「約束」
正門をくぐり、左に曲がると駅までは一直線で、歩道の片側には並木が続いている。いつもは一人か、時間が合えば打山くんと一緒に帰っているが、今日は違う。いい意味で。
視線だけ横にずらすと、隣を四十谷さんが何食わぬ顔で歩いている。今、僕は並んで歩いている……こんな可愛い子と……という余計な考えはせずに、駅までの道のりを歩く。
グラウンドの方からは運動部のものと思われる、かけ声のような声が聞こえてくる。野球部だろうか。
まだ四月の後半に入ったばかりだから、陽射しがあまり強くなく、心地がいい。植物の匂いが仄かに香り、烏の鳴き声さえも風の音がうまく緩和してくれて、あまり煩くない。
こういう自然の中にいる時には、「生きているなぁ」とつい感じてしまう。誰かに言ったら、変な人だと思われてしまうかもね。
四十谷さんも今、同じようなことを感じているのだろうか。
………………。
いやいやいや、何を考えているんだ、僕は。そんなはずないじゃないか。それこそ、誰かに知られたら引かれてしまう。
そんなどうでもいいことを考えていると、四十谷さんと不意に目が合った。どうやら見すぎていたせいで、視線を感じ取られてしまったようだ。
僕は咄嗟に、
「あ……いや、そうだ、用事って何なの?」
と、誤魔化していた。ちょっと不自然だったかな?
「あ、うん。ちょっとね……」
え? 四十谷さんもはぐらかすんだ? こりゃ、ますます気になる。別にやましい意味じゃなく、純粋にこれから彼女の行こうとしている場所が知りたい。
もう一度、訊いてみようかな? と、迷い始めた瞬間……。
四十谷さんが、
「あっ!」
そう声を上げたかと思うと、突然立ち止まった。僕も驚いて、足を止める。
すると、四十谷さんは僕の目の前に回り込み、こう言った。
「お金、持ってない?」
「はい?」
「だからー、お、か、ね!」
どういうことなのか、さっぱりわからない。
まさかこれって……カツアゲ……? 男にしかやられたことないんだけど? 女の子がやるの?
とりあえず、金額だけでも訊いておこうかな……。
「い……いくら?」
「十円」
「…………」
ちょっとばかり、警戒してしまった自分が馬鹿みたいに思えた。
十円って……。それじゃ、パンどころかコロッケも変えないや。
……なんて、しょうもないことを考えてる場合じゃないよな、うん。
ジュースを奢ってほしいとかなら何度か言われたことがあるけど、たった十円を求められたことはない。
というか普通、何かあった時のために財布くらいは持ってくると思うのだけど、十円もないってことは、一銭もないってことだよね……?
「お財布、持ってないの?」
「持ってるけど、家に置いてきちゃったから、君が十円貸してくれると有り難いんだけど。今から家に電話かけるから」
なんだ、そういうことか。
いや、でも自宅に電話するだけなら、携帯でもいいような……。
もしかして、携帯もないとか?
「携帯も忘れたの?」
「携帯、持ってない」
僕が質問を言い終わるとほぼ同時に、四十谷さんは答えた。さらに、
「ウチって貧乏だから、なかなか買ってもらえないんだ。だから、みんなが羨ましくもあるんだよね。いつも、家に連絡する時は公衆電話使ってるし」
と話す彼女の表情は、どことなく虚ろに見えた。
仕方なく僕は鞄から財布を出すと、十円玉を彼女に手渡した。それを受け取った四十谷さんは嬉しそうに微笑み、
「ありがとう。それじゃあ、ちょっと行ってくるね!」
そう言って、向こうの歩道脇の公衆電話まで駆けていった。
四十谷さんは中に入って電話をかけていたが、その内容は当然ながら僕のところには聞こえてこない。
僕は電柱の傍らまで移動し、四十谷さんが戻ってくるのを待った。その間、公衆電話の中の様子を窺っていた。
何を話しているのだろう、と少しばかり気にはなったけど、近くまで行って聞き耳を立てるという野暮な真似はできなかった。少し離れたところから見ているだけでも十分怪しいだろうに、それをすると完全にストーカー行為だ。場合によっては、通報されかねない。
話の内容については、あとで本人に直接尋ねることにしよう。
それから五分もしないうちに、四十谷さんは走って戻ってきた。
「ごめんね、お金は明日返すから」
「いいよ、十円だし」
僕は断ったが、四十谷さんは心外そうな顔をして、
「ダメだよ。社会通念上の礼儀として、借りたものはちゃんと返さないと」
プライドを傷つけられたと言わんばかりに、こちらを睨んでくる。その姿勢には見習うべきところがあるな、と感じる。高校生なのに、しっかりと自分の信念を持っているらしい。
まるで芸能人みたいだ。……芸能人?
