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青に生きる 6

「お先に失礼しまーす」

 雑談している先輩たちに挨拶をする。お疲れ様と口々に言われ、頭を下げながら店を後にした。勤めている店は女性が多いこともあり、仕事終わりに年齢を問わず女子会を開いているらしい。最初こそ遠慮していた後輩たちも、今では女子会のために菓子を持ってくるようになった。スタッフ用の控え室に集まって会話に花を咲かせている様は実に楽しそうだ。放課後、女子生徒数人で教室の隅に集まり恋愛や勉強の愚痴を言い合っていた姿を想起させる。いくつになっても女性は若いと熟々感じる。

 店を出て、向かう先は駐輪場ではない。今日はバイクを使わずバスで通勤したからだ。一年に数回乗るかどうかという頻度のため、前日に何度か路線と時刻表を確認してしまった。無事に乗れたため、帰りもバスに乗るつもりだ。

 だが、向かう先はバス停ではない。到着したのは、人の出入りがまばらになっている百貨店の前。足を止めて携帯を取り出そうとポケットに手を伸ばした時、ぐい、と袖を引かれた。袖を摘まんでいる手の主は、他でもない愛生だった。

「遅くまでお疲れ様」

 にこ、と音が付きそうな笑顔にどきどきと心臓が速くなる。夜勤明けで明日は休みだと言う彼女に、今夜一緒に飲みに行かないかとダメ元で誘った。予想に反して、愛生は二つ返事で了承してくれた。待ち合わせ時刻は20時半と、やや遅い時間帯だったが来てくれた。前回会った時は仕事終わりだったこともあり、シンプルな服装だったが今日はお洒落をしたようだ。ざっくりとした編み目の白いカーディガンの下は、黒のキャミワンピースと7分丈の白シャツという、彼女らしい服装だった。少し伸びた髪を外に跳ねさせているのは変わらない。気に入っていると話していたことを思い出す。

「遠いのに来てくれてありがとう。電車で来た?」

「うん。一駅だから全然遠くないし気にしないで。帰りは終電に間に合えば大丈夫」

 最近気付いたことだが、愛生は案外あっさりとした話し方をする。初めて会った時やアプリ上でチャットしている間は、一線を引いているようでどこかよそよそしい態度だった。彼女をバイクに乗せた後からか、遠慮というのか、被っていたフードを脱いで素顔を晒したというべきか。本心を見せてくれるようになった。自分を少しでも「良い子」に見せようとしていたようにも思えた。吹っ切れたのか、そんな様子を見せることはなくなった。これも、良い傾向だと捉えることにしている。

「親御さんは怒らない?門限とか」

 愛生はぴく、と小さく肩を跳ねさせたが、。微笑んで

「大丈夫。私がいないほうが嬉しいみたいだし」

 と言った。それ以上は語らず、お店はどこだっけと話題を逸らしたのでこちらからの追求はしなかった。

 自分の希望だが、居酒屋に飲みに行かないかと誘った。普段から飲酒の習慣があるからというのはあるが、酔いが多少入った方が腹を割って話せるからだ。シラフだと話しているうちに気恥ずかしくなって話題を打ち止めしてしまう癖も関係している。これらはあくまで自分に当てはまるだけだ。要するに、自分の都合に彼女を振り回していることになる。

 恥を忍んで打診すると、愛生は喜んで了承した。喜んだのもつかの間、重大な問題が発覚した。彼女はお酒を飲めないという。薬を飲んでいるためだ。毎日就寝前と朝食、夕食後にそれぞれ飲むものでアルコールが薬に影響を及ぼすらしい。彼女自身、飲めたとしても度数の低いものを1杯飲めるかどうか。これでは、ただ自分が気分よく酒を飲むだけで愛生を楽しませることは出来ないと気づき、普通に食事に行こうと言ったのだが愛生は譲らなかった。一度も居酒屋に行ったことがないから行ってみたい、と。

 今までにお酒で失敗したことは数えるほどしかないが、万が一にでも酔いつぶれることがないように、量を考えなければならない。ビールで言うなら5杯まで、と脳内で言い聞かせていると、目的地に到着した。

