青に生きる 4
酔いが回り、もう何を話しているのか分からないくらい気分も良くなった頃、携帯が軽快な音で通知を告げた。何事かと確認すると、待ち望んでいた相手の名前が書かれていた。
「愛生だ」
「噂をすれば」
すぐにメッセージアプリを起動する。背後から、店の扉が開く音がして、賑やかな声が耳に届いた。
『準夜だけだったので今終わりました。まだ起きていますか?』
返事をしようと画面をタップする。しかし、肩をつつかれたため指を止め、顔を上げる。
「悪い。ちょっと席変わった方がいいかも。団体さん来たから」
店の入り口に、6人の男女が喋りながら照輝の案内を待っていた。愛生からの連絡もあり、長居するのは迷惑だろうと席を立ち上がる。
「そろそろ帰るよ。落ち着いてから勘定して」
「おう。悪いな」
照輝は素早く対応を行った。全員分の注文を聞き、一人一人にドリンクを提供した。会話もしながらも手は休めない仕事ぶりは、尊敬に値すると常々思っている。
店の外まで見送ってもらい、礼を言って照輝と別れる。また続報を聞かせる約束をして、バーを後にした。
自宅へ足を運びながら、愛生への返信を送る。
『起きているよ。ちょっと飲みに出かけていたけど今から帰るところ』
すると、既読の文字が付き、一分も経たずに返事がきた。
『良かった。昨日はあまり連絡出来なかったから少し寂しくて。お話出来て嬉しいです』
言葉一つ一つに浮かれてしまう。自分が思っている以上に、彼女に好かれているのではないか。夜中に連絡したくなるほど、焦がれているのではないか。
酒の勢いに任せて、調子に乗った一言を送る。電話を今からしたい。
断られると思った。当然だ。時刻は夜中の2時を回っている。
だが、予想は裏切られた。
『勿論良いですよ。私も電話したいと思っていたところです」
いい意味で、裏切ってくれた。
返信代わりに、電話を掛ける。数回のコール後に、愛生の声が機械越しに聞こえた。
『もしもし。藍翔さん、こんばんは』
『こんばんは。仕事お疲れ様』
少しゆっくりとした話し方の、それでいてはっきりとした声が鼓膜を揺らす。緩む口元をそのままに、会話のキャッチボールを始める。
『こんな時間に帰るのは大変だね。起きていて大丈夫?』
『大丈夫ですよ。藍翔さんと連絡取れるなら、眠気なんてどこかに行ってしまいますから」
何という殺し文句だろう。思わず顔を覆う。今、目の前に彼女がいなくて良かったと心から思う。こんな緩みきった顔はとても見せられない。
ふと、電話越しに鼻を啜る音が聞こえた。おや、と携帯に耳をすませる。
『ごめんなさい。花粉症のせいで鼻炎になっていて…」
「花粉症か。ピークは過ぎても辛いよね」
愛生は困ったように笑った。その声が少し震えているのも、おそらく花粉で涙が出たせいだろう。くしゃみが止まらなくなった時、涙が一緒に止まらなくなった経験があるためその辛さは分かる。
「それはそうとして、藍翔さんに良い報告があります」
気を取りなおすように愛生が明るい声で話題を変える。
「実は、毎週月曜日を休みにしてもらいました!」
思わぬ報告に驚き、大きな声が出る。愛生は誇らしげに言葉を続けた。
「これで、毎週藍翔さんに会えますね」
今、愛生が目の前にいたら、問答無用で抱きしめていただろう。悪戯が成功した子どものように微笑んでいると思うと、愛しさで心がいっぱいになった。
会えなかった日々を埋めるように連絡した日々も尊い。だが、実際に会って一緒に過ごす時の方が好きだ。同じものを共有して、別々の感想を抱き、喋って、時々黙って。
映画のような理想的な時間を彼女と毎週過ごせるなら、こんなに嬉しいことはない。
「ありがとう、本当に。嬉しすぎて酔い冷めた」
とっくに酔いは覚めていたが、敢えて嘘をついてみる。愛生の笑う声が聞こえた。
