(八)馬よりも速く! その二・按摩対決
ひさ子の茶化しのせいで多少のトラブルもあったが、藤兵衛はその日から飛脚の仕事についた。とはいえ、初めはわからないことだらけのため、与太郎と一緒に行動することで仕事を覚えようとしたのだが……
夕七つ(午後四時ごろ)には仕事が終わり、藤兵衛は住処である土左衛門店へと戻った。凛とひさ子がちょうど部屋にいたのだが、戸を開けた藤兵衛の様子を見て目をみはった。
「あ、お帰りなさい…… って、ボロボロじゃないですか!?」
「づ…… 疲れた……」
「ひ、飛脚屋って、そんなにきつい仕事なんですか?」
藤兵衛は裏稼業をしている事もあってか、体力はある方である。それなのに今にも死にそうな顔をしているのが、信じ難かった。凛は急ぎ塩と砂糖を混ぜた水を飲ませると、これで藤兵衛は一息ついたのか、何があったのかを話し始めた。
「いや~、参った、参った。飛脚屋は繁盛しているって聞いていたけど、まさかあれ程とは…… とにかく、ひたすら走って、走って、走りっぱなし。昼飯も走りながらで、小便だって走りながらだぜ? これがまた、難しくて……」
小便のくだりを身振りをまじえて説明しようとするが、
「詳しく説明せんでいい!」
と、顔を赤くした凛に止められる。
「ひたすら走り続けるって、なんだかマグロみたいね……」
ひさ子はひさ子で、妙な例えで驚嘆していた。
「でも、そんなにきついんだったら、勤まる人は少ないんじゃないの?」
凛が疑問を口にすると、
「どうやら俺が今日ついた与太郎さんは、走吏屋の中でも特別な人みたいなんだよ。他の連中は、さすがにあの人ほど走りっぱなしじゃないみたいだ。なんでも与太郎さんは、一日に三十里(約百二十km)は軽く走れるらしい。帰り際、俺が脱落しなかったことに、皆、驚いてたよ」
と、藤兵衛が補足を入れた。
「……三十里は軽くって、与太郎さんってやっぱり凄い人なのね。でも、それについていけた藤兵衛さんだって凄いじゃない。このまま勤め続けたら、トップクラスまでいけるんじゃない?」
「それまで体がもつかどうか…… それに、やっぱり俺は、傘張り仕事の方が性に合ってるよ。そもそも、このまま飛脚屋になったら、武器も考え直さないといけないだろう?」
藤兵衛の武器は鉄傘だ。傘張りと傘をかけているのであろう。
「? 後半の部分は、何を言っているのかよくわからないけど…… ま、とりあえずは汗を流して、その後ご飯にしましょう」
「そうだな、まずは銭湯に行ってくるよ」
この時代、風呂付きの家は身分の高い家か余程裕福な家でないと持つことは出来ず、庶民は銭湯通いが普通であった。ちなみに、『いろは』には風呂が付いている。福利厚生の充実は、お梅婆さんの信条なのだ。
この後すぐに藤兵衛は銭湯へ赴き、さっぱりした後は凛とひさ子の三人で、いつもより豪勢な夕食を満喫するのであった。
◇
夕食後に一息つくと、次の日に疲れを持ち越さないためか、藤兵衛は体のあちこちを揉み始めた。すると、ひさ子が藤兵衛ににじり寄る。
「ねえ、藤。疲れているんなら、私が按摩(マッサージ)してあげよっか?」
「おお、悪いな。じゃあ、ちょっと頼むよ」
(ん? もしや!?)
このやり取りを聞いた凛は第六感が働き、二人の様子を注視する。藤兵衛がゴロンとうつ伏せの状態になると、ひさ子が上に乗っかり按摩を始めた。
「凝ってますねえ、お客さん」
「今日はきつかった、からな」
そんな会話を交わしながら、初めは普通に揉んでいたひさ子であったが、徐々に体の触れる面積が大きくなり、いつしか密着の体勢になっていた。
「おい…… 近すぎないか?」
「そう? これ、南にある泰国のやり方だけど。どう? 気持ちいいでしょ?」
(おおう! 確かに、胸が当たって気持ちいい…… じゃ、なくて!)
流されそうになるのを、藤兵衛は必死にこらえた。するとすぐに、
「ちょっと! 何やってるんですか! くっつき過ぎでしょ!」
案の定、凛が止めに入る構図となる。だが、ひさ子はそれを見越していたのか、
「あら、大切な人を癒してあげているだけでしょ? ……それとも、あなたは何もしないの?」
と、軽く挑発を入れた。
「わ、私だって、按摩くらい出来ます! ……やってやろうじゃないのさ!」
これに凛は簡単に引っかかり、何故か凛とひさ子による按摩対決が始まるのであった。
凛が腰から下を、ひさ子が腰から上を担当し、凝りをよりほぐした方が勝ちという、意味不明な勝負が始まった。尚、藤兵衛は寝そべったまま、
(何故こうなる…… これなら、自分でやった方がいい)
という思いがよぎるが、空気を読んで口には出さなかった。
先に動いたのはひさ子。按摩のはずなのだが、触れるか触れないかの微妙な触り方をしてくる。おまけに時折、耳に息をフッと吹きかけてくるので、
「あう」
と、変な声を漏らしてしまった。彼女は按摩の方向性を間違えていた。
つづいて凛のターン。按摩が初めてなのか、力の加減をわかっておらず、とにかく力任せに揉んでくる。普通の娘なら良いが、彼女は怪力娘である。
「んぎえぇ~~~!」
筋が切れる程の激痛に、藤兵衛は叫び声を上げた。これまた、按摩の方向性を間違えていた。こうして、藤兵衛の意思とは無関係に按摩対決は進む。
「あひい♡」
「いだだだだ!」
「おふう♡」
「んでででででえ!!」
ひさ子のターンで歓声を、凛のターンで絶叫を上げることを半刻(一時間)ほど繰り返した結果、藤兵衛は凝りが取れるどころか余計に疲れ、ぐったりしてしまった。
勝負は引き分け持ち越しとなったのだが、
「……なかなかやるわね、あなた」
「そっちこそ、やるじゃない!」
と、ぐったりしている藤兵衛の横で、二人は互いを認め合うのであった。
つづく




