感嘆する。息を飲む美しさに、目を奪われてその場に立ち尽くす。背後からも同じ光景を見て感動の声をあげているのが聞こえた。

「綺麗…」

 愛生が呟いた。それに頷きながら、他の観光客に倣って花畑の中へ踏み出す。

「この花、見たことない。何ていう名前なのかな…」

 愛生が口にした疑問に、携帯で検索をかけてみる。

「ネモフィラ、だって」

 画面には、眼前で無数に咲いているものと同じ花の写真が多数表示されていた。

 小ぶりで、花びらの中心は白く外側に向けて青のグラデーションがかかったような色合いをしている。赤や黄色、橙色、時に紫に咲いた花を見たことはあるが、青い花は見たことなかった。よく幻の青いバラと言うが、青色の花びらをもつ植物はないと勝手に思っていた。

「花言葉は可憐、どこでも成功…」

 説明を読み上げる。愛生は花畑をぐるりと見回して此方を振りかえった。

「素敵だね。見た目も、意味も」

 春のやわらかな陽射しのように穏やかに愛生は微笑む。どき、と心臓が高鳴り顔に熱が集まる。彼女は自分自身のことを可愛いと思ったことがないと言う。あまりにも無自覚だ。1人の男が、彼女の仕草ひとつひとつに魅せられているというのに。

「…観光名所のひとつとは聞いたけど、こんなに綺麗とは思わなかった」

「知らなかった。私、知らないものばかりだなあ」

 まだ落ち着かない鼓動を宥めながら会話を続ける。愛生は気にする様子もなく道の端でしゃがみ込んで、取り出した携帯でネモフィラと青空を写真に納めた。立ち上がってからも、携帯を翳して歩いていく。

「絵の中にいるみたい」

 振り向いた愛生が、こちらに携帯を向けて笑う。それに笑顔で頷くと、愛生は目を細めて再び花畑へと目をやった。

 ぐんぐんと進んでいく愛生の後ろ姿を手に持っていた携帯で撮影する。青の世界を歩む後ろ姿の愛生。真っ白なシャツワンピースが青一色の風景によく似合っていた。

 暫く歩くと、花畑の途中に幾つかベンチが置かれていた。カップルや友達同士で座り、セルフィー写真を撮ったり雑談を楽しんだりと各々自由に過ごしている。そのうちのひとつが空いていたため、休憩がてらに座ろうと愛生を促した。

 右隣に愛生が座り、その横にじぶんが腰掛ける。ベンチからも、ネモフィラと空が描いた青の光景を一面に見渡すことができた。

「…この景色、きっと一生忘れないと思う」

 ぽつりと愛生が呟く。彼女の方を向くと、愛生は目の前の光景を真っ直ぐに見つめていた。

「死ぬ瞬間、ううん、身体が灰になった後もずっと」

 死ぬ瞬間。それが果たして、遠い未来の話なのか、それとも明日にでも訪れてしまうのか。彼女が、目の前から消えてしまいそうな不安に襲われる。咄嗟に、愛生の左手を強く握った。突然の事態に愛生は驚いた。

「藍翔、どうしたの?」

「ごめん、手繋ぎたくなって、つい」

 適当に思い浮かんだことを言うと、愛生は信じたらしく顔を真っ赤に染めた。手を繋ぐなんて人生で初めて、と彼女は独りごちた。

 死にたいと思う日がある。

 愛生はそう言っていた。きっと、昨日や今日も例外ではないはずだ。ふとした時に思ってしまうのだろう。それは、彼女と共に生きたいと願う者からすれば恐ろしい。

 目を離している間に、彼女が二度と戻らない人になる可能性があるからだ。

 そんな悪夢は避けなければならない。何としてでも、愛生の命は手放さない。彼女と生きる。訪れるべくしてやってくるその瞬間まで。

 愛生の手を握る手に力を込める。

「親御さんとのこと、話してくれただろ。この世からいなくなりたいって思う気持ち、分かるよ」

 話し始めると愛生は静かに相槌を打った。そのまま言葉を続ける。

「愛生に比べたら俺の悩みなんて小さいかもしれない。知ったような口を聞くなって思ってもいいから、聞いて欲しい」

「そんなこと思わないよ」

 静かだが、はっきりとした声で愛生は言った。その言葉に背中を押されて、唇が動いた。

「愛生の前に付き合っていた人がいた。同棲して、プロポーズはまだだったけど結婚する前提で将来のことを語っていた。だけど、その人は浮気していた。俺と過ごすのはつまらないって言われたよ」

