青に生きる 2
首を長くして待ち望んだ日が訪れた。普段の休日は昼前まで惰眠を貪っているが、今日は違う。目覚ましの鳴る五分前に目が覚め、二度寝することなく起き上がる。寝起きの身支度を素早く済ませて、昨夜取り出した服に袖を通した。コテを使い、毛先を全体的に軽く巻いていく。適当な量の髪を掴んで内側に巻き、また別の部分の髪を掴んで外側に巻くことを繰り返し、ふんわりとした髪型を作る。仕上げにスタイリング用のヘアオイルを手に馴染ませて髪をくしゃくしゃとかき回し、終了。髪が全体的に巻いたようなこなれた雰囲気の髪型になった。
仕事柄、日常的に客の髪をセットするため自身のものでも慣れたものだ。
脱いだ寝着を畳み、軽く整えた布団の上に置いたのは気まぐれだ。何となく、良いことを一つでも多く行った方が一日を気持ちよく過ごせる気がしたのだ。
キッチンに出て、朝食を用意した。とはいえ、余っていた食パンを一枚トーストしてコーヒーを作るだけだ。携帯でアプリを開き、念のためもう一度アキと決めた予定を確認する。
『25日の月曜日、正午、百貨店前の広場』
間違いない。携帯のロック画面に表示された日付は四月二十五日、月曜日。刻一刻と時が進む度に、鼓動が早くなっていく。らしくない、緊張しているようだ。初めて恋をした高校生のような自身に思わず苦笑する。
待ち合わせ場所までは徒歩で15分もかからない。ゆっくり過ごしても十分間に合う。テレビを見て時間を潰そうと電源を付けるが、内容は耳を素通りするばかりで楽しめない。結局、荷物を準備して早々に家を出た。
早く着いても特段やるべきことはない。アキが早く到着していれば話は別だが、そうはいかないだろう。逸る気持ちを抑えられないのはなかなか厄介なのだと初めて気付く。
百貨店前は大勢の人でごった返していた。平日とはいえ、昼間ともなると平日休みの人々が集まるのだ。広場で売っている軽食やスイーツを楽しむ女子集団や、ベンチに座って雑談を繰り広げるカップルなど多種多様だ。その中の一人に混ざるつもりで、広場の中心にある噴水の前に立つ。マッチングアプリを開いて、アキに一言連絡した。
『今着いた。思ったより早く着いた(笑)アキはゆっくり来てね』
あくまで、こちらが早すぎただけで急ぐ必要はないことを伝える。一分後、アキから返信が届いたのだが目を疑った。
『藍さんも?私ももう到着しちゃって…』
ぐるりと周りを見渡す。人待ちしていそうな携帯を片手に持つ女性を探す。すると、背後から小さな声で、あの、と声を掛けられた。
「藍さんですか?」
振り返り、声の主を見下ろす。
自分よりおそらく二十センチほど低い位置に頭がある。。スウェットライクの白いトップスにショート丈のパンツ、白いラインの入ったくすみピンクのスニーカーとカジュアルな服装。その髪は、記憶に新しい黒色で顔のラインより少し上で外にはねさせたショートボブ。黄味のあるベースの肌色によく合ったコーラルピンク系のメイクをしている、奥二重の目でこちらを見上げる女の子がそこにはいた。幾度となく携帯で見た、画面の奥で微笑んでいた顔がそこにあった。
反応ができなかった。凝視していると、少女が狼狽える。
「あ、ごめんなさい。人違いでしょうか。急に声掛けてしまってすみません」
みるみるうちに少女の顔が赤くなる。間違えたことを恥ずかしがっているのだろう。その反応にまた心臓が刺される心地がした。
「ごめん、俺です、藍です。…アキちゃん、だよね?」
少女はほっとしたように強ばっていた表情を緩めて、はいと頷いた。そして、照れたようにはにかんで、
「広場に来た時、すごくかっこいい方がいるなって思っていたら藍さんでびっくりしました」