 大衆居酒屋と書かれた暖簾が下がった入り口を通る。歩み寄ってきた店員に案内されて、カウンター席に座る。愛生を奥側へ促し、その隣に自分が座る。端の席だったため、愛生の隣は自分だけになる形だ。初めて店に入るには都合が良い。

 空いていると思い来てみたが、予想より店内は混んでいた。テーブル席は、ジャケットを脱いでワイシャツ姿になった中年の集団や、私服姿のカップル、友達なのだろう同性だけで席を埋めている者もいた。小走りでお盆いっぱいに乗せた料理を各テーブルに店員が運ぶ。置かれたそれを見て、歓声を上げると早速箸を伸ばしていた。店員は空いた皿を持って厨房へ下がる。酒が進んでいるためか、どのテーブルの客も周囲に気遣うことなく、よく聞こえる大きな声で喋っている。言ってしまえば、会話が丸聞こえだ。賑やかな店内の様子に圧倒されたらしい愛生は、きょろきょろと周囲を見ていた。

「居酒屋って、こんな感じなの」

「初めて来るとびっくりするよね」

 隣に座る愛生は、こくりと頷く。店員が用意してくれたメニュー表を二人で眺め、各々注文する。愛生はオレンジジュース、自分は生ビールをひとまず頼んだ。

「お腹空いた?食べたいもの頼んでいいよ」

「ありがとう」

 居酒屋に来たことがない、と話していた通り、愛生の反応は新鮮だった。焼き鳥があるの、締めって何、とあれこれ問われる。一つずつ答えながら食べたいものを決めていく。手を挙げて、店員にまとめて注文した後、先に頼んだ飲み物が運ばれてきた。

「俺だけ飲んでごめんね。乾杯」

 乾杯、と愛生も言ってジョッキを鳴らす。軽快な音が騒がしい店内に掻き消える。一口呷ると、疲れた身体に独特の苦みが染み渡った。

「あー、美味い」

 ジョッキを置いて噛みしめるように言うと、頬を膨らませた愛生が不満そうに言った。

「いいなあ、私もいつか飲みたい」

「いつか一緒に飲もう。体調が落ち着いたら」

 そう宥めると、絶対お薬なくしてやる、と宣言してオレンジジュースを飲んだ。程なくして、料理が続々と運ばれてくる。各々自分用に注文したが、注文したものを見ると愛生は目を輝かせた。

「どれも美味しそう…」

 彼女が見つめているのはつくねとだし巻き卵だった。この店の名物と言われているだけあって、他の居酒屋とは違う良さが売りだ。つくねは、中身はジューシーに、食感はふわふわにと銘打ってあり、文字通りの食感を味わえる。添えられた大根おろしとよく合っておりさっぱりとした味わいだ。だし巻き卵の方は、箸でつつくとぐらぐらと揺れる仕上がりで、こちらはだしでしっかりと味つけしている。食感は柔らかく、雲を食べているみたいだと好評の一品だ。

「食べていいよ」

 皿を愛生へと寄せると、ありがとうと言って控えめにつくねを一口食べる。愛生は目を見開いた。

「美味しいっ」

 彼女の反応に笑顔が込み上げてくる。そうだろ、と相槌を打って、もう一口促す。今度は先程より少し多めに箸で取り分けた。

「何これ、止まらない美味しさ…」

 つくねを堪能した後、だし巻き卵も食べる。愛生は顔を綻ばせ頬に手を当てた。

「とろっとして美味しい。すごい、どうやってこんなふわふわに作るの」

 まるで宝石を見つけた子どものようなキラキラとした表情で、愛生が目の前の料理を眺める。楽しそうな様子に笑いながら自分も箸を付ける。

「美味いよな。初めて食べた時は感動した」

 こくこくと頷いて、彼女が自分で頼んだものも食べ始める。一口食べる度に感嘆するから、思わず笑ってしまう。

「愛生、結構大げさなリアクションとるよな」

 言われて、二度、三度と瞬きしてから愛生の顔が赤くなった。

「だ、だって、美味しいからつい」

 誤魔化すようにオレンジジュースを飲んで、藍翔ももっと食べなよと言った。食べているよ、と笑って返す。

 食べ進めると同時に、どんどんアルコールも体内へ入っていく。程よく酔いが回って気分が良くなってきた頃に、焼き鳥を頬張っている愛生の頭を撫でた。

「何で、愛生はいない方が喜ばれるって思うんだ」

 橙色のライトが店内の温かさを演出している。この店は楽しい場所だ、と言われているようで近づき難いと思っていたことが懐かしい。愛生の表情が凍り付いたのを見て、そんなことを思った。