「喜んでもらえてよかった。これで、月曜日が楽しみになりました」
「俺も。ありがとう、融通利かせてくれて」
画面の向こうにいる愛生が微笑んだ気配がする。彼女も、自分と同じ気持ちなのだ。時間が出来たら、また会いたい。一緒に過ごす時を共有したい。
今、思いを告げたら。
愛生はどんな顔をするだろうか。どんな反応をしてくれるのだろうか。
期待しても、良いだろうか。
「藍翔さん?」
黙り込んだ俺を愛生が訝しむ。
どくどくと、心臓が早鐘を打ち始める。
初めての恋人になるから、もっと慎重にいかないと。
照輝に言った己の言葉が蘇る。
そうだ、慎重に。愛生を傷つけないように。
愛生を、大切にするために。
「大丈夫ですか」
心配そうに問う声。
駄目だ。
「愛生」
駄目だ。歯止めが効かない。口を閉ざさなければ。
言葉にしてしまわないように。
「藍翔さん…?」
初めて彼女に会った日のことを思い出す。
おそるおそる声を掛けてきた、緊張をはらんだ表情。
その瞳の奥で輝く、小さいながらも。
生きていると叫ぶ、静かな魂に。
「好きだ」
惹かれてしまった。
「愛生のことが、好きだ」
溢れてしまった想いは、止められない。
「俺と、付き合ってください」
二人の間に、静寂が訪れる。
携帯が発する機械音だけが、鼓膜を震わせる。
口を開いたのは、愛生だった。
「私、藍翔さんに、言わなければいけないことがあります」
返ってきたのは、予想していた言葉ではなかった。
言わなければいけないこと。何だ、それは。
何も思い浮かばず、静かに言葉を待つ。
告げられたのは、想像さえしていない事実だった。
「私、うつ病患っています。もう、6年ぐらい、ずっと」
愛生の声は、凪のように静かだった。
「薬も飲んでいます。入院したことはないけど、病院は通い続けています」
愛生の瞳に見えた、燃え続ける魂が、大きく揺らいだ気がした。
「それでも、私と、生きてくれますか?」
愛生の告白に、言葉を失う。
うつ病。耳にしたことはある。近年は特に聞くようになった言葉だ。
年間の自殺者数が、毎年最多を更新するようになっており、特に若年層では死因の第一位にまでなったとされていると、いつかのニュースで知った。
自分には関係ないとまでは思わなかったが、どこか他人事のように思っていた。
だが、そんなことはなかった。
「驚きましたよね。ごめんなさい」
身近に、こんな近くに。
「皆、良い顔はしません」
悩む人がいるとは、考えていなかった。
「藍翔さんがどう感じるかは、分からないけど」
愛生が息を吸う。
「気持ち悪い、ですよね」
神様は、あまりにも。あまりにも残酷な試練を課すものだと、呪いたくなった。
「…ごめんなさい。急に、こんなことを聞かせてしまって」
いつもの調子で、愛生は笑う。
画面の向こう側では、本当は。
どんな顔を、しているのだろう。
「今日は、もう寝ましょうか。夢見の悪い話を聞かせて、ごめんなさい」
気の利いたことも、何も言えなくて。
ただ、彼女が、悲しむことがないように。
「もう、謝らないで。ちゃんと、愛生の気持ちは伝わっているから」
愛生が鼻を啜る、小さな音がする。そして、いつもの声で。
「おやすみなさい」
電話が切れる音がした。放心状態で、携帯を耳から離す。
私、うつ病患っていまです。もう、6年ぐらい、ずっと。
愛生の言葉が木霊する。
怪我のように、目に見えて治ったことが分かるものではないはずだ。
普段の振る舞いからは、とてもではないが、察することなど出来なかった。
気付けなかったことを悔やむ気持ちは、ある。
だが、それ以上に。
愛生への想いは変わったのかという自問自答が、脳内で巡っている。
考えても、考えても。
答えは出なかった。
蝉の声が聞こえてきそうな日差しの強さに目を細める。茹だるような暑さ、とまではいかないが、歩くだけで汗が滲みそうだ。手で顔を仰ぎながら、とある場所へ足を進める。