僕はふと、また《AA》のことを思い出す。
動画の中で弾き語りをしていた、眼前の彼女によく似たシンガーソングライターの卵。でもまさか、そんなことがあるはずはない。ただ、背丈や声質が似ているだけに違いない。
一旦、そのことは忘れることにした。
それよりも、先程から気になっていたことを、四十谷さんに訊いた。
「さっきの電話、誰にかけてたの?」
「お母さん。今日、これからスタジオでレコーディングがあるの。だから、夕飯は外で食べて帰るねって話してたんだ」
レコーディング? スタジオ?
多分、きょとんとしたような顔になっていたんだと思う。四十谷さんもハッとしたように、両手で口を押さえた。完全にやらかしてしまったという、そんな表情。
「あ……何でもないよ。じゃあ、行こっか」
四十谷さんは首を横に数回振って、何かを誤魔化すように俯きながら、僕に背を向けると歩き出した。だが、もう手遅れだった。
僕は彼女を追いかけながら、
「ねえ、君が《AA》なの?」
と、好奇心からか、半無意識的に尋ねていた。自分の欲求を制御できなかったようだ。
しかし四十谷さんは足を止めることなく、涼しい顔で答えた。
「そうだよ」
え、そうだよ……ってことは、合ってるの? それが本当なら、《AA》は僕と同じクラスの出席番号一番、《四十谷綺音》と同一人物ということになるのだけど。
こんなことが、リアルに……?
自分で訊いておきながら、まだちょっと心のどこかで疑っているもう一人の自分がいた。
「それ、本当なの?」
「本当だよ。これからね、新曲のレコーディングがあるんだ」
「じゃあ、あの動画も、君が?」
「見てくれたんだ……。そう、あれも自分で撮ってるんだよ」
「プロデューサーがついてるっていうのは?」
「そんな噂まであるの? まだメジャーデビューしてないから、そんな人いないよ。いつか、そうなりたくはあるけどね」
「だって、これからレコーディングだって……」
「それも自分で録音するの」
僕の立て続けの質問にも、四十谷さんは戸惑いひとつ見せずに淡々と答えていく。
昨日見た動画に映っていたのは、今まさに僕の隣を歩いているクラスメイトの女子、四十谷さんだったのだ。
あの歌声やメロディーが、頭の中に鮮烈に蘇る。初めは半信半疑だったけど、段々と思考が追いついていくに連れ、得も言われぬ嬉しさが込み上げてきた。
僕は打山くんから話を聞くまで、《AA》の存在すらも知らなかった。ネット自体あまり見ないから仕方なかったのかもしれないけど、もう少し早く知っておけばよかったな、とも思う。
それにしても、こうしてそこそこの有名人と一緒に歩いているなんて、僕は今、他人に誇るべき快楽を得ているのではないだろうか。
……とは言うものの、世間一般で言えばまだまだ無名な方なのかな? 一応、動画サイト内でのフォロワーは百万人を超えていたけど。
まあ、メジャーデビューすれば一気に全国的な知名度を得ることも十分有り得る。もしそうなったら、親や色んな人に自慢してやろう。
「でも、知られた相手が暁くんでよかったかな」
四十谷さんは歩きながら、ぽつりとまた気になることを仰有った。
「どういうこと?」
「うちの高校って、原則芸能活動禁止らしんだよね。だから、私が《AA》ってこと、誰にも言わないでほしいの。バレたら多分、退学になると思うし」
そうか、そういえば打山くんもそんな話をしていた。
四十谷さんは続いて、こう話す。
「知ってて入学したくせに烏滸がましいとは思うけど、私、今学校を辞めるわけにはいかないんだよね。まだデビューできるって決まったわけじゃないし、お母さんも不安にさせちゃうから……。絶対に夢を叶えて、少しでもお母さんを安心させてあげたいの。小さい時からずっと私の夢を応援してくれてるから、いつか有名になって、恩返しがしたい。今より、暮らしを楽にしてあげたい。だから、まだみんなに知られるわけにはいかないの」
淡々とした口調で話しながら、今まで前だけを見つめていた四十谷さんが、不意をつくように僕の方を向いた。真剣な視線が、僕の目を捉える。その決然たる眼の色を見れば、さすがに嫌とは言えない。
それに。
