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青に生きる 10

「これが食べたかったんですよお。幸せ?」

運ばれてきたパフェを一口食べて破顔した花音が言った。

「嬉しそうで何より」

「愛生にも今度食べさせますね」

「愛生も好きそうだなあ」

苦笑いすると、花音は機嫌良く次々とスプーンで目の前にあるスイーツを堪能した。

愛生の髪を切った日の夜、花音から会って話さないかと誘われた。愛生と一度連絡を絶ってから花音とも話していなかった上に、こうして会うのは数ヶ月ぶりだった。

記憶と違いないピンク色の長い髪を今日は編み込みでハーフアップにしている。アレンジが上手いなと感心すると、意中の彼の気を引きたいからだと照れていた。

「お二人が喧嘩? 揉めた? ……のは、愛生から聞きました」

チョコソースがかけてあるソフトクリームをちびちび食べながら花音は話を続ける。

「藍翔さんがしんどくなっているとは思っていませんでした。似たような立場の時に、私は美奈を助けるためなら自分を犠牲にしてやるって、がむしゃらになるタイプだったから」

良い結果には結び付かなかったけど、とぽつりと呟く彼女に何も言えなくなる。友人のために出来ることを考え、最良の未来に繋がるよう走り続けた花音。彼女の強さは、尊敬に値するものだった。

「気付けなくてごめんなさい。私がもっと気配り出来ていればこんなことには」

頭を下げる彼女に、慌てて頭をあげるようお願いする。

「謝ることじゃない。こうやって話を聞いてくれるだけでどれだけ助かっているか……」

愛生の事情を知っているのは、彼女を含め3人だけだ。照輝と由梨には吐露してしまったが、本来は誰彼構わず話して良い内容ではない。愛生が病気を抱えていることを話してくれたのは自分と打ち解けた後だった。そのぐらい慎重に扱うものを素直に打ち明けられる相手がいることは有り難い。

花音はほっとしたような表情で、止まっていた手を動かしパフェに添えられたチョコブラウニーを食べた。

「愛生から、藍翔さんと距離を置くことにしたと言われた時は驚きました。二人は上手くいっていると思っていたから」

「順調だった……と思う。喧嘩するまでは」

「そうですよね。愛生からも、今まで藍翔さんの不満を聞いたことなかったです」

花音は目を伏せた。話している間に常温で少しずつ溶かされたソフトクリームが、カップの中で半分ほど液体と化していた。

「……溶けているけど大丈夫か」

「大丈夫です。溶けてもチョコソースと混ざって美味しいんですよ」

パッと顔を輝かせて言う花音に再び苦笑いする。

「愛生は今まで、俺のことを何て言っていた?」

聞いてみたいような、聞きたくないような疑問。花音はにこやかに笑った。

「イケメンで、優しくて、一緒にいて楽しい。時々無茶を言ってくるのはやめてほしいけど。それから……」

花音からさらりと出てくる言葉に耳が熱くなる。次の言葉を言おうと口を開いた彼女を無理やり遮った。

「もう言わなくていいよ、分かった、伝わったから」

「まだまだありますよ?」

花音はにやにやと悪い笑みを浮かべている。彼女を他所に、ため息をつきながら片手で顔を覆い俯いた。

聞くのではなかった。愛生が普通に惚気ていることを知ってしまい、顔がにやけそうになる。先日まで連絡をしていなかったのに、彼女を想う気持ちは以前と少しも変わっていないことを自覚する。何があっても、自分にとって彼女は愛しい存在のようだ。

「病人じゃなくて、一人の人間として見てくれるとも言っていましたよ」

「え?」

顔を上げ、花音を見つめる。花音は、パフェの底に入っていたコーンフレークをスプーンで掬った。

「病気と知っていても、真正面から普通に接してくれるって。一緒に出掛けて、綺麗な景色を見て、美味しいものを食べる。他の人が当たり前にやっていることを愛生はやったことがなかったそうです」

愛生と出掛けた時、彼女は決まって同じ言葉を口にする。知らなかったと。彼女の両親は愛生へ愛情を注がなかった結果だ。子どもの疑問に答え自宅以外の世界を学べなかった愛生は、周りの人が一度は経験したことを殆ど知らなかった。