人生で数回しか訪れたことがない。独特の清廉な空気で満ちた、紙の匂いがする広大な空間。時折、紙を捲る音とカウンターで対応をしている職員の声だけで成り立っている、図書館へと訪れていた。
訪れた目的は、調べものがあるからだ。館内にあるマップを見て目的の本がある棚へと足を向ける。
入口から離れた奥の方へ進むと、棚の側面にその言葉を見つけた。
「精神医学…この辺りか」
調べたいのは、愛生の抱えるうつ病についてだ。病気が起こる原因、その症状、治療や薬、サポートする者ができることなど、彼女を知るために調べるべきだと考えた。
インターネットでも調べたが、専門家が監修した書籍はより正しい知識を得られる。インターネットが役に立たなかったわけではない。
一番上の棚から眺めると、本はすぐに見つかった。うつ病というタイトルが書かれているものは多数あり、中でも本人が読むことを推奨するものから、治療者に勧められているものまであった。
手に取ったのは、【うつ病を抱えた人の家族へ】という本。表紙はシンプルで、タイトルが青色の文字で書かれている。
試しに目次を開く。項目ごとに、うつ病について、体調、かかりやすい人の特徴、治療の内容、家族の心構えなどが上げられている。ページを捲ると、一般人でも分かるような言葉とイラストが載っている読みやすそうな内容になっていた。医学に精通していないどころか殆ど知識がない自分にはうってつけだろうとその本をカウンターへ持っていく。図書館で本を借りるなど、小学生ぶりの経験だ。
自宅に戻り、ペンとノートを用意して本を開く。頭に叩き込むためにはメモに書き出すことが一番合うため、勉強する時は学生時代からこのスタイルだ。
気がつけば、日が暮れるまで読み続けていた。一度休憩をいれようと、メモしたノートを見る。
まず、うつ病について。気分障害のひとつで、所謂幸せホルモンと呼ばれるセロトニンと、交感神経に関係するノルアドレナリンが減少することで発症すると言われている。
うつ病になりやすいとされる性格として、メランコリー新和型性格がある。これは、真面目、几帳面、完璧主義、親切、責任感が強いなど特定の特徴があり他人を優先する傾向を持つようだ。誠実に生きるあまり、ストレスを溜め込みやすいため発症に繋がることが多いという。
症状としてよく見られるのは、前触れなく虚しいと感じ泣くこと、死んでしまいたいという気持ち、異常な疲れやすさ、趣味など以前は関心があったものへの興味が薄れ、また感情が乏しくなるなど、実に多様だ。気分が落ち込むために、食欲や睡眠欲が減り、食べられない、眠れないという状態に陥る。自分を責める気持ちが強くなる故に、リストカットのような行為をする場合もある。
改めて読み返すと、愛生がどれだけの苦痛を背負っているかを思い知る。気持ちの持ちよう、考え方次第という簡単な言葉では済まされないことが分かる。
そして治療についてだが、主に薬によるコントロールと医師とのカウンセリングが行われるようだ。セロトニンを増やすための薬で気分を改善させる。同時に、再発予防のために自身の性格や思い込みなどを見直し、柔軟に生きる思考力を身につけていく。しかし、体調の改善を含め長い時間がかかるようだ。
周囲ができるサポートとして、治療者を静かに見守ることが求められる。励ましや、早く治ってほしいという期待などは本人を焦らせ追い詰めてしまう。必要なのは、日々の体調の変化に一喜一憂しないこと、危険があれば医療機関へ相談すること、本人と一緒に長い目で病気と向き合うこと。目に見えて治ったとは分からず、また症状がなくなっても再発のリスクは残る。そういったことも含め、深刻に考えすぎて共倒れにならないように注意しなければならない。自分だけで支えようと思わず、適切に医療機関に頼ることが重要だと記されていた。