まずい。
こんな展開になるとは思わなかった。完全に油断していた。自分がまさかこんなに単純な人間だとは今の今まで思っていなかった。
一目惚れを、してしまった。
「あ、私、アキって言います。木山愛生です。漢字で、愛に生きる、です」
愛生が自己紹介をする。彼女に倣い、こちらも名乗ることにした。
「藤島藍翔っていいます。藍翔は、藍色に飛翔の翔。読みにくい名前ってよく言われる」
愛生は、あいとさん、と呟いて微笑む。
「素敵な名前ですね」
花びらが開いたような笑顔だった。
脳内でゴングが鳴り響いている。愛生の力の入っていないパンチが左胸あたりに当たると、まるで強風にさらされたかのように自分がリングに倒れ、そのままノックアウトとなった。
完全に、完全に負けた。錯覚か思い込みだろうと真に受けていなかったのに、人生で初めて、一目惚れしてしまったのだ。
「とりあえずお店行こうか」
動揺を取り繕うためにランチを予約した店へ誘導する。どくどくと早鐘を打つ心臓は収まる気配がない。愛生はそれに気付いたそぶりもなく、むしろ彼女自身もそわそわとしていて落ち着かない様子だ。
高校生でもあるまいし、と内心で自分に呆れる。
訪れた店は、ガラス張りのビルの二階にある。フロアの中心は正方形にガラスで区切られている。ガラスの内側は花をはじめとした植物が植えられた中庭のようになっていた。中庭を囲むように店内にはいくつもテーブル席を用意されており、昼時ということもあり店内はほぼ満席だった。
そのうちの一つ、中庭を正面に眺められる席に案内された。荷物を籠に入れて座る。
だが、この席は問題があった。
「こちら、横並びに座っていただく席になります」
まじか、と言いかけて言葉を飲み込む。愛生は口をぽかんと開けていた。
「他の席は…」
「申し訳ありません。混み合う時間帯は三名以上の場合のみ大テーブルの席にご案内しております」
どうしようもないらしい。愛生には悪いが、この席で食事をしてもらうしかない。
「そうですか、ありがとうございます」
お礼を告げると、店員は申し訳なさそうにお礼と一礼を残して去って行った。
先に愛生に座るように促すと、おずおずとソファの奥側に座った。その隣に、できるだけ距離を開けて隣に腰掛ける。荷物を預かって、足下の籠の中にまとめて入れる。
「ごめんなさい、狭いですよね」
愛生が眉を下げて苦笑いした。謝るべきは自分だ。おそらく、予約した時に男女一人ずつと伝えたためカップルと思われたのだろう。この席はカップル用のはずだから、店員の気遣いで用意された席ということになる。
「こちらこそごめん、前に来た時は向こうのテーブルだったから」
「いえ、気にしないでください。…仲良くなるにはちょうどいいかもしれないですよ?」
冗談交じりに愛生は言う。だが、今の自分に冗談は通じない。そんな一言でさえ、彼女の虜になってしまう気がした。
改めて愛生を見る。高校生ぐらい小柄で童顔なため少女かと思ったが、立ち居振る舞いは大人の女性のそれだった。座っていても分かるぐらい小柄だから勘違いしてしまった。
まじまじと見られていることに気付いた愛生の顔が、林檎のように頬が染まる。
「私、あまり男の人と二人で過ごしたことなくて…緊張して、上手く話せないかも」
「ううん。俺も緊張しているから、気にしないで。」
笑いかけると、愛生も少し笑った。
メニューを渡され、二人で食べたいものを決める。色々悩んだ末、日替わりランチのパスタを選び、店員に注文する。一通りの流れの後、愛生は頭を下げた。
「髪の調子、どう?癖がついたりセットが難しかったり問題ない?」