その一つ一つを教えたつもりはないが、世界は楽しいことで溢れていることに気付いてほしかった。苦痛に敏感な彼女は幸福に疎い。拾いきれないほどにある幸せの種を彼女も拾えるようになってほしい。そんな思いで愛生と過ごしていた。最初だけは。

「最近は病気をどうしたら治せるか考えてばかりだった。だから、それは俺に似合わない評価だよ」

愛生から、病気だから仕方ないと無理を押し付けられたことはない。彼女はいつも、此方が負担にならないよう気を遣っていた。体調が悪い時は教えてくれて、俺に何か対処しろとも言わなかった。大丈夫、また元気になると根拠のない言葉と共に微笑んでいた。その気遣いが悲しくて早く治したい、治さなければならないと焦った。今回のことは、自分の焦燥が招いたものだ。

花音はこちらをじっと見て、左側に首を傾げる。

「愛生も藍翔さんも、どうして一度で完璧を目指すの?」

無垢な子どものような澄んだ瞳で見つめられ、返答に窮する。完璧を目指すの、という言葉が妙に重たく響いた。

完璧を目指す。確かに、愛生には最善の手を打たなければならないと思っていた部分がある。そのために、病気を十分理解し、適切な言葉をかけようと努めた。病気が治すために失敗してはいけないと、今もそう考えていた自分に気付く。

「愛生は良い人になりたいって言っていました。恋人に迷惑をかけない、自分のことは自分でどうにかする、相手に嫌な思いをさせないとか」

「……それ自体は、特に問題ないだろ」

思ったことを言えば、花音はそうかなあと口元に人差し指を当てた。

「確かに、相手には出来るだけ笑顔でいてほしいですよ。でも、それを最初から出来る人なんているでしょうか? 私は無理です」

語気を強めて言い切る花音に何も言えなくなった。彼女の言葉は、過去に経験した失敗と後悔から学んだものだと分かるからだ。美奈という顔も知らない、今は出会うことさえ叶わない少女の名前が脳裏に浮かんだ。

「私は失敗してばかりです。愛生に出会った頃から、泣かせなかった日は一度もないです」

瞬きしてそうなのか、と聞き返すと花音は困った表情で頷く。

「言えずに溜め込んで我慢してきたから既に心はぼろぼろなのに、私にも相談してくれない。だから春頃から無理やり聞き出しています。藍翔さんは、私のやり方をどう思いますか?」

これって、完璧な手段だと思いますか。

言外にそう問われている。彼女たちの状況を自分に当てはめて考えると、どこか納得できない気持ちが生まれる。

「俺なら、話すまで待ってほしい……かも」

花音は大きく首を振って頷いている。どうやら正解らしい。パフェと合わせて注文していたアイスココアをストローで混ぜながら花音は続けた。

「そう思いますよね。私もそうです。でもね、愛生は強引に聞き出さないと話してくれないです」

言葉を句切り、ストローでココアを吸い上げる。一瞬頬を緩ませたが、すぐにその顔は曇った。

「今回のことは愛生から相談してくれたけど、体調や親御さんのことはこちらから聞かないと話してくれません。どれだけ待っても口を開かないから、彼女にはこうするしかないのかなって」

「……完璧な答えなんて、ないよな」

呟きはしっかり花音に届いていた。先程までの陰りを吹き飛ばし、目に光を湛えこちらを見た。

「そうですよ。相手に嫌な思いをさせてしまうかもしれないけど、やるしかないことはある。間違ったことをして傷つけることもあるものですよ。恋人同士でも同じ。衝突を繰り返して、お互いにとって何が心地よいのか探り合った先で同じ未来を見つめるのだから。藍翔さんたちは、走り出して最初の壁にぶつかっているだけ」

