青に生きる 11
「私は家を離れた方が良いと思っているよ」
「……そう、だよね」
三人でテーブルを囲み沈鬱な表情で俯く。
場所は自分のマンション。各自で持ち寄った菓子を片手に、会議を開いているところだった。メンバーは自分、愛生、そして花音だった。
9月を迎え、本格的に愛生の家出――自立を目標に行動を始めようと提案したところ、花音も名乗りを上げた。長らく愛生に知らせず相談していたことを包み隠さず打ち明けてから、3人で計画を考えることになった。
花火大会の夜から2週間が経過した。その間、愛生からの連絡が減り、なかなか父親から離れることについて聞くことが出来なかった。日曜日の夜になり、ようやく眼前に迫った課題について愛生が口を開いたため、緊急で集まったという流れだ。
この2週間で、自分と花音がアプリを経由して知り合ったことなどを説明した。愛生の連絡が減ったのは、色々と複雑な心境を整理するために時間を要したためだ。何を考え、何を思いどのような決断をしたのかも話していないため彼女の考えは今日初めて聞くことになる。
無理を強いてしまったことを謝ることから話し合いは始まったが、愛生は笑顔で大丈夫と言った。そして、彼女が率先して本題を切り出した。
「お父さんから離れることを考えたことなかった。でも、藍翔に言われてそういう道もあると知れたの。出来るだけ前向きに取り組みたい」
毅然とした表情に安堵した。花音と顔を見合わせ、ひとつ頷く。
「花音と俺は、愛生が辛い目に遭う原因であるお父さんからは離れてほしいと思っている。具体的に出来ることはひとつ」
「愛生が一人暮らしか、誰かの家に身を寄せてほしいの」
愛生は頷いた。唇を引き結び、花音と俺の目を見ている。
「下世話だけど、貯金はしているか」
「ある。元々、やりたいこともなくてほとんど使っていないよ」
「じゃあ、金銭面はクリア。次は場所ね。これも、お仕事に支障がない地域ならどこでも空きはありそうだから大丈夫よね」
携帯を見ながら花音が言った。愛生の職場付近で一人暮らしが出来る賃貸を検索したようだ。適当に選んだ物件を愛生に見せると興味深そうに眺めた。
「お仕事の休みに合わせて、引っ越しの準備は進めてね。講義がない日なら、いつでも手伝えるし」
「ありがとう」
言いながら携帯を返す愛生は、至って普通に見える。この2週間で葛藤したことを、すべて克服できたような、そんなさっぱりとした表情に。
「心配なのは、引っ越した後に追ってこないかってこと」
懸念していることを口にすると、一瞬愛生の眉間にしわが寄った。先程と変わらない声音でうーん、と首を捻る。
「前に叩かれた後から一言も話していないの。お金を封筒に入れて渡すやり方に変わって、顔も見ていない」
「お金を渡す?」
愛生が、あ、と口を覆う。花音とともに彼女の顔をじっと見ると、仕方ないといった体で白状した。
「月の生活費として、お父さんに仕送りしているだけ。そんなに高くないよ」
「いくら?」
異口同音に問う。愛生は、困った顔で答えた。
「10万円ぐらい……?」
「嘘でしょ!?」
テーブルを叩いた音がやけに大きく響いた。身を竦ませた愛生は俯き、花音は慌てて座り直して謝罪した。
二人に落ち着くよう声をかけて思ったことを述べる。
「社会人になってまだ経験の浅い娘に、そんなに要求する親はおかしい」
「そう、そうだよ。愛生、良いように搾取されたら駄目」
給料を全額奪われていないだけ、まだましと考えることでしか怒りを抑えられそうにない。愛生は左右に手を振りながら口を開く。
「でも、ちゃんと貯金も出来ているし。育ててもらった恩も、家に住まわせてくれていることへのお礼も合わせたら普通だよ」
「愛生が21歳の時に就職して、4年目だっけ。いつから10万払っているの」
花音の追求に、愛生は蚊の鳴くような声で答えた。
「最初から払っていたけど」
「下世話だけどごめんね、貯金はどのくらい?」
「200万ちょっとかな」
