(一)始まり・その二 行先は偶然にも
「あ、あの…… お名前は?」
「あぁ、そうか。まだ言ってなかったかな。『藤兵衛』。しがない浪人者さ」
「藤兵衛さん…… なんだか良い名ですね」
少女は噛みしめるように青年の言葉を呟く。
「字は、お花の藤の字を取って?」
「そうそう、そんな感じ。そういう君の方は?」
「え~~っと、『凛』っていう字はたしかちょんちょんと書いて、それから蓋とか四角とかをばばっと書いて…… とにかく難しい字です」
少女の言い様が何ともおかしく、藤兵衛は思わずぷっと吐き出してしまう。
「あ~~、笑わないで下さいよ! 漢字は今、勉強中なんです!」
凛は頬を少し赤らめる。そんなふうに他愛も無い会話を続けながら歩いていると、やがて目的地に到着する。
そこは二階建ての大きな建物で、一階は日常品が置いてある道具屋と料理屋が併設されており、表には『よろづや いろは』と書かれた大きな看板が掲げられていた。
料理屋の机や椅子は店の外側まで続いており、五十人位は入れそうな中店と呼ばれるぐらいの規模がある。
店は既に始まっているようで、客の姿がちらほらと見えた。
「あ、着きました。ここです! ……って、どうしたんですか? 藤兵衛さん?」
凛が尋ねたのは、藤兵衛が驚いた顔をしていたからだ。
「……ここ、もしかして『いろは』って言うんじゃない?」
「あれ? 知ってるんですか?」
幾分か打ち解けてきた凛が、不思議そうな顔をする。
「知ってるも何も、って事は……」
「り~~~~~~ん!」
そこへ小柄な老婆が少女の名前を大声で呼びながら近づいてきた。
老婆は紺の小袖の上に褞袍を羽織い、つぶし島田に大きな櫛を飾ってと、いかにも江戸時代な出で立ちである。
歳は六十を超えていそうだが眼光が鋭く背筋もしゃんとしており、お迎えが来るにはまだまだ程遠いと感じさせる元気な婆さんであった。
「あ! お、お梅さん!」
「ど~~こ、ほっつき歩いていたんだい! もう店は始まってるんだよ!」
「あ、ああ、あのその、実は色々と……」
「さっさと着替える!!」
凛の弁明を聞かずに、有無を言わせない表情で迫る老婆に「ひっ!」と小さく叫ぶ凛。察するにこの『お梅さん』と呼ばれた老婆が、凛の雇い主のようだ。あまりの迫力に凛は藤兵衛の方を向いて、
「あ、後でね」
と、言い残して店の方へそそくさと走っていった。
「まったく…… うん?」
ここで老婆は藤兵衛の存在に気付く。
「おぉ、お~~、藤兵衛じゃないか。やっと来たのかい!」
「ど、ども…… 朝からお元気で……」
どアップで近づいてくるので、思わず後ずさる藤兵衛。
どうやらこの青年もお梅婆さんと知り合いらしかった。
「ん? なんであんたがうちの凛と一緒なんだい?」
「え~っとですね。あの娘、ガラの悪い二人組に絡まれてましてね。何もする気は無かったんだけど、後ろの方から変な声が聞こえてですね、で、結果助けることになってしまった訳で」
「……何言ってるのかさっぱり、わからん!」
お梅婆さんの迫力に気圧され、要領を得ない説明になってしまったところをバッサリと斬られてしまう。
「まぁ、いいや。あの娘が迷惑かけたようだね。それに傘を納めに来たんだろ? ちょいと上がっていきな」
藤兵衛の荷物をちらと見たお梅婆さんは、親指で建物を指し示すとその方角へ歩いていく。
(なんだ、わかってんじゃん)
藤兵衛は心の中でぶつぶつ言いながらもこの婆さんには頭が上がらないらしく、素直について行った。
◇
建物の横の方にある入り口をくぐるとすぐに、さして広くはない部屋があった。その部屋の反対側は表の料理屋とも繋がっており、何か用事があるとすぐに店側へ出向く事が出来る構造になっている。
箪笥や箱火鉢などの調度類は職人の手が掛かっている事が一目で見てとれ、質素ではあるがどこか上品な雰囲気のあるこの部屋がお梅婆さんの仕事部屋であった。
この婆さんはなかなかのやり手であり、表にある『よろづや・いろは』の経営、長屋の大家、更には職の斡旋などを行う宰領屋まで手掛けている。そういった関係で尋ね人が来るとこの部屋へ通し、様々な話をしているのであった。
今も藤兵衛が持ってきた傘を手に取って、あちこち見分している。
「ふ~~~ん、藤兵衛。あんた結構器用だね。初めてにしちゃなかなかの出来しているよ。隠れた才能ってやつかね」
「まぁ、こういう『何か』を作るのは、割と性に合っていると思う」
「おやおや、天職を見つけたってことかい。そりゃ、勿体ない話だねぇ」
そう言うと傘を戻し、懐から何やら小さな包みを藤兵衛の前に差し出す。
「これは、今回納めた分と前回の仕事の分だよ」
藤兵衛は差し出された紙包みを確かめることもなく、懐にしまい込む。すると、引き戸が開かれた。
「失礼します。お茶をお持ちしました。……あれ?」
中に入ってきたのは先程助けた凛であったが、服装が違っていた。
矢絣の文様が入った小袖に紺色の袴をはき、髪は後ろで結ってあるのだが、幅広の赤い布をリボンのような形に結んであった。その恰好はまるで江戸時代というよりも、後の明治の時代に出てくる『はいからさん』に近かった。
ちなみにこの服装はお梅婆さんの趣味であった。
「なんで、藤兵衛さんが? ……ああ、そうか。藤兵衛さん、傘張りの内職やってるのね。だからか」
藤兵衛の持ってきた傘とお梅さんの知り合いということで、大まかな状況を把握したことから頭の血の巡りは悪くないようだ。お茶を二人の前にそっと置くと、
「ごゆっくりどうぞ」
両手を床につけてお辞儀をし部屋を出ていった。
お梅婆さんはどうぞと勧め、自身も茶をゆっくりと啜る。
「どうだい? なかなかのもんだろう?」
「ホントだ。ウチではこんな上等なのは飲めないですよ。いつも白湯ですね」
藤兵衛はうらやましそうに飲む。
「何言ってんだい。茶の話じゃなくてあの娘のことだよ」
「あ、そっちね。……まぁ、見てくれはいいかもしれないけど、なかなかのじゃじゃ馬そうですけどね。さっきのことといい……」
「それだよ。追われてたところを助けてやったんだろ? それについては私からも礼を言っておくよ。ありがとう、だね」
ここでお梅婆さんは一度深いため息をついた。
「……しかし、やっぱりというか、まだ諦めてなかったんだねぇ……」
ポツリと呟いた後、しばしの間沈黙の時間が流れる。
「「…………」」
「なんだい? 何かあったんですか? とか聞かないのかい?」
藤兵衛はわざとらしいと思いながら、
「そうですね、何かあったのでしょうか?」
と、棒読みでオウム返しする。
「はぁ。興味が無いのか、怖がっているのか…… まぁいいや。少し長くなるけど、あの娘の身の上話をさせてもらうよ」
お梅婆さんは半ば呆れ顔で煙管を取り出すとそれに火を点け、ゆっくりと語り始めるのであった。
つづく