何時に無く熱のこもった様子で花音は言った。そして、表情を和らげた。

「藍翔さんは、これからどうしたいのか決めましたか? それから、藍翔さん自身の思いはどうなりましたか」

照輝と由梨に話した日のこと、そして昨日のことが思い出される。

「愛生のそばにいる。隣で、笑っている顔を見たいから」

花音は満足気に笑った。

「とっくに答えは出ているじゃないですか。じゃあ、もう突き進むだけですね。……って、昨日二人は話していましたね」

私が熱くなって語らなくても良かったですね、と顔を赤らめる花音にお礼を言う。決意していたと思っていたのに心の何処かでまだ迷いがあった。だが、それを彼女が払拭してくれた。

「ありがとう。花音に話さないまま愛生に会っていたら、きっと同じことを繰り返していた」

「どういたしまして! 二人が良い方向に進んで、皆で幸せになりましょうね」

花音から、愛生の話を聞いた日。隣に自分がいなくてもいいから、友達に幸せになってほしいと泣いていた花音。その花音から同じ言葉を、皆でという言葉で励まされた。目頭が熱くなって、咄嗟に顔を明後日の方へと向ける。花音は不思議そうに、どうしましたかと暢気な声で尋ねてきたが返事は出来なかった。

既に日が暮れているはずが明るい川沿いは、高揚感に包まれていた。平時は見かけることは少ない色とりどりの浴衣に身を包んだ人が行き交い、片手に綿飴やりんご飴などを持っていた。毎年のことながら賑やかだなと自然と口元が綻ぶ。

8月の最終月曜日、県内で最も規模の大きい花火大会が行われる。夏の終わりを惜しむ風物詩の一つとして人気のイベントで、開催が近づくと連日ニュースで取り上げられるほどだ。

愛生と会う予定になっている日に花火大会があることを知ったのは昨日の夜だった。昼頃に待ち合わせしようと愛生へ連絡を入れた時、彼女から提案された。花火大会があると聞いたから、行ってみたいのだと。この時まで花火大会に行くというアイデアを考えていなかった。返信する前に、公式サイトで詳細を調べ、夕暮れ時に会うことを約束した。

待ち合わせ場所に予定通り来てくれた愛生を見て目を剥いた。自分が手掛けた丸みのあるすっきりとしたショートヘアに、水色の花を模した髪飾りを付けている。身に纏っているのは、白を基調に水色や青で紫陽花の模様が描かれた浴衣だった。下駄も履き、この日のために用意してきたのが一目で分かる身なりだった。

「浴衣、買ったのか?」

開口一番に口を出た問いに、愛生がはにかんだ。

「友だちが持っていたものを着付けてくれたの。丈も合わせてくれて」

器用な友人だな、とずれた感想を抱きながら愛生をまじまじと見る。小柄で幼い顔立ちの彼女によく似合っており、綺麗な女性というよりは可愛らしい雰囲気だった。普段はシンプルでカジュアルなコーディネートが多かった愛生の、新しい一面を知った気分だ。

「よく似合っているよ。可愛い」

「そ、そうかなあ……。何だか子どもっぽくない? 背も低いし」

袖を指先で掴み左右に広げ柄を見せながら、まんざらでもない顔で微笑んだ。

「身長は関係ないよ。初めて着た?」

「うん。花火を見るのも初めて。屋台も……初めてだらけ」

「楽しいことばかりだから期待していいよ。行こうか」

屋台の前には長い列が出来ていた。狭くないはずの道が人で埋まっており、ゆっくり歩くだけで精一杯だ。はぐれないように常に愛生を気にしながら進む。

さて、何を買おうかと眺めた時、つんつんと二の腕をつつかれる。つついた本人である愛生は、どこかを興味深そうに見ている。

「どうした? 何か食べたいものある?」

愛生の声を聞き逃さないために背を屈める。愛生は、ついと指を差した。

「あれってジュース?電球みたいなものに入っている、あれ。可愛い」

彼女の指先を視線で辿ると合点がいった。数年前に流行した電球ソーダだった。若い女性の間で写真映えすると頻繁にテレビやSNSで話題になった。今では屋台で販売されるほどには定着し、流行が落ち着いた今でも祭りだからと買う人は多いらしい。