「単純計算で月に5万、そこから毎日の食事代とか携帯代を引いたら、もっと少ないから……」
花音はぶつぶつと考え始めてしまった。愛生を見ると、苦笑いをした。
「お給料のこと、花音には話したことがあるの。親族に盗まれているんじゃないかって心配してくれて」
暴力を振るうような父親だ、経済的虐待をしている可能性を考えてしまうのは当然だった。現状でも十分搾取されていると言える額だが。
趣味がなかったということが幸いして独り立ちすることに問題はなさそうだ。だが、本来なら手元に残っている額はもっと多かったはずだ。それを思うと腹立たしいが、口にすべきではないため自分の胸にしまっておく。
「とにかく、愛生が現状を変えることは出来そうで良かった」
「藍翔さんもいるから心強いな。ね、愛生」
思考の海から帰ってきた花音がぱっと顔を明るくした。愛生は彼女の言葉に笑顔で答える。
「それで、お父さんが追ってくるかもしれないって心配だけど」
脱線した話を元に戻す。花音と愛生は表情を引き締めた。
「もしもの時は、俺や花音、最悪俺の知り合いの元に逃げられるように準備しようと思う。警察への通報も視野に入れるよ」
「警察……」
愛生が呟く。花音は、神妙な面持ちで愛生を見ていた。
「虐待は犯罪だ。今まで通報しなかったから罰されていないだけで、本来はもっと早い段階で愛生は助けられるはずだった」
「……うん」
「お父さんが警察に行くと思うと抵抗があるかもしれない。だけど、愛生の人生を取り戻すためにはやるしかない」
「……」
愛生は黙り込んだ。花音は心配そうに愛生を見つめた。
「無理に今決めなくても良いよ。最近は、体調も良くなかったみたいだから」
「え?」
花音の言葉に耳を疑う。体調も良くなかったとは、聞いていない。花音は目を見開いた。
「藍翔さん、知らなかったんですか?」
二人で愛生を見る。愛生は俯いたまま、力無く笑った。
「私が黙っていたの。余計な心配をかけたくなかった」
何のことが分からない。困惑していると、花音が答えてくれた。
「仕事を休職したみたいです。ちょうど2週間前に、主治医の先生の指示で決まったそうで……」
衝撃の事実に絶句する。
休職。一定期間、仕事を休み療養に専念するものだ。それが必要な愛生の状態。連絡を取らなかった3週間と、連絡が減った2週間。
「いつからそんな状態に?」
想像以上に低い声が出た。愛生は尚も顔をあげなかった。
「1ヶ月ぐらい前、かな。仕事に行くことも出来なくなった。春頃から、半日勤務にしてもらって様子見していたのに半日も働けなくなっちゃった」
「何で」
なぜ、話してくれなかったのか。
体調が悪い中で、無理に自分と会う必要はない。連絡もとらなくて良い。彼女自身のことを一番に考えて、他のことは状態が安定したときに考えれば良いのだ。大切な人が苦しんでいることを今の今まで知らなかった事実に、自責と後悔の念が押し寄せる。
ようやく顔を上げた愛生は、追い詰められている表情をしていた。
「藍翔が辛い思いをしていた時に、自分も辛いなんて、言えないよ」
彼女の気遣いは優しくて、同時に残酷だった。彼女が苦しい思いをしている時に思いを吐き出せる居場所になりたかった。家庭環境や、病気について話せるほどには安心できる存在になったはずなのに、自分で壊してしまったのだ。愛生の病に悩むことは辛いと、誰よりも悩んでいる彼女を突き放した。その結果が、俺には体調を伝えないという選択だった。
「藍翔さん……」
花音に名を呼ばれ、即座に後悔を振り払う。迷わないと決めた。自分と愛生、そして大切な人たちと共に、幸せになる道を目指す。照輝と由梨が背中を押してくれたのだから精一杯応えなければ顔向け出来ない。
「今度から、ちゃんと俺にも話して」
愛生は顔を歪ませて、でも、と唇を動かす。音になっていないそれに、色々な思いが複雑に絡んでいた。
「大丈夫。もう、あんなことにはならないから」
だから、と言葉に詰まる。愛生は、まだ迷っている様子だったが、やがて頷き