「…楽しい話じゃないから、ご飯まずくなっちゃうよ」

「いいよ。聞きたいから飲みに来た」

 愛生はこちらを見なかった。弱々しい声で、まだ湯気が立つつくねをつついている。酔っている方が自分も話しやすいが、何より彼女が、酔っ払い相手なら話しても良いかと楽な気持ちになればいいと考えた。実際に、そう思っているかは分からないが、少しでも話しやすい状況を作りたかったのだ。

 愛生は、訥々と語った。

 ?

「両親は、私が中学1年生の時に離婚したの。理由は、お父さんの不倫。私を身ごもっている時に不倫したってお母さんは言っていた」

 話し始めは固い声音だったが、次第に普段と同じ調子で愛生は話す。花音が言っていた通り、耳をふさぎたくなる内容だった。

 愛生の父親が不倫したことを許す代わりに、母親は条件を出した。育児には一切関わらないことという約束だった。父親はこれを飲み、母親が愛生を育て父親には指一本触れさせなかったらしい。歪な育児は、最後まで続かなかった。育児の負担に加え、父親が再び不倫したという疑惑が浮上したのだ。携帯に残っていた履歴を元に、母親が問い詰めると父親は開き直った。お前が子どもばかり構うからだ、と聞くに堪えない理屈だったらしい。その日から、母親が荒れ始めた。昼間から酒を飲み、家事と育児を放棄するようになった。口を開けば、あの男は昔から、と父親の愚痴ばかり。小学生の愛生は、彼女の話を聞き宥めるしかなかった。3年近く母親を宥め続け、愛生に限界が来た。

『もう、悲しい話は聞きたくない』

 幼い子どもの悲痛な叫びだ。それ以来、母親が愚痴をこぼすことはなくなった。だが、代償のように酒を飲む量と父親との喧嘩が増えた。事態の悪化に、愛生は後悔した。止める手立てもなく毎日を過ごしていた時に、終止符が打たれた。二人は離婚することになったのだ。

『あんたは私の味方じゃないから、あいつの所に行くのよ』

 母親は愛生を連れて行かなかった。父親と二人きりになった家で、どう生きていくのか分からない愛生を待っていたのは、新たな地獄だった。

 父親の暴力が始まった。

 外からは見えない、服で隠れる部分を徹底して殴られた。死ぬ可能性があるからと頭は狙われなかったが、それでも痛いことに変わりはない。彼女の身体は、一年中生傷が絶えなかった。父親が暴力を振るうタイミングは不定期で、仕事などで苛立った時や愛生の態度が気にくわない時など気まぐれだった。父親は決まって同じ言葉を使う。

「お前さえいなければ、お前みたいな人間のぐずがいるからって、怒るの」

 愛生は、いつかの時のように凪いだ声で話す。言葉を失い、黙って彼女の話を聞くことしか出来なかった。

 ある日、腕や足を殴られ大きな痣が出来た。隠すことが出来ないまま登校すると、担任を始め教員たちから事情を聞かれた。事実を話すと、児童相談所に通報され自宅まで捜査に来た。一時的に児童相談所へ保護されるが、父親が改心したと判断されると自宅へ戻された。そこで始まったのは、言葉による暴力だった。生きる価値がないと言われ続けた結果、愛生の精神は歪んだ。

「元々まともな精神じゃなかったとは思うけど、決定打はお父さんだった」

 目が覚めると、身体が重たかった。何をしようにも鉛のようで、着替えることさえ億劫になった。食事を目にしても食べようと思えず、そもそも匂いさえ分からなかった。味はない、じゃりじゃりと砂を食べている心地だった。ふとした瞬間に、涙が出るようになった。皆が楽しそうに笑っているのに、自分の心は暗闇が覆っている。笑うことができなくなった。感情がなくなった。喜びというものが何か、分からなくなっていた。