「中身はソーダだよ」

「そうなの? いいなあ、買ってみようかな」

逡巡している彼女の手を取って、人混みを避けながら屋台の列に並ぶ。愛生は俺と繋いだ手と屋台を交互に見て、目尻を下げた。

「自分一人で来たらきっと買わずに帰っちゃうから、藍翔がいて良かった」

「これからは一人でも欲しいものはちゃんと買うように頑張れよ」

「うっ……が、頑張る」

店主から受け取った電球ソーダは、ピンク色のストローがハートを象っていた。愛生はきらきらとした表情でそれを見て、

「可愛い……」

目をハートに変えていた。愛生の素直な反応に、愛おしさで胸が満たされた。好きな人が喜ぶ姿を見て幸福を感じない人はいないだろう。花火大会があることを愛生に助言した友人へ内心で感謝を告げる。

花火を見ながら何か食べようかと二人で目についたものをいくつか買い、花火を観覧できるレジャーシートへ腰掛けた。運営が用意したらしい場所は自由に利用でき、屋台で買ったものを飲食することも許可されていた。花火を間近で眺められる位置は既に空きがなかったため、まだ空いていたスペースを選んだ。どうやら、正面から見られるというより花火全体の大きさを楽しめるそうだ。

「迫力には欠けるかもしれないけどこの辺りから見ても十分楽しめるよ」

「じゃあ、隠れた特等席だね」

肯定的な愛生の言葉に頷く。各々が買ったたこ焼きと焼きそばを膝の上に乗せ、花火が始まるのを待つ。

熱帯夜が続いていたため、寝苦しい日が多い夏だった。その暑さが嘘のように鳴りを潜め、残暑らしい涼しさのある夜。どこか爽やかな印象を受ける風が心地よく、花火を眺めるには最適な気温。この日のために調整したのではないかと疑うほどだ。

「藍翔、この前はごめんね」

ふいに謝った愛生を見る。彼女はこちらを見ないまま、膝に乗せた電球ソーダを指先でなぞっていた。

「急に連絡やめちゃって。びっくりしたよね」

肩を落とす彼女に、そんなことはもう忘れたと言わんばかりの平然とした口調で返事する。

「お互い、考えすぎて馬鹿になっていただけだよ。そういうこともある」

あっけらかんと言ってしまえば、愛生はこちらを見て目を見開いた。

「藍翔がそんな風に言うとは思っていなかった」

「まあ……照にいにちょっと感化されたというか」

照輝に会った後の自分は、少しドライな発言が増える。そう指摘したのは照輝だった。無意識なのか分からないが何故か似るよな、と笑った彼に図星をつかれて何も言えなくなったのはもう随分前のことだ。その話をすると、愛生はくすくすと笑った。

「藍翔、照輝さんのこと大好きなんだよね。真似しちゃうのも分かる」

「……愛生にそんな話、したか?」

怪訝に思い尋ねると、愛生は首を横に振った。

「藍翔と連絡をとらなかった時に、一度だけ照輝さんのお店に行ったの。藍翔と仲が良い人だから、色んな話を聞いてみたくて」

勝手なことしてごめん、と言う彼女に、謝る必要はないと言いながらも疑いの目を向ける。

「……照にい、余計なこと言っていなかった?」

愛生は、首を傾げながらうーん、と唸った。

「照輝さんに憧れてピアスを自分で空けたら出血が酷くて慌てて泣きついたこととか」

「やめろ、それ以上言うな」

彼女が言い終わる前に大きめの声で遮り、思わず頭を抱える。過去の恥ずかしい失敗を、よりによって愛生に話したというのか。照輝は涼しい顔で昔話をしただけと言うのが脳裏に浮かぶ。いつか仕返しすると決意して愛生への弁明を考える。

「照輝さん、あっさりしていて格好良いよね」

「……そうかも。直球で耳が痛いことを言ってくるから、何回へこんだことか」

「私も同じことを経験したよ。うわあ、きついなあって少しの間立ち直れなかった」

愛生は、俺との連絡を絶った2週間後に照輝の店を訪れたそうだ。偶々会った時に受け取った名刺に書かれていた住所を辿り、一人で来店した。店には照輝と由梨、そして他に2組のグループが既に酒を嗜んでいたらしい。