「次からは、藍翔にも相談するね」
と微笑んだ。
花音と先に別れ愛生を駅まで送る道の途中、右手にそっと触れた温もりに気付いた。隣を見ると、相変わらず顔を赤くする愛生が微笑んだ。
「ちょっとだけ、手を繋がせて」
きゅ、と心臓が締めつけられる。可愛らしくて、愛おしくて。自分と繋がれたその手首に無数に刻まれた、惨い傷が、切なくて。
「愛生も俺も、また一からスタートだな」
言葉の意図を汲み取れなかったのだろう、えー、と言う愛生の左手に少しだけ力を込める。
「愛生に対して失敗した俺と、自分を変えるって目標に失敗した愛生」
納得した彼女が頬を膨らませた。
「むう。人生に失敗は憑きものだもん」
ぷいとそっぽを向いてむくれる彼女を笑いながら、人通りのまばらな橙色に照らされた道を進む。
愛生と連絡を取れなかった日々が長く続いて、穏やかに会話できるのは久々だった。彼女といる時は、いつも考えなければならないことがあった。どれだけ考えても、話し合っても、正解なのか分からない答えを出し続けてきた。愛生と知り合った3月の末から、まだ5ヶ月しか経っていない。だというのに、嫌と言うほど悩み、様々な選択をした。そのどれもが、未だに最善だったのか分からないまま。いつか、赤ペンで丸かバツを付けられて返却される日が訪れるのだろうか。
「花火、良かったね」
愛生の言葉で我に返り、相槌を打つ。
「そういえば、花火の話をしていなかったな」
「色々あったから」
足下に長く伸びる2人分の影は、一部分だけ繋がっている。歩幅の違いを埋めるように、常よりもゆっくりと歩く自分と普段と同じ速度の愛生が並んでいた。
「どうだった?」
「綺麗だった! 小さい花火が沢山空に広がって一つの大きな花火になったのがすごくて」
すごい、すごいと他の言葉を忘れたように連呼する愛生。無邪気に語る彼女を微笑ましく思いながら、それなら良かったと頷く。
「花火が終わった後は何だか寂しくなったなあ」
烏の声が、残暑の空に柔らかく響く。
「見ている間はあんなに楽しくて、大きな音に驚いて時間を忘れていたのに。次の光が空にあがらなかった時、あぁもう終わりなのかって。あんなに綺麗なのに、あの日のあの瞬間にしか見られないのが寂しかった」
花火大会の終了を告げるアナウンスが場内に流れると、落胆した声がどこからともなく上がった。ため息と共に吐き出されたそれは、すぐに喜びに満ちた声音に変わり楽しかったね、という言葉を紡いだ。終わりを惜しむ声と、名残惜しそうに川辺を後にする人々の背中を見て、季節の終わりを知らされた。
「花火と同じように、人の命もあっという間に終わっちゃうのかな」
無垢な子どもが問いかけるように、愛生はこちらを見上げた。瞳には純粋な好奇心が滲んでいる。答えあぐねていると、なんてね、とおどけた。
「ちょっと格好良いことを言ってみたかっただけ」
「……太陽の寿命は、100億年だと考えられている」
「え?」
突然、違う話題を振った俺を、愛生は訝しげに見た。彼女に構わず説明を続ける。
「太陽より質量の大きい星は、長くても1億年。質量が小さい星なら、何兆年も生きるらしい」
「そうなの? 星の寿命は長いねえ。人なんて、たった100年なのに」
愛生の感想に同意しながら、そういうことだよと告げる。
「太陽に比べれば、質量の大きな星の一生は一瞬で、小さい星にとって太陽は瞬き一つの刹那的な輝きでしかない。人間の命も、星に比べればあまりに短い」
オリオン座の一角を成すベテルギウスが、近いうちに超新星爆発を起こすといつかの特別番組で見た。近いうちと言っても10万年は先だという。命を絶やす時に、生涯で最も強い輝きを放ち、長い時間をかけて少しずつ光を失い、最後には消滅する過程を辿る。人間にとってはスケールが桁違いに大きいが星にとっては爆発までの時間も、完全な消滅までの時間も短いものだろう。マッチ棒に火をつけ、全て肺になるぐらいの短さ。
