青に生きる 12
自分が暮らす地域の最寄り駅まで戻ってきた。携帯を見ると、自宅を出て約40分経過していた。愛生と連絡が取れなくなって1時間になる。それだけの時間があれば、ある程度遠くまで行くことは可能だ。徒歩ならまだこの辺りにいる可能性はあるが、自転車など足を使っていればもっと遠い所まで。思い当たる場所を虱潰しに当たるしかないと決めて、一度深呼吸する。
花音に連絡を入れる。家には居なかったと告げると、落胆した声でそっか、と言った。
『無事だったら良いけど……。どこを探したら良いのかな』
「愛生が行きそうな場所に心当たりはないか」
『何も。愛生、あまり出掛けない性格だから』
早速手詰まりになってしまった。溢れそうになるため息を飲み込んで、苛立ちを抑える。
『愛生の家の前に自転車はありましたか?』
唐突な質問だった。自転車、と聞き返すと花音は説明した。
『勤務先に行く時、駅まで自転車を使うって言っていた。一度家まで送った時は家の前に置いてあったから、もしなかったなら……』
「自転車で移動しているってことか」
『多分』
家の前に自転車はなかった。何も置かれていないのを良いことに適当な場所へバイクを止めたのだから間違いないだろう。
「ずっとこぎ続けているとしたら、探す範囲は広がるな」
『警察に手伝ってもらった方が良いのかな』
現実的な提案だった。インターネットで検索したが、嬉しい説明は書いていなかった。
「家出の場合は、手伝ってくれないらしい」
どうしたものかと頭を抱えたくなる。だが、まだ行方が分からなくなって1時間しか経っていない。これから探せば見つかる可能性はあるはずだ。諦めるには早すぎる。幸運にも、夜明けに差し掛かる時間帯となった。9月の下旬ともなれば幾分か日は短くなったが、日の出はそう遅くない。5時30分頃に太陽が顔を出すため、徐々に周囲が明るくなっている。希望を捨ててはいけない。
「明るくなってきたし、一度町全体を見てみるよ。日が昇れば捜索も楽になる」
花音を元気づけるためにも前向きにそう伝える。花音は感謝を告げた後に、そういえばと話しかけてきた。
『今、私も外にいるけど。ちょうどブルーモーメントの時間だね』
「ブルーモーメント?」
気を紛らわせようとしてくれているのか分からないが、普段と同じぐらい明るい声音で花音は説明した。
『夕方と早朝に見られる、藍色の空。1時間ぐらいしか見えない空の顔。藍翔さんの名前だね』
遠い記憶が掘り起こされた。
小学2年生の時、自分の名前について両親に聞くという宿題が出された。作文としてまとめ、授業中にクラスメイトに発表するというもので気恥ずかしさを覚えながらも母親に問うた。母は柔らかな笑みを湛え教えてくれた。
暗い世界で鳥は飛べない。飛べるようになるのはお日様が顔を出した後なのよ。でもね、あなたには暗がりの……夜明け前の藍色さえも、自由に翔けてほしい。そんな思いを込めて、藍翔と付けたのよ……。
その時は、難しくて分からないと困惑した。母親は、いつか分かる時が来ると言い、平易な言葉で作文を一緒に考えてもらった。友人にかっこいいじゃんと腕を突かれ照れた覚えがある。
「……ありがとう。元気出た」
『こんな時こそ、落ち着いて考えないと。ね』
取り乱していた花音は、ほんの1時間で自分を取り戻していた。彼女に倣って気合いを入れ直し、礼を告げ通話を切る。アクセルを握り、バイクを三度走らせた。
?