「……」

 愛生は黙っている。風に靡いた黒髪を美しいと思った。

「何でこんな目に遭うのか自分を恨んだ。普通に生きているだけで、彼女との幸せを想っていただけで、想像もしていなかった災難が降りかかってくる。他の人は幸せそうに笑っている中で自分だけが酷い目に遭って。その頃ほど自分が惨めに思えた瞬間はなかった」

 思い出すのは、心の底から愛していた女性が家を出て行く後ろ姿。気付いたら、彼女の荷物だけが無くなっていた空虚な部屋。込み上げる涙を止めることもせず、現実から逃げるために眠っていた日々。目を開いて、見慣れた天井を見た時の絶望感。

「そのまま目が覚めなければよかったのに。何度そう思ったか分からない」

 愛生は目を潤ませて、ゆるく首を左右に振った。繋いだ手に、少しだけ力が込められる。

「自棄になって酔い潰れた日もある。照にいの店が閉店する時間まで飲んで、家に送ってもらったことも何回かあったな。怒られたけど」

「そんなことが……」

 愛生が心配そうに此方を見る。昔の話だよ、と微笑むと愛生は少しだけ口角を上げた。

「職場の先輩達にも沢山愚痴を聞いてもらって、現実逃避するためにも仕事に打ち込めって言われてから、がむしゃらにやったよ」

 お客さんと接している時と酒に溺れている時は、自分を忘れられた。日中は仕事で、夜は酒を使って自分から意識を逸らす。その繰り返しだった。

「生きているのに死んでいるみたいって心配された。言い得て妙だと思ったよ。本当に酷い毎日だったから」

 ネモフィラが風に揺れる。折れることなく、散ることもなく心地よさそうに風を浴びる様は、美しかった。

「いつだったかな。先輩に言われたよ。いつまでも後ろを気にしていたら、目の前にある幸せに気付けないって」

 閉店後のある日、今から飲みに行こうと、ベテランの先輩に誘われた。その人は美容師の間で知らない人はいない有名な美容師の一人だった。

 仕事中は見せないようにしていた、やさぐれた姿を初めて晒した。先輩はビールと焼き鳥を交互に嗜みながら、じっと話を聞いていた。そして、一通り話し終わった後、強く背中を叩かれたのだ。

「叩かれたの?」

「そう。手加減なしで」

『あんたが辛いのもよく分かったわ。でも、そろそろ終わりにしていいんじゃない?』

 あの日のことは鮮明に思い出せる。困惑する俺を横目に、先輩はジョッキを呷り金色に輝く中身を飲み干していた。

『過去を振り返るのは簡単なのよ。恨んで、後悔して、悲しんで。過去を見つめる時間は必要だから、それ自体は間違っていないわ。でもね、いつまでも後ろを見ていたら前から迫ってくるものに気づけないでしょう?新たな試練かもしれないし、幸せの種かもしれない。それを拾えないまま、過去に置き去りにしたらまた後悔することになるわ。そんな人生、嫌じゃない?』

「先輩に叱咤されて気づいた。というより、ずっと前から頭では分かっていた。過去に縛られることを辞めて前を向く時だって。また傷つくことが怖くて、塞ぎ込んでいただけだった」

 自分の経験、感じたこと、言われたこと、考えたこと。全てが彼女に当てはまるとは限らない。愛生を傷つける可能性もある。だが、それでも伝えたかった。

 変わりたいと願った時に、再び希望を取り戻したことを。

「先輩に励まされてすぐに元通りとはいかなかったよ。1日元気に過ごせても次の日は落ち込んだ。そういう日を何度も越えて、時間をかけてやっとここまで戻ってきた」

 長いトンネルを歩き続けるのは楽ではなかった。それでも、トンネルの先で光を浴びた時にほっとした。生き続けて良かった、と。

「時間にしてみればたった1年さ。でも愛生と同じように、もがき続けた。愛生や他の人より少し短くて低い壁だっただけで、乗り越えようとする気持ちは同じだったと俺は思っているよ」

 きっと想像している以上に愛生の前に立ちはだかる壁は高く険しいだろう。一時の落ち込みと病気を一括りにするのは違うかもしれない。一緒にするなと思われるかもしれない。それでも構わない。愛生が何かを見出してくれたらそれで良かった。