「そう考えると、人間の命も儚いものだよ」
駅に近づくに連れ、辺りに人が増えてきた。スーツや学生服姿で駅へ向かう者もいれば、駅構内から出てどこかへ歩いて行く者など様々だ。
「皆、星よりも長生きは出来ないよね」
繋がれている手を強く握られた。
「藍翔も、私も、長生きしても、たった60年ぐらいしか残されていない」
愛生を見下ろす。見られていることに気付いたのか、彼女も再び顔を上げ、にへらと頬を緩ませた。
「だったら、少しでも大事に生きないと勿体ないね」
「……そこは、あと80年って言っておけ」
「100歳まで生きられるかなあ。今の寿命は90歳手前ぐらいだけど……日本人は長生きだから、出来るかな」
「その頃には今より医療が発達しているかも」
「もしそうだったら、最後まで一緒にいられるかな」
駅の手前にあるビルの下で立ち止まる。ここから先は愛生一人でも帰ることが出来るだろう。否、携帯があるのだからマップを検索すれば自分のマンションからでも帰れるのだが。
「歳をとっても、手を繋いで歩きたいね」
「足腰鍛えておこうかな」
「一緒にトレーニングしよっか」
笑いながら、愛生と繋いでいた手が解かれた。一歩離れて、俺を見上げた愛生が微笑む。
「送ってくれてありがとう。藍翔も気をつけて帰ってね」
片手を軽く挙げて応える。愛生は左右に手を振って駅の方へと歩き出す。一歩、二歩と華奢な足が地面を蹴った瞬間に、身体が操作不良を起こした。自分の理性では制御できない衝動に突き動かされていた。自分から離れていく愛生の後を追って、二歩踏み出す。伸ばした手が、再び彼女の左手を掴んだ。
驚いて振り向いた愛生の目が己を捉えた。瞳の奥に、未だ燃え続ける光を深く覗き込むように、彼女に覆い被さる。
「っ」
愛生が息を飲むのが分かった。彼女に触れた唇をほんの数秒だけそのまま押しつけ、すぐに離れる。掴んでいた手も解放した。
呆然と立ち尽くす愛生に、何事もなかったようにじゃあね、と言い元来た道を引き返す。
求めた熱は、想像していたよりも冷たかった。
*
深い眠りを妨げるように、携帯が鳴った。短い音のため電話ではないだろう。こんな夜更けに何だと半眼で携帯に手を伸ばし、画面を見る。表示されているのは花音の名前。メッセージは一言だけだった。
『愛生から連絡ありましたか』
意識が覚醒する。愛生の名前の横には、連絡があったとの表示はない。最後の連絡は2時間前で、自分が送ったそろそろ寝るよ、という言葉に付いた既読の文字のみ。
「何かあったのか」
呟いて、何もないとだけ書いて送信する。30秒後に今度は電話がかかったことを知らせる音楽が鳴った。
「もしもし」
『藍翔さん! 今、家にいる?』
「いるけど」
やけに切羽詰まった声だった。不穏な気配を感じて身体を起こし、機械越しに届く声へ耳を澄ませた。
『愛生と連絡が取れなくなって』
思いもよらない言葉に心臓が冷える。状況が掴めずどういうことかと問いただす。
『分からない。1時間前まで普通にメッセージが届いていたのに、急に返信がなくなったの』
「……寝落ちした可能性もあるだろ」
最悪の事態を考えないように思考が巡る。偶々、お風呂に入っているから返せないだけ。もしくは眠っている、携帯の充電が切れた可能性もある。
体調に気をつけながら、愛生は荷造りを進めていた。私物が少ないため幸い片付ける物も殆どなく焦る必要はなかった。調達したダンボールに少しずつ詰めて、あとは決行日と引っ越し先を決めるだけとなっている。急に一人暮らしを始めるのは難しいのではないかという心配があったが、数日に一度荷ほどきなど手伝うためにも数日に一度は家に行く約束をした。花音と自分で交互に行き、愛生の体調が悪くならないように注意するつもりだった。
次の月曜日に、一緒に不動産へと訪問する予定だった。何事もなく順調に進んでいたため、急な事態に頭が着いてきてくれない。
『愛生から届いた最後の連絡が、心配で』
