ザ・エージェント
柿崎は週の始めの森田との会話が頭にこびりついたまま数日間を過ごした。日々の業務は当然マリンファイターだけではなく、部下が担当するプロジェクトも統括しているし自分が並行して進めている企画も複数ある。会社の管理職でもあるのでそれに伴う会議も多くあるが、どこにいて何の話をしていても、「それで本当に良いと?」という森田の問いかけが暗い光を発しながら頭の中を駆け巡っていた。
木曜日の夜、取引先との会食が中止となり、思いのほか早く帰宅することになった。夕方、雅代に電話をかけると「急に言われても、今日は優太も私も家にいないわよ。」と何故か不満をぶつけられた。職業柄、連日帰宅は遅くなるが、会食の日は明け方になる日も多くあった。雅代は「遅くなる」と言われた日は、ママ友たちと誰かの家に集まり子供達と一緒に夕食を楽しんだりしているようだ。恐らく彼女たちにとって重要な社会との接点のはずで、少々帰りが遅くなっても目を瞑っている。「いいよ。晩御飯は適当に済ましとくから大丈夫。」と柿崎が返答すると雅代のトーンが少し変わった。「ごめんね。優太も一緒なのでそんなには遅くならないから。」雅代も柿崎の低姿勢にほだされたようだ。
特段仕事のトラブルもなく終業と同時に席を立つと隣のデスクの中山が飲みに連れて行けとせがんできたが、「今日はパス」とだけ言い残し会社を後にした。
東急沿線の新興住宅街に柿崎の自宅はある。無理して買った一軒家は35年ローンだ。まだ3年しか返済しておらず、それを思うと気が遠くなる。最寄駅から徒歩10分の道のりは緩やかな上り坂が続く。息を切らしながら辿り着くと、当たり前だが誰もいない暗い家が待っていた。誰に対してという訳でもなく「ただいま」と呟くとまっすぐキッチンに向かった。
柿崎は最近料理に興味があり時間がある時には家族の夕飯を作ったりしている。この日も、茄子と挽肉のスパゲティを手早く作り、ビール片手に気楽な晩餐となっていた。
何となくテレビはつけるが惹かれるものが無く、先週末途中まで観た「ザ・エージェント」のBlu-rayに目が留まり、前回からの続きを観ることにした。ディスクをセット、再生ボタンを押し、先日優太と一緒に観たシーンまで早送りして続きを見始めた。
久しぶりに観る「エージェント」は、思ったよりもラブロマンスだった。以前はビジネス映画のニュアンスをもっと感じていたはずだが、この映画でほぼデビューのレニー・ゼルヴィガーとその息子がやたらチャーミングな良くできたヒューマンドラマであった。もしかしたら今の柿崎の状況がそう思わせるのかもしれない。それでもあえてビジネス映画の視点で語るとすれば、トム・クルーズ扮するジェリー・マグワイアはプロフェッショナルとして随分甘いし、置かれた環境やクリアすべきハードルもそれ程大した事がないように思えた。映画を象徴するセリフも、今回に関しては「君が僕を完全にする。(you complete me)」であった。エレベーターに乗り合わせたカップルが手話で交わす言葉で、主役2人のラブストーリーにおいて重要なセリフだ。その印象の残り方は恋愛映画として優れている事の証左ではあるが、大学生の時に初めて観た時の感覚との違いに柿崎は戸惑っていた。ビデオレンタル屋でアルバイトしながらトム・クルーズのキャリアを遡って制覇している途中で巡り合ったこの映画は、大学卒業後に向き合う事になるはずの「働く」という事について柿崎を大いに鼓舞した。まだ仕事が自己実現と等しく結びついていると信じている時期だ。マグワイヤが徹夜で書き上げたレポートの中身は分からないが、恐らくその仕事に就く時に理想とした「想い」をベースに、キャリアを重ねた事で初めて理解できる「現実」を重ねたものだろうと柿崎は想像した。その想像は当然ながら数年後に働き始めている筈の自分自身に重ねて展開される。柿崎にとってはスポーツマネジメントではなく映画会社だが、マグワイヤの奮闘は気持ちの中にうっすらと漂う不安を一気にかき消す効果があった。その不安を構成するのは、斜陽かもしれない産業である事、給料は安そうだという事、友人達がきっと不思議に思うであろう事、両親が反対しそうな事、そして自分のような凡庸な人間が映画界でやっていけるのかといった事柄であり、映画会社の入社試験を諦めそうになる位には強力だったが、多くの映画を観ることで解消されていた。繰り返し観る映画は沢山あったが、その中でも数少ない洋画であるこの映画はとても効力を発揮する1本であった。
それ以来、自らをチアアップしたい時に観る習慣が付いてしまったが、つい最近優太と一緒に観た際もまだ効果テキメンであった。しかし今回はどうも違う映画を観ているような感覚を柿崎は覚えた。ゆっくりとビール2缶空けながら一人で集中して観たはずなのだが、役者の魅力で成立しているステレオタイプの少し緩めのラブストーリーとしか感じられなかった。エンドクレジットをぼんやり眺めていた柿崎は困惑していた。何となく釈然としなかったので、最初に戻り冒頭のシークエンスから見直した。すると、マグワイヤが「Show me the money」を連呼し顧客がたった一人になる場面までは全く違う映画であった。つまりその数分間は働く者に刺激を与えるビジネス映画としてしっかりと成立していたのだ。顧客を失い呆然と立ち尽くすマグワイヤの顔を観て柿崎は少し安心し、何度か「ショウミーザマネー」と呟いてみた。マグワイヤの様に叫びたくもなったが、その客観的な様子を想像し思いとどまり、代わりにテーブルの上にあった手帳にその言葉を書いてみた。仕事で使用している手帳だがプライベートの予定やメモにも使っており、大体身近に置いてある。今どき手書きの手帳なんて珍しいと言われるが、書くという行為で着想や感想などを定着させたい柿崎には必要なツールであった。スケジュール管理は既にスマホで行っている為、単なるメモ帳になりつつあったが、柿崎にとっては重要な作業であった。ページの片隅に「Show me the money」と書きなぐったが一回では収まりが付かず何度か書いた。が、どうもしっくりこない。赤いボールペンを取り出し、少し大きく少し丁寧に書き記した。しばらく眺めて柿崎はついに満足した。一息付きBlu-rayの再生を止める。何となく気分が良くなった柿崎は、更に上機嫌になるべく書棚から古い日本映画のDVDを引っ張り出した。1964年公開の「君も出世ができる」だ。須川栄三監督による和製ミュージカルの傑作であるが、サラリーマン喜劇としても優れているため選んだ。当時としては巨額な予算が投じられた野心作だが興行的には大失敗に終わり、今となっては余り知られていない。しかしMGMミュージカル映画を研究し尽くした作りは単なる模倣を超え、60年代のやたら元気な日本を非常にポジティブに捉えることで優れたエンターテイメントとなっていた。フランキー堺の素晴らしく楽しい技術を堪能していると、玄関のカギが回る音がした。どうやら雅代達が帰宅してきたようだ。柿崎はフランキー堺が「できるできる出世ができる」とテーマソングを一節歌い終わるのを待ってから玄関に向かった。