他にも、症状を改善するために出来ることが列挙されていた。運動や食事、睡眠など基本的な生活習慣や1人で出来る思考の見直しなど、治癒に向けて様々な対策が書かれていた。
愛生はおそらく、書いてあるような治療や対策を続けているだろう。現時点で症状が落ち着いているかは分からない。
今後、もし関係を一歩踏み出すのなら自分も彼女の病に向き合うことになるだろう。果たしてそれが大変なのか、辛いものなのかは分からない。もしかすると、彼女を選んだことを後悔する日が来るかもしれない。
だが、そんな懸念を他所に、彼女の瞳を思い出していた。
美容室で会った時は伏せられていたため、分からなかった。次に会った時、初めて彼女と食事をした日。こちらをまっすぐに見つめてくる黒い瞳。その奥に見えた、彼女の炎。
強烈な輝きを放っていた。この場で、この時間に、確かに息をしていると訴えている。そんな光だった。一目惚れしたことは確かだが、一番惹かれたのは、あの瞳だ。
彼女の炎に惹かれたのは、幾度となく絶望する中でも決して輝きを絶やさなかったからだと今なら分かる。何度も自らの火に水をかけようとしたが、出来なかった。誰かが火を消そうとしても燃え続けた。
愛生の魂は、生きたいと叫んでいる。
彼女を見た時に、幸せになれると直感した。直感は外れない。確かに、彼女が良いと心が訴えた。
ならば、俺に出来ることは。
メッセージアプリを開き、愛生の名前をタップする。
『今日、今から会える?18時に、広場で待ち合わせよう』
返信はなかった。そろそろ家を出ないと間に合わないという時間になっても、通知を知らせる音が鳴ることはなかった。
だが、愛生は必ず来てくれる。そんな確信があった。バイクに乗り、迷いなく広場に向かい噴水の前に立つ。徐々に空が橙色に染まり始め、仕事終わりの夜を楽しむ人々で広場が賑やかになってきた頃。
「藍翔、さん」
後ろから、既に聞き慣れた声が聞こえた。視界が滲み、目頭が熱くなる。振り返ると、肩で息をしている愛生がそこにいた。
「ごめんなさいっ、今日、急遽仕事入っちゃって…残業していたら、こんな時間に…」
愛生は本来なら休みだったはずだが、急遽職員が二人休んでしまい、流石に仕事が回らないという危機的な状況だったため呼び出されたという。何でも、人手不足だから稀に起きる事態なのだという。
だが、そんなことはどうでも良かった。今、この場で、彼女に会えたことが嬉しかった。
「それで、今日はどうしたのですか?急に会おうなんて」
息を整えながら途切れ途切れに愛生は言う。まるで、電話での会話がなかったかのように、以前と変わらない。
「…月曜日は、毎週会えるって愛生が言っていただろ」
呆然としてしまったことを誤魔化すように笑うと、愛生の顔が赤くなった。そして、月曜日なのに会う約束をしなかったことを謝られた。
「いや、それは俺のせいでもあるから…気まずくて、誘えなかった」
「私もあんなこと言ったから…」
お互いに、あたふたしながら自分の非を詫びる。端から見たら、間抜けな光景だろう。大の大人二人が、高校生のようなやり取りをしているのだから。
「…場所、変えようか」
提案に、愛生は素直に頷く。そして首を傾けた。
「何処に行きましょうか?人がいないところの方が良いですよね」
一瞬思案した後、海に行こうと告げる。広場から海岸までバイクで10分程度の距離だ。
愛生は瞬きをして一拍置いた後に慌て始めた。
「わ、私、バイクなんて乗れませんよ!?」
「大丈夫、ヘルメットもあるし案外平気だよ。乗りながら携帯弄る人もいるし。ほら、行こう」
人生で初めてバイクの後部座席に座り大騒ぎする愛生を乗せて、夕陽が沈む海岸へとバイクを走らせた。
?