 繋いだ手をそのままに、彼女は俯いていた。そして、ゆっくりと顔を上げて目の前の景色へと目をやった。

「私、周りの人が羨ましかったの。みんな、辛いことなんてないみたいな顔をして笑っているから」

 愛生がぽつぽつと語り始める。聞き逃さないように、耳を澄ませた。

「だけど、みんなも…自分にしか分からない辛さを、抱えているのかな」

「うん」

 飛行機が西の空から飛んでくるのが見えた。白い尾を引きながら、青空を横切っていく。

「ずっと、私以外の誰かになりたいと思っていた。私みたいに病気に悩むことも親に叩かれることもなく、楽しく生きていけるから」

 でも、と一度言葉を切り、息を大きく吸った。愛生の横顔が綻んだ。

「みんな、違う苦しみを抱えて生きている。その苦しみも自分の人生なんだって受けとめながら……」

 人によって苦痛の度合いは異なるだろう。他人を羨んだことは何度もあったため愛生の気持ちは痛いほど分かる。愛生の悩みは大きく、彼女一人でどうにか出来るものではないため尚更誰かに変わりたいと思うはずだ。しかし、一度始まった自分の人生は変えられない。他の誰でもない「自分」を生きなければならない。

「私は、自分が嫌い。グズで、失敗ばかりで、寝込んでばかり。人の役に立てない、生きる価値のない人間。…こんな自分のことも、受け入れられるのかな」

 ともすれば、かき消されてしまいそうな弱い声音。今までの人生で、どれほどの傷を負ってきたのか。当たり前のように自らに呪いの言葉を浴びせられるほどの苦痛とは、如何程なのか。愛生が話した、父親からの仕打ちを思うと胸が痛む。

 軽々しく、元凶を許し受け入れろというのは違うだろう。彼女と立場が逆だった時に、そんなことを言われたら失望する。分かったような口ぶりで綺麗事を並べられても不快なだけだ。虐待という言葉で片付けられてしまう問題に対し、今日まで生きてきただけでも彼女がどれだけ頑張ったのだろう。彼女自身に非がないことさえも自分の人生だから受け入れろというのは、あまりに酷だ。それは間違っている。愛生が顔をあげて、一歩を踏み出すためには、どうすればいいのだろう。

 送るべき言葉は。

「……自分のことを、もう許してもいいんじゃないか」

 愛生が此方を振り向いた。上手い言葉が見つからず、暫しの間見つめ合う。首を傾げた愛生を見つめて、漸う口を開く。

「愛生は自分を呪い続けている。でも、もうその必要はないはずだろ。愛生は、自分を愛しながら生きるべきだ」

 彼女は愛されて生きるべき存在だ。他者からも、自分自身からも。彼女がその名のとおり、愛に満ちた人生を歩んでいけるように。願いを込めて付けられたはずだ。たとえ、名付け親が既に自分の手の届く場所にいなかったとしても。その人から愛されなくなったとしても。

 はらはらと溢れる雫が、白いワンピースに染みを作っていく。ひとつ、またひとつと落ちるたびにぽたぽたと音を立てる。空いている手で彼女の目元を拭うが、また新たに目から溢れてしまう。

「自分のこと……許して、いいのかな」

 震える声で訊ねられる。愛生の目を見て静かに頷く。彼女は堰を切ったように、嗚咽をあげて泣き始めた。花畑を眺めていた人が、怪訝そうに愛生を見る。だが、隣に寄り添う俺を一瞥すると何もなかったかのように視線を逸らした。

 周りを気にする余裕もなく声を上げて泣きじゃくる愛生の頭を無造作に撫でる。折角綺麗にセットした髪が崩れくしゃくしゃと跳ねてしまったが、目を瞑ってもらおう。

「悪いことした訳でもないのに、何でこんな仕打ちを受けなきゃいけないのかって思った時は俺に言って。不満や恨み、許せないこと、理解できないこと。捌け口として俺を使って欲しい。いつか、苦痛に感じていた全てを笑えるようになるまで、俺は側にいるから」

 愛生がその言葉を聞いていたかは分からない。だが、一層嗚咽が大きくなった。

 ふと、携帯で調べた言葉が蘇る。喜びの声、そして悲痛な声さえも包み込んでいる目の前で咲き誇っている青。誰に寄り添うでもなく、ただ自らの美しさを天に見せている花。

 あなたを許す。まるで、愛生や自分、そして今はこの場所にいない花音のためにあるかのように思えた。

 撮った写真を、携帯で花音に送る。軽快な通知音に、目を腫らせた顔の愛生が顔をあげる。

「友達に、今度見に来たらいいよって送った」

 画面には、写真を賞賛する返信と共に、ネモフィラの花言葉を知っているなんて意外です、と心外な言葉が書かれていた。

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