まずは話しやすい話題から。共通の話題といえば、愛生の髪をカットしたことだ。質問すると、彼女の表情が明るくなる。
「とてもいいです!私、髪が広がりやすいのが悩みでした。でも、藍翔さんに切ってもらってからセットするのもとても楽になりました」
「それならよかった。気に入ってくれたなら嬉しいよ」
「友だちにも褒めてもらえて…担当してもらえて、本当に嬉しかったです」
嬉しそうな笑顔に、つられて笑顔になる。愛生だからというわけではなく、自分が施術を担当した人の感想や喜びを聞くと嬉しいものだ。その人の悩みを解消できるように、また希望を叶えられるように工夫してカットしていく。それが笑顔を生むことに繋がれば、美容師冥利に尽きるというものだ。
「またいつでも切るから連絡して。アレンジの方法も教えるから」
素の一面というより、美容師としての自分が出てしまったが愛生は緊張がほぐれたようだ。
「アプリでも言いましたけど、偶然ってすごいですよね。少女漫画みたい」
「少女漫画かあ。こんなベタな展開あるかな」
「ありますよ、きっと。そう思うと、不思議な縁ですよね」
お互いに気が紛れて、少しずつ身の上話を始めた。仕事のこと、趣味、学生の時、笑い話。話は尽きなかった。愛生は時々話すが、殆どは自分が話していた。相槌を打ちながら、時々目を見開いたり、笑ったり、静かに聞いてくれたり。聞き上手な一面があるのだろう、彼女にはどんなことも楽しく話すことが出来た。
運ばれてきたパスタを食べながらも、話は尽きない。好物の話になり、旅先で食べた会席料理の話から、友人と共に口にしたフランス料理などなど。愛生は一つずつ、終始楽しそうに聞いてくれていた。
愛生の話も聞いた。幼い時から真面目を絵に描いたような性格で学級委員長をしていたこと、勉強熱心だがどうしても数学ができず赤点ギリギリを連続してとったこと。チャットで話している時には言わなかった話を、対面するからこそできる話を沢山。
店を出る頃には、すっかり緊張もなくなり、冗談を言い合うぐらいの仲になっていた。ほんの数時間だが、馬が合ったらしい。自然な流れで、次の約束もすることになった。
「次の月曜日は仕事終わりなら空いているので、よかったら…」
愛生の提案は勿論快諾した。愛生の仕事が終わったら、彼女と夕方に居酒屋へ行くことを約束する。愛生の自宅は電車でひとつ隣の駅から徒歩十分程度ということで、駅の近くで予約をとることにした。
「今日はありがとう。また次の月曜日に」
礼を述べて笑いかける。愛生も笑みを浮かべて、元気よく頷いた。
「私、月曜日っていつも憂鬱で苦手でした。でも、藍翔さんに会えるなら、ハッピーに迎えられそう」
彼女の言葉に、心の中で勢いよく頷いた。週の始めは店休日のため必ず休みだが、何となく気が重い。しかし、好きな人に会える日ともなれば話は違う。週の中で、一番楽しみな日になるだろう。
殺し文句に心臓を再び刺されたような感覚を味わいながら、平静を装ってスマートに別れを告げる。
「俺も楽しみだよ。また来週ね」
それじゃあ、気をつけて。
この後、寄る場所があるという愛生と別れて、足を自宅へと向ける。
角を曲がったところで、我慢していたものが弾けて頬が緩む。思わず口元を覆って、天を仰ぐ代わりに俯きがちに歩く。
すごく可愛かった。というより、好みドストライクだ。
マッチングアプリを使って本気で恋をできるとは正直思っていなかった。だが、予想は大きく外れ、むしろ人生で一番熱をあげる恋をしてしまった。アプリには感謝しかない、また美容師という職業を選んだ過去の自分に拍手を送りたい気分だ。
今日のことを忘れないために、日記でもつけてみようかと自分らしくないことばかりが思い浮かぶ一日だった。