水平線へ沈む太陽が、空を藍色と橙色へ変えていく。日中は水色、夕方は赤に近く、また朝は黄金に世界を染めるのは何故なのかと、子どもの時は不思議だった。
名前と同じ、藍の色が太陽の反対側に広がり始めた頃、人のいない海へと辿り着いた。
止めたバイクから愛生が降りる手伝いをする。地面に着いた足は小刻みに震えていた。
「大丈夫?」
心配になって顔を覗き込むと、その顔は今まで見たことない形相だった。
「大丈夫なわけ、ないじゃないですかぁ!」
愛生は文字通り怒っていた。
「今までバイクなんて触ったことさえないのに、あんな、強引に後ろに乗せられて、平気な人がいますか?振り落とされるかと思いました!私今日で死ぬのかって何度思ったことか!」
ぷんぷんという効果音が似合う彼女の様子に笑いが込み上げてくる。大人しい子だと思っていたが、感情表現は豊かだと分かったからだ。
「何で笑っているの、面白くなんかない!もう、藍翔さんの馬鹿」
憎まれ口をたたき続ける愛生。堪えきれず吹き出してしまい、それがまた愛生を怒らせた。
「それ以上笑ったら。もう帰る」
「ごめんって。でもバイクに乗るのも悪くないだろ?」
「全然良くない!」
余程怖かったようだが、元気に怒るぐらいの気力はあるから大丈夫そうだ。もう一度謝って、並んで砂浜へ歩き出す。愛生の文句はその間も止まらなかった。
砂浜の手前に数段の階段があるため、そこに腰掛ける。海の近くに寄りたいが、生憎タオルはなく靴の中に砂が入ると厄介なため辞めておく。愛生も同じ考えのようだ。
一定のリズムで波が打ち寄せては引いていく。波の音は、昂ぶっていた感情も海へと連れて行ってくれるような気がした。
「この前の電話した話だけど」
単刀直入に切り出す。愛生は動揺するかと思ったが、落ち着き払っていた。此方を見て、続きを待っている。
「病気とか詳しくないから調べてみた。読むだけで全部分かったつもりはないけど、愛生が辛いのは何となく分かる」
愛生は頷いて、ありがとう、と小さく言った。
小さな身体と心を蝕む、精神的な病。その苦痛は、本からは分からない。正直な感想だった。
「症状が強い日はどんな感じとか、死にたくなるって何だろうって、分からないことも多い。だから、愛生の全てを理解することは出来ないと思う」
「……」
愛生が顔を逸らし、海を見つめた。彼女に倣い、自分も海へと顔を向ける。夕日に照らされた海が煌めいている。
「俺には愛生の全部を受け止められない可能性はあると思う。その点、病気を経験した人や治療する立場の人の方が、きっと愛生を支えられる」
嘘偽りのない言葉だ。愛生の心に届くように、言葉を紡ぐ。
「でも、そんなことは関係ない」
「え…?」
愛生が目を見開いて、再び俺の顔を見たのが分かる。それに向き合い、言葉を続ける。
「美容室で会った時はお客さんの一人だからちゃんと顔も見ていなかった。次に会った時、愛生の目を見て、この子と生きていくんだって直感した」
漫画やドラマのような告白に、冷静な自分が少し呆れた顔をした。世界で一番恥ずかしいことを口にしている自覚はある。だが、人には、恥を捨て勇気を振り絞る時が必ずあるのだ。
「愛生と一緒に生きたい。何があっても、離れたくない」
夕日が空を赤く染めている。
愛生は、深く息を吸った。そして、時間をかけてゆっくりと吐き出す。まるで、何か憑きものが落ちたような雰囲気を纏った。
「失敗した後、失恋した時…落ち込んだ日に、お腹空かなかった経験はある?」
唐突な質問に戸惑う。答えあぐねていると、愛生が首を傾げて微笑んだ。
勿論、経験したことはある。昨年の失恋など良い例だ。他にも、成績が大きく下がった時や仕事でミスを重ね叱られた時など、挙げ始めたらキリがない。頷いて返答すると愛生は、そっか、と微笑んだ。
「あの感じがずっと続くの。味がなくなって、美味しいと思えなくて、食べる量も減って。気付いたら、食べることが嫌いになってしまう」
愛生は俯いた。かける言葉が見つからず、黙ったまま続きを待つしかなかった。