「それがうつ病だって分かったのは、高校3年生の時。発症したのは、高校1年生じゃないかってお医者さんは言っていたけどはっきりとは覚えていない」

「そんなに前から…」

「年数で言えば、病気になって8年かな」

 何でもないことのように愛生は続けた。

 父親に隠れて受診した。学校と親に隠して続けていたバイト代と、虐待の通報を恐れて父親から渡されていた日々の食費を通院費に充てた。不調を引きずりながら治療を継続したが、決して容易いものではなかった。薬を中心に体調のコントロールを行い、尚且つ心理療法を行うのは体力を要した。校内で行われているスクールカウンセリングも利用し、うつ病の治療について書かれた本も多数読み出来るだけ実践した。一時的に体調が改善されたこともあったが、父親からの暴言を浴びると再び振り出しに戻る。社会人になっても、病は変わらず愛生を悩ませた。発症した頃よりは、ご飯が食べられ眠れるようになったが、気を抜くと希死念慮、つまり死んでしまいたいと思ってしまうらしい。

 地を這いながら生活する中で、一つの救済を見つけた。自分に罰を与えると、気持ちが安らぐことに気付いたのだ。

「罰って」

 海で見た、愛生の手首に巻かれた包帯が脳裏に浮かぶ。愛生は頷いた。

「自傷行為を始めた」

 きっかけは、今までどおり父親に罵倒されたことだった。生きる価値のない人間が息をするなと吐き捨て、自室へ戻る背中を見送った時、衝動的にカッターナイフを探した。筆記用具を収納している引き出しにそれはあった。適当な長さまでナイフを出し、躊躇なく手首に当てた。

「痛みを感じると、すごく安心したの。死ななきゃいけないのに生きているから、罰を与えることで許された気分だった」

 流れる血を見て、あれだけ胸のうちを覆っていた、いなくなりたいという願望が薄らいだという。だが、効果は長く続かない。翌日起きた時には、一度なくなった願望が芽生えていた。速くなくなってほしくて、もう一度道具を手に取った。壊れたストッパーは止まることを知らず、日に日にエスカレートしていった。

「職場でも心配されたよ。色んな人に、一度休職した方がいいって勧められた」

 その通りだろう。今の状態は、とても勤務できるとはいえない。愛生の体調は限界を迎えているのは、聞いているだけでも分かる。

「でも、こうしてご飯を食べに来ているから。まだ、大丈夫」

 友達に会う時に、少しだけお洒落する。好きな人と話したら心が僅かに踊る。随分昔に忘れたと思っていた感情は、まだ心に残っていたと愛生は話した。

「本当に辛い人は、外に出ることも出来ないと言うでしょう。私は、まだ仕事にも行ける。藍翔や友達ともお出かけしている。きっと、良い方向に向かっているから出来るの。だから私は大丈夫」

 絶句してしまう。彼女がこうして外に出られるのは、繰り返す自傷行為で身体に鞭打っているからだろう。その行いで、どれだけ愛生の心が傷ついているのか、彼女自身は気付いていない。

「でもね。こんなことしてまで、何で生きているのかなって思う時はあるよ。お母さんがいなくなって、お父さんに痛いことされて。生きていれば良いことはある、何とかなるって言葉を沢山見たけど…良いことなんて、なかった」

 愛生の心が、悲鳴を上げている。この地獄を早く終わらせて欲しい、と。彼女にとって、それは死を意味している。早く、一秒でも早く、動き続ける心臓を止めて欲しいと。

「……良いことなかったっていうのは、嘘かな。私に生きて欲しいって言ってくれた人に会えたし、藍翔にも会えた。居酒屋さんが素敵な場所だってことも、知った」

 愛生は、俺を見て微笑んだ。目に涙を浮かべている。店内の明かりに照らされた瞳は、宝石のように輝いて見える。その瞳の奥で、今も確かに燃えている炎。初めて愛生と会った日と、寸分も変わらない輝きだった。