「烏滸がましいなんて思わないよ。君がそうしたいなら、僕もできれば応援したいな。絶対、誰にもバラさないから。約束する」
「ほんとに?」
「うん。もしも疑ってる人がいたら、即刻否定するよ」
「そこまではしなくていいけど。でも、ありがとう。これは、私たち二人だけの秘密だからね」
二人だけの秘密、かぁ。その響きだけを聞くと、ちょっと新鮮かも。
疑ってる人がいるのかはよくわからないけど、僕が守ってあげなきゃ。彼女の秘密を知っているのは、僕だけなんだから。
あ、けど打山くんは疑っていたっけ。明日、彼にも《AA》と四十谷さんは別人だったと伝えておこう。
「そうだ。暁くんの下の名前って、何ていうの?」
突然そんなことを彼女に尋ねられたので、僕の思考はストップした。ついでに足も。
四十谷さんもそれに気づいたのか、僕の数歩先で止まった。そして、ゆったりとした動作で体をこっちに向ける。
「どうしたの?」
「あ、う、うん」
「あ、もしかして教えたくない感じ?」
「いや、そうじゃないけど……」
非常に唐突すぎる話題転換だったから、どう返したらいいかわからなくなっただけだ。脈絡もなかったし。
すると、四十谷さんがまたこちらに戻ってきた。
「ごめん。なんか、知りたくなっちゃったから。そういえば、下の名前何ていうんだろう……って」
僕は、四十谷さんの下の名前を知っている。というのも、名簿が配られた時点でクラス全員の名前をチェックする習慣があるからだ。しかし、彼女にはそれがないらしい。まあ、当然といえば当然か。僕もよっぽど珍しい名前の人以外はすぐに忘れるし、ほとんど興味本位だし。
それでも、これからの一年間を同じ教室でともに過ごす同輩のことを、少しでも知っておきたいという気持ちは、誰もが持つ共通認識だと思う。
名前くらいは教えてあげてもいいかな、と僕も思ってるわけだけど、どんな漢字を書くのかと尋ねられたらちょっと困ってしまう。
とりあえず、名前だけを答えることにした。欲を言えば、あまり言いたくはないのだけど。
「れ……れんた……」
「れんた? それって、どんな字を書くの?」
やっぱり、そこ突いてくるよね。まあ、予想済みだけど。
しかし、一番されたくない質問をされてしまい、少々焦る。
必死に考えを巡らせたあと、咄嗟に思いついた嘘を言う。
「蓮に、太いって書くんだ」
「へぇ、いい名前だね」
どうやら、納得してくれたようだ。「れん」の部分が「蓮」でなく「恋」だなんて言ったら、彼女はどんな顔をするのだろう。
中学時代までは、よく名前のせいでからかわれていた。「太」って付いてるから名前で女の子に間違われることはなかったけど、男子なのに「恋」なの? って、男女問わず言われ続けてきたのだ。
ごめん、四十谷さん。嘘吐いちゃって。
「そっか、蓮太くんかぁ……。あたしは綺音」
僕が知らないと思ってるらしく、四十谷さんも自分の下の名前を言った。知ってるけど、ここは初めて聞いたふりをして頷いておく。
「それでね、《アスキー・アート》っていう名前なんだけど。ほら、ネットとかで、文字や記号だけを使ってイラストを描くやつ、あるでしょ? あれの略称と私のイニシャルが同じだったから、それをアーティスト名にしたんだ」
これは初耳。というか、安直すぎじゃないか?
しかも、感想を求めるような視線で見てくるし。何か、コメントした方がいいのかな。そんな不安が、僕の思考回路を秒速単位で駆け巡る。
「……斬新、だと思うよ」
かなり普通な感想だった。あまり頭が回ってないのか。
「そう? 私が音楽活動してるって知ってる数少ない友達はね、みんな口を揃えて『ソロアーティストじゃなくてバンドみたい!』なんて言うんだよ」
他にも知ってる人いたの? 「二人だけの秘密」なんて言うから、てっきり自分以外は知らないものだと思っていたのに。
学校の中だけで、っていう意味だったのかな。それに、よくよく考えれば家族の人は間違いなく知っているだろう。
「あ、そうだ。レンくんに確認したいことがあったんだ」
思い出したように、またまた唐突に別の話を切り出す四十谷さん。脈絡関係ないのか、この人は。
って、しかも、え……『レンくん』?