「食べられなくなったら、次はどんどん色んなものを見失うの。眠れない、集中できない、楽しいと思えない。少しずつ素敵だなって思える気持ちが萎んでいく。気付いたら、感情がなくなったみたいに何も感じなくなっていた。楽しいことが心の中から出ていくと、心に残るのは辛いこと。辛いことで胸がいっぱいになると涙が止まらなくなる。気を紛らわせることは出来ても、思い出すとすぐに泣いてしまう。私の症状は、うーん、体調かな。いつもそんな感じ」
彼女は、精一杯伝えようとしていた。彼女が抱える「うつ病」というものの怖さを。
そして、徐に自身の左袖を捲った。現れた左腕の手首には。
「包帯…?」
愛生は、眉尻を下げた。
「自傷行為しているの。リストカットって言うと分かりやすいかな」
ガンと、石で殴られたような衝撃を覚える。
「どうして、そんなこと」
容易く聞いてはいけないのは分かっていた。だが、口が勝手に動いた。愛生は気を悪くした様子もなく平然と答えた。
「自分を罰するため」
「罰するって…」
想像を絶する回答に絶句する。包帯が巻かれている腕を思わず凝視すると、そんなに見ないでと恥ずかしそうに笑って、服の袖で手首を隠した。
「よく怒られるの。お前は駄目な奴だ、何で生きているんだって。生きる資格のない私がのうのうと生きているのはおかしいから、罰として自傷するの」
彼女の愛くるしい顔にはとても相応しくない言葉が、次々に紡がれていく。左手首に巻かれている包帯とそれに覆われている傷を思い、痛々しさから思わず顔を顰めてしまう。愛生は尚も微笑んでいる。
「死ぬ勇気はない。私がいなくなれば、みんな幸せになるから早く死ななきゃいけないと分かっているのに。いざやろうとしても、とどめを刺せない。寸前で身体が固まって動かなくなってしまう。自分の始末もできないなんて、どこまでも駄目な人間だよね、私って」
「もういい」
大きな声が出てしまった。愛生がびくりと身を振るわせ、口を閉ざした。慌てて、ごめんと謝る。
「怒鳴るつもりはなかった。でも…それ以上、自分のことを責めないでくれ」
祈るように言う。紛れもない本心だった。
彼女が、彼女自身を傷つける言葉を、口にしてほしくない。
愛生はごめんなさいと言った後、ひとつ呼吸をおいて話を続けた。
「薬のおかげで元気になるけど、止めたら元通り。自分の力で幸せだなって思えることを沢山見つけて、感じられるようにならないと根本的な解決にはならないみたい。」
治療に時間がかかると書いてあったことを思い出す。本には、再発を予防するために必要な対策が書いてあったことも脳裏に浮かんだ。
「じゃあ、幸せって思えるものを持てば良くなるのか?」
口を出た疑問に、愛生はどうだろう、と呟く。
「私も、最初はそうすれば良くなると思っていたの。お医者さんの指示で、薬を辞めたことが1年ぐらいあったのだけど」
一度言葉を切り、困ったように微笑む。
「半年も経たないうちに、再発しちゃって」
自転車で転けてしまったかのように、軽い口調で愛生は言う。再発した時、どれだけの絶望を感じただろう。時間をかけて抜け出したと思えば、また一からやり直しになった時の虚しさは、計り知れない。
言葉を失い押し黙っていると、愛生は続けた。
「もう大丈夫って思って薬を止めてもすぐ逆戻りするのは、私自身が変わってないからなのかなって、最近考える」
「…変わってない?」
俺が問うと、愛生は頷く。
「そう。人は、色んな幸せを見つけながら生きているってお医者さんは言っていたの。仕事で成功することが幸せな人もいれば、趣味を沢山持っている人もいるって。自分が『楽しい』『幸せ』と思えるものを沢山持っているから、何か嫌なことが起きても心は折れない。でも私は…」
言い淀んだ後、再び言葉を続ける。
「幸せを感じようとしてないんだろうなって、最近思う。ずっとマイナスな状態でいたから、このままでいいやって心のどこかで甘えている。変わろうとしないから、いつまでも幸せを感じられずうつ病を抱えたまま過ごしているのかなって」
苦笑して、愛生は顔をあげた。その横顔には、諦観が滲んでいる。