「どれだけ辛いことなのか、想像も出来ない。他人だから簡単に言っているように思えるかもしれない。それでも良いから、言わせて欲しい」

 どこかで、誰かの笑う声があがった。同時に、涙声で何事かを言いそれを慰める言葉も聞こえてきた。ここは、この世界は、そういう場所なのだ。

「愛生に、生きていてほしい」

 嫌なことも、嬉しいことも、この世はすべて包み込んでいる。誰かが嫌な思いをしていても、嬉しい出来事があっても、他人には知ったことではない。自分には関係ないことだから。だが、関係ないからこそ優しく受け止められるのだ。泣いていても、笑っていても、同じ時間を生きている。同じ時を生きる他人同士だから、分かり合えるものがある。自分にしか分からないことだと思っていても、他人は痛みを想像し、歩み寄ることが出来る。そうやって、他人同士で支え合って生きる。

 生きるとは、他者の痛みを想像しあうということだ。

「愛生のことを知ることが出来て、嬉しい。俺には力不足だと思うよ、知識もないし資格を持っているわけではないから。それでも、俺だからこそ出来ることがあると信じている。愛生を愛しているから出来ることが」

 検討違いだと思っているかもしれない。それでもいい。間違っているなら、今から変えていけばいい。彼女にとっての最適なルートを、手探りで見つけていきたい。一人で痛みを背負ってきた彼女が、少しでも分け合うことができるようになってほしい。

「生きるのは大変だと思う。辛いことは多い。今まで以上にしんどいかもしれない。でも、もう一人じゃない。俺もいるし、愛生を大切に思っている友達もいる」

 愛生は頷く。どうか、彼女の暗闇に少しでも光が差し込みますように、と祈った。

「だから、……だから、生きてほしい」

 目を伏せた彼女が、その言葉に顔を上げた。ぎこちなく、だがどこか安堵しているような穏やかな表情だった。

「生きていたのは、もしかしたら藍翔たちに会うためだったのかもね」

 無邪気に言う愛生。その時だけは、どこか影を差しているいつもの雰囲気とは違って見えた。

「お料理冷めちゃったかな。あたたかいもの食べたい」

 愛生の希望に、二人で再びメニューを見た。二人で注文した締めのうどんは、じんわりと身体に染みこんだ。

 花音には、愛生が話したいと思うまで待つと言った。そのつもりだったが、彼女を知りたい気持ちが勝ってしまった。いつか、この罰を受ける日が来るのだろうかと、罪悪感に胸が締め付けられた。


 ぽかぽかと火照った身体が外の空気に触れると心地よかった。5月も中旬、肌寒い夜は少なくなった。夜に散歩するには最適な季節だと言える。

 愛生も、店を出ると涼しいねと笑った。

「もう少しで10時か。そろそろ帰った方がいいね」

 振り返ってそう言うと、愛生は頷く。終電まで時間はあるが、女性一人で夜の町を歩かせるわけには行かない。駅まで送ると告げて、二人で歩き出す。

「美味しかった。今度はお酒も飲みたい」

「飲めるようになるのが楽しみだな」

 頷いて賛同する。愛生は、カシスオレンジとか美味しそうだよねとメニュー表に書かれていたお酒の名前を挙げる。度数の低いものなら、彼女でも楽しめるだろうと色々なお酒について話しながら駅へと続く道を進む。

「あれ、藍翔じゃん」

 突如、正面から名前を呼ばれる。その声は耳に馴染みのあるもので、驚いてそちらを見る。そこには、豊かな髪を軽くウェーブさせ目力のある顔立ちの美女と一緒に歩く照輝がいた。