空が少しずつ明るくなっていく。藍色一色に染まっていたはずが、地上近くに見える空は既に黄金と白が混ざった色へと変化していた。
辺りはよく見えるが、まだ愛生を見つけられていない。待ち合わせに使っていた駅前も、初めて彼女と会った百貨店の広場にも居なかった。誰も歩いていないため、人影を見て淡い期待を抱くこともなく時間だけが無慈悲に過ぎていく。
一度頭をリセットした方が良いだろうか。町を南下したため、少し走った先には海がある。
「愛生と見に行った海、か」
道路を真っ直ぐに進むと、駐輪場と駐車場が現れた。その奥には、水平線の向こうに存在を主張する太陽があった。もう日の出かとバイクを降り、近くに設置されている自動販売機でお茶を買う。片手にペットボトルを持ち、海岸へと足を向ける。
誰もいない海は、いつか見た時より広く感じた。あの日は、愛生が隣にいた時は美しいと思ったのに、今は何故か物悲しさを覚える。自分の心境ひとつで感じ方さえ変わるものなのだろうか。
波が打ち寄せては引いていく。波の音だけが世界を支配している錯覚に陥るほど静かだった。朝の澄み切った空気と潮の香りが気持ちいい。買ったお茶を飲もうとペットボトルの蓋を開けて一口、二口と飲む。いつの間にか渇いていた喉を潤してくれたそれはひんやりと冷たかった。焦る気持ちから火照った身体を冷ましてくれるだけでなく、あれこれと散らかっていた思考も整理してくれた。
ふう、と息をつく。夏の終わりと秋の訪れる狭間の気候は、眼前に広がる海によく似合っている。少し歩いてみようかと周囲を見渡した視界が、一つの物体を捉えた。
離れた位置に、誰かが蹲っている。服や髪型までははっきり分からない。こんな時間にどうして海にと疑問に思ったところで、駆け出す。
確証はない。人違いかもしれない。だが、一縷の望みに縋りたかった。上手く走れないことにもどかしさを覚えながら、まろぶように駆け寄る。息を切らして走った。蹲る人の隣で立ち止まって、その人を見た。
ぐしゃぐしゃに跳ねている黒髪、いつか見た覚えのあるシャツワンピース、華奢な四肢を精一杯小さくして膝に顔を埋めていた。服から伸びる腕に、青痣がいくつも刻まれている。よく見ると、膝に顔を埋めているのではなく何かを抱きかかえていた。
「愛生」
名前を呼ぶ。女性は、びくりと大きく身体を震わせ、おそるおそると顔を上げた。
「あいと」
膝をついて、抱き寄せる。いつから座っていたのだろう、冷え切った身体は体温を感じられなかった。温度を分けるように強く、強く抱きしめた。全身を蝕んでいた不安と絶望が晴れていき、安堵で身体の力が抜けた。
「良かった、ちゃんと会えて」
愛生が背中に腕をまわすことはなかった。だが、服の裾を、手が白くなるほど強く掴んでくれた。
「けいたいが、壊れて。連絡とれなかった」
舌足らずに言う彼女の様子に違和感を覚えて、彼女を覗き込む。彼女の左頬は赤く腫れていた。
「これ、どうしたんだ」
瞠目して聞くと、愛生はへらりと場違いなほど柔和に微笑んだ。
「ちょっとたたかれた」
「馬鹿、ちょっとじゃないだろう」
先程ちらりと見えた、腕に出来ていた青痣を思い出し慌てて身体を離す。彼女の腕をとり伸ばしてもらうと、無数の皮下出血した痕と生傷が出来ていた。同じものが太股からふくらはぎにかけていくつも確認できた。
「父親だろ、やったのは」
愛生は、力無く頷いた。口を開けてもらい、歯が抜けていないかを見ると幸い異常はなかった。唇をきつく噛みしめたせいで血が出たと言う愛生の言葉で、下唇の一部から出血していることに気付く。
「手当てするから俺の家に行こう」
救急外来があれば良かったのだが、この地域にはない。診察の受付時間が8時45分頃のクリニックもあるため、近場に駆け込めば何とかなる。今は応急手当をしなければならない。
「立てるか。難しかったら背負うよ」
腕をとる俺に、しかし愛生は首を横に振った。俺から逃げるように砂に手をついて後退る。
「愛生?」
「ちかづかないほうが、いい」
膝の上に乗せていたものを両腕で抱きしめ、消え入りそうなか弱い声で言った。注意しなければ波の音に消されてしまいそうで、彼女に近づく。愛生は再び後退った。
「私のせいで、みんな、不幸になるから」
ぽろぽろと溢れ出した涙が、愛生に抱えられた何かに染みこんでいく。よく見れば、色褪せて元の色を失ったあざらしのぬいぐるみだった。
「おとうさんも、お母さんも、藍翔も。私のせいで、苦しめた」
「そんなわけない。俺は、愛生がいるから嬉しいのに」
「嘘だよ! そんなのっ」
声を荒げた彼女に驚く。愛生はこちらを見ないまま、絶叫するように訴えた。
「私がいるから2人の仲が悪くなった! 私のせいで、藍翔を悩ませた……! 誰も、誰のことも傷つけたくない、みんなを、みんなに、笑っていてほしいのに……」