「由梨さんって覚えている?」

「覚えているよ。俺も先週照にいの店で会ったから」

「じゃあ、常連さんなのかな。由梨さんも照輝さんと一緒に悩みを聞いてくれたの」

二人に、自分の家庭環境とそれによる病気について打ち明けたと愛生は話した。虐待により、自分が生きる理由を見失ったことや、その最中に恋人が出来たことなども事細かに。

「……何だ、二人とも俺と愛生の事情を知っていたのか」

「どうして?」

「俺が話した時、二人とも上手くいっていると思っていたって驚いていたから」

本筋と関係ないことで項垂れる俺に、愛生は気を遣ってくれたのかもと励ましてくれた。

「藍翔も行ったんだ。照輝さんのお店」

「先週ね。愛生が来たなんて教えてくれなかった」

「そっかあ。やることが同じなんて面白いね」

どことなく嬉しそうな愛生に微笑み、何故来店したのかと尋ねる。愛生は目線をうろうろとさせた後に答えた。

「藍翔が今まで、何を考えて私と一緒にいてくれたのかを知りたくて。本当は、藍翔に聞くべきことだけど」

愛生の考えはよく分かる。相手をよく知る人物に、今どんなことを考えているだろうかと相談することは何度か経験したことがある。相談相手になったこともある。恋愛だけでなく、友人関係でもよくあることだ。

「照輝さんには一蹴されたよ。それは本人に聞かないと分からない、俺たちに出来るのはただの憶測だからって」

「……照にいらしいな」

現実主義で冷静な照輝の言葉は、時に冷たいとすら感じる。だが、核心を突いた意見だからそう捉えてしまうのだ。少しでも楽をしようと現実から目を背ける自分を律してくれる。それが照輝という人物だ。

「病気があるせいで、藍翔に迷惑をかけていることも話した。治そうと尽力してくれた結果、苦しめてしまったって」

頷いて、黙って続きを促す。愛生はこちらの様子を窺ったあと続きを話した。

「二人とも、私を叱ってくれた。相手に治してもらおうとするだけじゃなく、自分が変わる努力をしないと駄目。それから、相手を幸せに出来る覚悟がないなら離れるべきって」

愛生は噛みしめるように言う。

「藍翔に変わっていこうと言われたのに、また私は薬が、お医者さんが、誰かが助けてくれると他力本願になっていた。同じことを繰り返したら駄目だと分かっていたのに」

川辺に、女性のアナウンスが流れる。先程よりも周囲が浮き足立った雰囲気に変わった。花火が始まろうとしている。日が沈んで、明かりがなければ何も見えない暗さ。今夜は月明かりもないから夜空に花火が映えるだろうとアナウンサーが話していたことを思い出す。

夏が終わろうとしている。その夏を、彼女はまた、変わらない自分を恨みながら越えようとしている。

「自分を幸せに出来ない人が、他人に構うほどのゆとりはないのだから。まずは自分を守ることから始める方が良いみたい」

一つだけ、嬉しかった。予定通りには進まなかったことが多い中、たった一つ、だが何よりも嬉しいことがある。

「生きている間に藍翔を幸せにしないといけないから……立ち止まっている暇なんて、無いよね」

彼女が、この夏に取り残されなかったことが、嬉しかった。

どん、と鼓膜と地面を揺らす衝撃が生じた。同時に、暗闇に一輪の花が咲いた。数秒で枯れてしまう大輪に場内が沸いた。歓声、拍手、シャッターの音。手を止め、足を止め、誰もが一瞬の輝きを見届けていた。

「わあ、綺麗……」

愛生が感嘆する。花火に照らされた横顔は、この数ヶ月で見慣れたはずなのに。いつもよりも、美しく見えた。

「愛生」

連続して花火が打ち上がる音と歓声でかき消されそうな声を必死に届ける。彼女の耳に、心に、届くように。

「家出してみないか」

根本的な解決策を避け続けた臆病な自分と、変化を恐れ行動に移せない愛生。

どちらにも平等に、光の花は姿を現してくれた。

愛生の顔から、表情がなくなる。動き方を忘れたように、ぎこちなくこちらを見た。

「お父さんと、離れる……?」

夏が、終わっていく。

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