「照にい。あれ、今日店は?」

「今から開ける。その前に飲みに行こうって誘われてさ」

「開けるって、開店時間までもう10分もないのに」

「準備は終わっているから問題ない。ところで、そっちの子は?」

 照輝は愛生を見る。愛生は戸惑いながら一礼して、こんばんはと言った。

「俺の彼女」

「あ、愛生です。よろしくお願いします」

 照輝は軽く片手をあげてよろしく、と言う。財布から取り出した名刺を愛生に差し出して

「照輝です。この辺でバーテンダーやってます」

 受け取った名刺をまじまじと見つめる愛生。照輝は人好きのする笑顔で隣に立っていた女性を振り返った。

「彼女は俺のお客さん。2年前ぐらいから通ってくれている友達」

「由梨よ。よろしくね」

 その微笑は、まるで海外の女優のように美しかった。愛生も見とれているのか、小さく感嘆した。由梨はこちらを見て、小首を傾げる。

「あなたとは、どこかでお会いしたことがあるかしら」

「え」

 由梨はじっとこちらを見る。彼女の顔を見るが、全く思い浮かばない。一目見ただけで生涯忘れられないような美貌だ。会ったことがあれば、すぐに分かるだろう。そういえば、アプリでチャットしていた女性の名前も「ユリ」だった。しかし、「ユリ」は顔写真を載せていなかった。横顔や、サングラスを掛けている姿、後ろ姿など顔を伏せていたため顔を知らない。髪の長さは確かに同じぐらいかもしれない。

「……面識はないと思いますが」

 思い返しても、由梨と同じ顔の人は思い浮かばずそう告げる。由梨は、暫く訝しんで唸っていたがやがて首を振った。

「ごめんなさい。人違いだったわ」

「藍翔は美容師だし、もしかしたら客として会ったことあるのかもしれないぜ」

 照輝が助け船を出すと、由梨はそうかもしれないと頷く。仕事では客の顔を覚えない性格のため、客として会ったと言われれば否定できない。自分でなくとも、先輩たちが担当していた時に顔を見たことぐらいはあるかもしれない。

「藍翔です。照にいとは長い付き合いです」

 挨拶すると、由梨は微笑む。よろしくね、と愛生にも言った。

「照輝にも仲が良い男の子がいるのは知らなかったわ」

「おい、友達は多い方だぞ、お前と違って」

「いつもお店には女性客ばかりで友達なんて見たことないけど」

 何やら不穏な空気になってきた。お互いにぶすっとした表情で睨み合っている。愛生はおろおろと俺の服の裾を引っ張った。どう諫めるべきか、と考え始めたところで由梨がふん、と言って顔を逸らした。

「悪い。いつもこんな感じでさ」

「いやいや。むしろ邪魔してごめん」

 照輝が肩を竦める。それを横目で見た由梨が何かを呟いたが聞こえなかった。不仲に見えるが、何だか相性の良い二人だ。

「また飲みに来いよ。愛生ちゃんも一緒にね」

 突如名指しされた愛生は、大きな声で返事した。そして、どう返事したらいいかという顔でこちらを見上げる。

「今度行くよ。今日は難しいけど」

 照輝は気を悪くすることなくにこやかに言った。

「こいつもいたら悪いな」

 その言葉に、由梨がむっとした表情になった。照輝の肘を小突き、腕を組んでそっぽを向いた彼女に愛生と共に苦笑する。

「そろそろ行くわ。またな」

「うん」

 打って変わって、愛想良くにこりと笑った由梨がまたねと言ったのを合図に各々歩き出す。自分たちとは反対の方向へ歩く二人の口喧嘩している声が聞こえなくなった頃に、愛生が呟いた。

「いいなあ。ああいうの」

 どこか羨ましそうな口ぶりに、愛生を見る。愛生は、どこを見るでもなくぼんやりとしていた。彼女が失った過去の時間には、照輝たちのように過ごす瞬間も本来ならあったはずだ。一人ぼっちの愛生には、縁のないものと言えるかもしれない。

「俺たちも似たような関係になれるよ」

 愛生がこちらを見上げた。そうかな、と不安そうに言う彼女に力強く頷いてみせる。

 過去は取り戻せなくとも、今から手に入れたらいいだけの話だ。これから、彼女がうんざりするほど楽しい時間を作っていきたい。あの二人のように小言を言い合う仲にも、何にでもなれるのだから。

「なれるよ。愛生が諦めなければ」

 愛生は、不安を湛えながらも頷いた。頑張る、という小さな声は、夜闇に溶けていった。

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