「レンくんはさ、どうして軽音部に入りたくないの?」
「その前にまず、なんで呼び方が変わってるのかを教えてほしいんだけど……」
「せっかく友達になったんだし、呼びやすい呼び方でいいよねって思っただけ。あ、あたしのことは、気軽に『綺音』って呼んでくれていいからね」
「え〜」
「なんか今、すっごく嫌そうな声が聞こえた気がするんだけど?」
四十谷さんは少々頬を膨らませ、親に甘える子供のごとき視線を送ってくる。そこはちょっぴり可愛らしい。
「もしかして、付き合ってもないのに名前で呼び合うのは非常識だってこと?」
「いや、別にそういうわけでは……」
何て答えるのが正解なのだろうか。見当もつかない。
考えあぐねた結果、僕は言葉を継いだ。
「じゃ、じゃあ……僭越ながら、下の名前で呼ばせていただきます……」
自分でも何故なのかわからないけど、滅茶苦茶丁寧な言葉で返してしまった。まあ、呼ぶとは言ってしまったけど、他人の前では気をつけよう。変な誤解をされたらそれこそ嫌だし。
それにしても、妙なところで拘る子だ。思考を読むのに骨を折りそう。
溜息をつく間もなく綺音さんが、
「でね、さっきの続きなんだけど、どうして入りたくないの?」
と、話を戻す。
「あ……うん」
口籠る僕に、彼女は続けざまに言った。
「あたし、君の歌唱力、高く評価してるんだよ? 音楽の授業でも女の子たちに引けを取らなかったし。だから、できれば入部してほしいな。あたし、先輩たちをどうにか説得して、あの部を立て直したいの。そのためには、その……君の力が必要? みたいな……」
「なんで、そこだけ妙に曖昧なの!?」
入ってほしいのかそうでもないのか、どっちなのかわからない物言いに、僕は内心げんなりとしながら肩を落とす。
というか、年内メジャーデビューを目指しているようなお方が、部活なんてやってていいのだろうか。軽音部に憧れて進路を決めたというのは理解したけど、そうまでしてあのやる気のない部活で活動したいのか……?
「あの〜……もう一つ、質問なんだけど」
「何?」
相手から、鋭い目付きで視線を送られる。なんか、疑われてる?
「いや、その、なんていうか……個人の活動もやって、部活もやってってしてたら、大変じゃないかな?」
純粋に疑問だったのだ。ただでさえ忙しいと思うのに、あんなところで時間を浪費してていいのだろうか、と。
綺音さ…………この際、呼び捨てでもいいか。本人もそれっぽいこと言ってたし。
綺音は、腕を組みながら「うーん」と考えるように唸った。
しばらく、沈黙が流れた。その間が妙に気まずい。本日二度目の「帰りたい」というワードがふと脳を過る。
すると、綺音は顔を上げ、
「大変とかは、あまりないかな。やっぱり、好きなことはやってて楽しいし。それに……依頼されて歌うのと、プライベートで歌うのとじゃ、楽しみ方も違うから」
最後に、バンドは一人じゃできないから、と小さく付け加える。
もしかすると彼女は、一人で歌うよりも、複数人でやるバンドの方に憧れがあるのかもしれない。ということを、今の発言からも読み取れた。それに、これは最初からあった感情というよりは、最近芽生えたもののように感じる。
ミュージシャンを志しているということをほんの一部の人にしか伝えられず、ずっと一人で歌ってきたのだ。だからこそ、せめて学校の中だけではみんなと一緒に音楽を、バンドをやりたいんじゃないだろうか。
もう一つの居場所を、欲しがっているのではないだろうか。可能なら、そんな彼女の願いを叶えてあげたくもある。
しかし。次の瞬間、僕の中である葛藤が生まれた。それは、僕が半年以上も前から抱いている感情に起因するものだった。やはり歌えない、という思い。
僕だけが、みんなと楽しく歌うわけにはいかないんだ。だって、そうしたら、あの子に申し訳ない気がするから。
あの子から夢を奪ったのは僕だ。だから今更、僕には音楽をやる資格なんてない。あってはいけないんだ。あの日から、そう思い続けてきたのだから。
罪滅ぼしや贖罪という名目で入部するというのも、何か違う気がする。だから、僕が軽音部に入るわけにはいかない。
「ごめん、やっぱり僕……」
「あ、うっかりしてた! あたし、そろそろ行かなきゃ!」
僕の言葉を遮るように、綺音は両手をパチンと鳴らした。
「スタジオ、この近くなんだよね。駅までは一緒に帰ろうと思ってたけど、ごめんね。あと、さっきも言ったように電話代は明日、必ず返すからね!」
綺音はそう言い残すと、駆け足で去っていこうとした。その時、何故そんな感情が働いたのか自分でも理解し難いけれど、僕は後ろから彼女を呼び止めた。
「待って!」
綺音がスキップの延長線上のような動作で、くるりとまた僕の方を振り返ると、長いポニーテールの髪が春色の風に揺れた。
甘い香りが漂い、それが口を開きかけた僕を躊躇させた。