花音の声音は震えていた。動かない思考に歯がゆさを覚えながら花音に確認する。
「何と書いてあったんだ」
携帯越しに、深呼吸したのが分かった。
『約束、守れそうにないって』
「約束?」
『愛生と出会った日に、絶対守ってねって約束したのに』
花音から愛生について聞いた時のことを思い出す。命を絶とうとした愛生を助けたこと、落ち着くまでカフェで過ごし、その中で話した内容。最後に、涙を流しながら彼女に生きてほしいと溢した花音が言ったこと。
「……生き続けて、だっけ」
花音が声をあげて泣き始めた。不安で押しつぶされそうな心を、自分に連絡を入れるまで堪えていたのだろう。
「どう、どうしよう。愛生が、愛生に何か、あったら」
しゃくり上げながら途切れ途切れに言う花音。ようやく現実を直視し始めた脳を叱咤しながら、花音を宥める。
「落ち着こう。最後に連絡が来てそんなに時間が経っていないなら、まだ大丈夫」
鼻を啜る音を立て、涙声の返事が聞こえた。
『連絡が来なくなったのは、15分前で……。何度も、電話かけたけど、既読も付かない』
「分かった。俺からも電話してみるよ。無事が分かったらすぐ花音に言うから、一度冷静になろう」
悪い考えが思考を占める時は、選択を誤りやすい。緊急時ほど冷静な判断が求められるため、まずはお互いに落ち着かなければならない。ざわざわと嫌な感覚が全身を這うが、それを無視してもう一度花音を励ました。
「大丈夫。約束しただろう、一緒に幸せになるって」
『うん、っく、うん……っ』
花音に、いつでも連絡を取れるから何か分かればすぐに言うよう伝えて電話を切る。外出する準備を手早く済ませて、最低限の荷物だけを手に家を出る。
「まずは、家か」
街灯だけが存在を主張する通りは、いつになく不気味な印象を受けた。不安にかき乱された情緒が恐怖心を刺激しているのかもしれない。ここで怖じ気づいている暇はない。バイクのヘルメットを被る前に両手で頬を2回強く叩いて、弱った心を奮い立たせた。
「よし」
車の数も少ない夜の道を進んでいく。愛生の家には2回行ったことがある。彼女がバイクに乗れるようになった後の出来事だ、まだ記憶に新しい。記憶力がある体質で良かったとこの時ほど思ったことはない。
20分もかからずに、愛生の暮らす家に到着した。部屋の明かりは点いていない。誰もいないかもしれないが、ダメ元でチャイムを押す。何度か鳴らしてから、インターホンが反応した音ではなく扉の鍵が開く音が暗闇に響いた。
「夜中にうるさいわね、何の用?」
扉越しに現れたのは、短い髪にタンクトップとショートパンツの格好をした女だった。剣呑な雰囲気を纏う女性に警戒しながら尋ねる。
「木山愛生さんはいらっしゃいますか」
女は、不機嫌そうな顔を更に顰めた。
「愛生が何?」
どうやら、愛生を知っているらしい。誰のことかと突っぱねられなかっただけ、まだ運が良いのかもしれない。
「1時間前から彼女と連絡が取れなくなりました。心配になって会いに来ました」
「立派に男を侍らしているなんて、良い度胸しているのね」
鼻で笑う女性に怒りが込み上げる。理性で押さえつけて、対話を試みる。
「彼女はどこにいますか? 家にいるなら、会わせてください」
予想していた回答は返って来なかった。
「いないわよ」
「え?」
「だから、いないわよ。父親が寝静まった隙に出て行った」
足下から悪寒が這い上がる。
「愛生に……何、が」
上手く喋れない俺を女は嘲笑った。
「私が帰ってきたことに浮かれてまた3人で暮らせるのーなんて、間抜けなことを言うからあの人が罰したのよ」
罰した。
「私たちがめちゃくちゃになったのは、あいつが生まれたせいよ。2人の時間を邪魔するように泣き喚いて言うことも聞かない。きっと可愛い子になると期待して産んだのにがっかりだわ」
女の言葉を脳は受け付けなかった。女性を冷めた目で見た後に、分かりましたとだけ告げてバイクに再び跨がる。背後から何やら喚く声が聞こえたが、聞き取れなかった。