息子3
翌朝、柿崎はスマホのアラームが鳴る時間より30分早く目が覚めた。今朝は優太を幼稚園に送る日なのでいつもより早起きなのだが、それでも随分と気持ちの良い寝起きだった。
昨夜の暑気払いパーティの2次会は楽しかった。渡会がいるとああいった宴会は楽ができる。代理店らしい手慣れた仕切りを観客として笑って見ていれば良い。柿崎は脚本家の森田とじっくり話がしたかったが、2人になれたのが店外の喫煙所の数分間だけであったので、予告に留まった。「森田さん、構成について提案があるんです。」と伝えただけで昨夜は話が終わってしまったため、森田は気になって仕方ない様子だったが「まだ整理がついてないので、明日のミーティングでちゃんとお話しします。」と柿崎が説明すると、渋々ながら納得していた。
トーストとオレンジジュースだけの簡単な朝食を済ませ、手早く身支度を整えて優太と共に自宅を出る。雅代がご機嫌な様子で玄関の外で手を振っているのを、二人は少し恥ずかしそうにしながら顧みて手を振り返す。柿崎は近隣の奥様方の目もあるのでギリギリ小綺麗な上下スウェットのいで立ちで髪の毛だけは慎重に整えていた。会社はフレックス制度なので一旦帰宅してから出社する予定だ。優太と手を繋いでバス通りをゆっくり歩いていると路地から他の園児たちが母親に手を引かれて同じ道に合流してくる。柿崎はその都度プロデューサーらしく如才なく挨拶をこなす。ここを間違えると後で雅代から大変な叱責をいただくことになる為、仕事レベルの慎重さで向き合うことにしている。そして、その様子を優太が興味深そうに見上げているのも毎度のことだ。幼児のくせに余分なことを話さないのも通常運転だが、その表情を見て柿崎は、ここのところ中々話題にしにくかったことを聞いてみようと思った。
「なあ優太。最近のクラスの様子はどうなんだ?」
割と突然の直球だったと思うが優太は動揺を見せない。しかし口を開く前に、繋いだ手が少しだけ強く握られた。
「まだ、あんまり楽しくない。」
その口調はまるで最初からその台詞が準備されていたかのように柿崎には聞こえた。
「もしかして、まだ可哀そうなことになっている友達がいるの?」
柿崎による再度の直球ど真ん中に対しては数秒の沈黙があったが、今度は絞り出すような声が、まるで効果的に脇を固めるベテラン俳優がここぞという場面で発するようなトーンで小さな口から洩れた。
「…ぼくは、とってもいやだ。」
今度は柿崎の手に力がこもった。それに呼応するように優太もギュッと更に握り返す。
安易な回答は出来ないと思った。柿崎は迷った。父親として息子をトラブルからとりあえず守りたいという本能的な感情に抗うのはそれなりに困難ではあったが、小さな息子ではなく一人の人間として向き合うことを選択したいと考えた。まずもって伝わるかどうかが最初の関門であるし、伝わったところで大きく間違っている可能性もあるが、自分と優太の関係性を信じたいと柿崎は思った。
「何がイヤなのかお父さんには分からないけど…うまく言えないなら無理して言わなくてもいいよ。でも優太がカッコいいと思う事を頑張ってやってくれたらいいな。」
さんざん逡巡したうえで言えたのはここまでだったが、全くの言葉足らずでイメージとは随分と違った言葉になってしまった。プロデューサーらしからぬ不器用さに柿崎は苛立ち焦りも感じたが、どうやら優太にも響くところがあったようで、少し思案した後に俯きながら「うん。」と小さく頷いた。
「優太もマリンファイターを観ててさ、この人カッコいいって思う事あるだろ。そんな風になりたいって番組を観た皆に思ってもらいたくてお父さん達は毎日頑張って作っているんだよ。」
優太は考えるときに口の右端に人差し指を置く癖がある。そのポーズで頑張って咀嚼している様子であったが、再度柿崎の方に顔を上げ今度はよりハッキリ「うん。」と返し「クジラ隊長が一番好き。」と恥ずかしそうに答えた。柿崎は少し驚いた。
「そうなんだ。好みが渋いなあ。いいセンスしてるぞ。」
柿崎は軽口で答えたが、子供番組の作り手としての立場だけでなく一人の人間を育てる親としての責任を感じ軽い戦慄を覚えた。それは、優太が生まれたばかりの頃に覚えた強い使命感のようなものだが、息子の成長や繰り返される日常と共に思い出すことが少なくなる感情だ。かなり久しぶりに無闇な使命感を思い出し思わず背筋を伸ばしてしまった柿崎を見て優太が不思議そうな顔をしている。しかし柿崎は少し楽しくもなっていた。この後十年以上が経過し大人になった優太とマリンファイターの話をする自分の事を想像してみたのだ。数秒間で表情や姿勢を目まぐるしく変える柿崎を見て優太が「お父さん、どうしたの?」と尋ねる。
「いや、何でもないよ。さっきも言ったけど優太が沢山考えて正しいと思った事は勇気を出してやって欲しい。優太はカッコいい奴だってお父さんは知っているから。」
「隊長みたいになれるかな。」
「優太ならなれるよ。お父さんは最近いまいちカッコ悪いから頑張らないと。」
「わかった。一緒に頑張ろうね。」
最後に小さな息子に励まされたところで幼稚園の入り口に到着した。繋いだ手を放すと「行ってきます!」と元気よく優太が駆け出した。その背中を見送りながら「俺も頑張んなきゃな…」と独り言ちると、傍らを通り過ぎる顔見知りのお母さんに聞かれてしまい、ぎこちない挨拶を交わす。微妙な恥ずかしさは直ぐに忘れ勢いよく踵を返すと早足で自宅への道を引き返す。今の優太との会話は濃密で有意義だったと思うが、雅代が聞くと恐らくとても怒るだろう。彼女にも伝えるべきかどうか迷いながら歩いていたが、我が家が見え始めたあたりで、やはりちゃんと話をしてみようと腹を括った。そして、午後にはマリンファイターの構成打合せの予定がある。今日は、正直で分かりやすい日にしよう、と柿崎は心に誓って玄関のドアを開けた。