悲痛な声に、ずきずきと胸が痛んだ。愛生の心は、脆く崩れてしまう一歩手前で踏みとどまっていた。今までも、とっくに壊れてしまっていてもおかしくない状況で堪えていたことを知る。
「私がいなければ、みんな幸せになる」
愛生の心が、泣いていた。
「俺は、愛生がいるから幸せだよ」
「そんな甘い言葉で、延命させようとしないで!?」
延命。重たくのしかかった言葉に、きゅっと喉が締め付けられる。愛生は、はっとした顔になり、だが叫ぶことを止めなかった。
「早く死ぬべきだった、お母さんが出て行く前に死んでいたら。病院なんか行かなければ……そうしたら、そうしたら私と関わる人は今より少なく済んでいた。私のことで頭を抱えることなんて、なかったのに」
私がいなければ。それは、生まれなければ良かったと同義で。
彼女は、己の孤独を抱えて息をしているのだと、ようやく気付いた。愛されず生きることがどれだけ心に深い傷を負わせるのかを、初めて実感した。
そして、分かったことがある。
「愛生は……両親に、愛されたかったのか」
ひゅ、と息を飲んで愛生が目を見開いた。その反応に合点がいく。父親から離れることを話した時、酷く同様していた。あれは、独り立ちに対する不安の表れだと考えていた。違った。彼女は常に両親の愛を望んでいた。実家に住み続けていたのは、いつか父親が愛してくれるのではないかという執着だろう。
愛生は狼狽していた。再び彼女に近づくと、今度は避けなかった。
「人間って、面倒な生き物なんだ」
「え……?」
目を丸くする愛生に微笑み、そっと抱き寄せる。壊れてしまいそうな小さい身体を、薄いガラスを扱うような優しさで触れた。
「赤ん坊は何となく気持ち悪いと思うものを取り除いてもらうために、生まれた瞬間から泣くという本能が備わっている」
愛生の顔を胸の中に抱きしめ、後頭部を一定のリズムで撫でる。
「最初は、トイレすることさえ泣く。身体を洗ってもらう時も泣いて、大人では理解出来ない些細なことにも泣いて生きているんだ」
周囲が一際明るくなった。横から目映いほどの光が、水平線から漏れ出ている。夜明けだ。
「泣くのは、嫌だから取り除いて欲しいという欲望を満たしてもらいたいから。人間は、生まれた瞬間から己の欲望のために生きているなんて、面白いよな」
「……おもしろい、かなあ」
愛生の困惑した声に苦笑して続ける。
「俺も、花音や照にい、由梨さんも。みんな、自分を満たすために生きている。愛生も同じ」
複雑怪奇な人間に比べれば、少しずつ姿を現す恒星の、なんと単純なことか。
「欲望が叶えられないと分かると次第に執着へ変わる。叶うはずないのに求め続けてしまう。最後に行き着くのは破滅」
「……」
「こんな時に話題に出してごめん。前の彼女に浮気された時、いつか帰ってきてくれる、愛してくれるなんて思っていた時があった。でも、自分の身を滅ぼしただけで愛情なんて一つも手に入らなかった」
人は、時に諦めなければならない。だが諦めることで自分の欲を新たに満たすものに気付き始める。
「先輩の言葉で、俺は執着を止めるよう努めた。求めた人からは愛されなかったけど、俺の周りには彼女一人が授けてくれるだろう愛情よりもっと多くのものがあることを知った。だから、彼らと生きようと思えるようになった」
愛生の腕が、己の背中にまわった。力の入っていないそれが愛おしかった。
「愛生は今、両親への思いを断ち切って他の何かに気付く時なのかもしれないな」
「……」
「それが何なのか分からないけどさ。今は分からなくても、いつか見つけられる。だから」
朝を迎えた世界は徐々に目を覚ます。自由を手にした鳥の鳴く声が、どこからか聞こえてきた。
「俺と、みんなと一緒に、もう少しだけ生きてほしい」
愛生の答えは、朝焼けの空に優しく溶けていく。
複雑で、面倒で、だけど何故か離れられない。人間とは、そういう生き物なのだ。
水平線から太陽が半分顔を出した頃に花音へ連絡を入れた。すぐに伝える予定のはずが遅くなってしまった。愛生の無事を報告するメッセージを送ると1分足らずで既読が付いた。返信はなかったが、代わりに背後から車が近づく音が聞こえてきて振り返る。白の軽自動車が駐車場に止まろうとしていた。
「誰だろう」
愛生に答えるように、運転席から特徴的なピンク色の髪をもつ女性が現れた。あの髪色は、自分の知る限り一人しかいない。
「愛生――!」
叫ぶや否や花音は階段を駆け下り、砂を蹴った。勢いに任せて愛生へ飛びつく。
「よかった、心配したんだからぁ!」
愛生は何も言わず、顔を歪めて涙が溢れないように堪えていた。子どもみたいに泣きじゃくる花音に抱きしめられていた。
「心配かけてごめん。約束守ったから、許して」
花音はぴたりと呼吸を止めて愛生の目を真っ直ぐに見た。約束、と花音の唇が僅かに動いた刹那、再び大粒の雫が頬を伝い始めた。
「あきの、ばか!許してあげないっ、二度と……二度と、こんなことしないで」
愛生は微笑み、もう一度ごめんと呟いた。彼女の横顔に、俺は我知らず安堵した。