「何度も病院に行ってお話した。本も色々読んで、役に立ちそうなことは試した。散歩に、生活リズムの改善、趣味を作るとか。色々、ね」
話してくれたのは、あくまで彼女が今まで生きてきた中で感じ、考えたことだろう。医学的に言えば愛生の考えは間違っている部分もある。気持ちの問題で、その病が治るとは限らないのは、本を読んだ時に知った。
だが、彼女自身には、変わろうとしていないからという理由がよく当てはまっているように思えた。おそらく自分を責めることも、傷つけることも、慣れてしまったのだ。
長く治療を続ける中で、幸福を感じるセンサーが鈍くなり多くの人は楽しいと感じることも気づけなくなっていった。そして、その代わりのように苦痛を感じるセンサーは敏感になった。苦痛ばかり心のメモリに保存するから、生きていても辛いことばかりだと感じてしまう。
彼女の言う、幸せを感じようとしていないという状況は、そんな風に考えることが出来るのではないだろうか。
「……」
愛生は、変わろうとしてないのだと言った。しかし、本当は「何度も変わろうとして上手くいかなかったから諦めてしまった」の間違いではないか。そんな憶測が浮かんだ。今まで、長い間通院を繰り返し、様々な本を読んだという。改善を望まないなら、そもそもやらないだろう。決して楽ではない通院も、読書を通して改善策を模索することも。彼女の今までの行いこそ、変わりたいという期待の表れではないだろうか。
「今は、変わろうと思ってない?」
問いかけに、愛生は此方を見た。うーん、と言いながら首を傾げる。少し言い淀んで、おずおずと唇を開いた。
「本当は変われたらいいなって、ちょっとだけ思っている、かな」
でも、きっと失敗するよ。
愛生は、繰り返す失敗の中で自信を失っていた。夕日に照らされた瞳が、わずかに潤んでいる。
失敗するのは、怖い。確かにそうだ。
失敗した時に失望するのが怖い。何も得られなかったと絶望するのではないかと身が竦む。もしかしたら、誰かに笑われるかもしれない。辱めを受けるかもしれない。挑戦すると、そんな大きなリスクを背負うことになる。それは真理だ。
だが。
そこで終わってしまったら、面白くない。人間は、生きるとは、失敗を繰り返しながら成功を手繰り寄せるものなのだから。
「愛生」
だから、彼女には少し酷な試練を与えることにする。
きっと、何度も嫌な思いをさせるだろう。傷つけるかもしれない。最悪、嫌われてしまうかもしれない。
それでもいい。それでもいいから、愛生に、もう一度生きることを諦めないで欲しい。
強く、強く願った。
「俺が、愛生のうつを治すよ」
力のこもった声で、誓った。愛生の大きな目が、見開かれる。
「え?」
「俺が治すよ。愛生のこと、変えてみせる」
愛生が、望んでいるから。
愛生が、願ったから。
愛生が、これからの時間を、少しでも悪くないと思えるように。
「俺が、そばにいる。一緒に変わろう。一緒に、生きていこう」
鈍くなってしまった心を揺さぶるほどの感動を味わってもらおう。苦痛で満タンになったメモリを削除してまで保存したい、新しい喜びに出会わせよう。いつか、その身体に傷をつけることなく、また自責の言葉と感情を忘れさせるのだ。
そうして、いつか。心の中を幸せでいっぱいにした彼女が。
私、ちょっとは変わったよ。
悪戯が成功した子どものように、笑えるように。
「…私、変われるかな」
愛生の頬を、一筋の滴が流れた。
「変われるよ。この瞬間から」
自信なさそうに微笑む彼女に、笑いかける。
「だって、あれだけ抜けなかった敬語を今日はずっと使ってない」
愛生は虚を突かれた様子で、両手で口を覆った。
「本当だ、私、ごめんなさい」
「良いよ。俺が愛生を変えた一つ目の項目は、敬語だな。あとでメモしておくよ」
冗談めかして言うと、愛生は今までにないほどのとびきりの笑顔になった。
「メモしなくていいよ、恥ずかしい」
殻に籠もっていた彼女が素の表情を見せてくれたように、状況を変えていけたら良い。
水平線の彼方へと太陽を隠し、その身を藍色に染める空と同じように、少しずつ、少しずつ。