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「四十谷綺音」

 放課後になった。でも、今日はいつもと違う。夕日色に染まる教室には、僕一人。


 皆、部活に行ったり帰宅したりして出ていったけど僕は帰れず、自分の席に座って反省文を書いている。その内容はもちろん、本日のライブの件だ。


 教室内はシーンと静まり返り、寂しさだけが残っていた。こういうのを「閑古鳥が鳴いている」と表現するのだろうか。

 しかし全く音がなかったわけじゃない。遠く、廊下の方から話し声が微かに聞こえ、楽器の音色も時々聞こえてくる。多分、どこかで吹奏楽部が練習しているんだろう。


 いつもは終礼の後すぐに帰宅するのに、時計を見ると、普段で言えばもう家に着いている頃だった。

 昨日も居残っていたけど、あの時とは状況が異なる。


 打山くんは速攻で反省文を書き上げると、「今から怒られに行ってくるわ!」と言って、重音部のところに走って行ってしまった。

 僕は見事、置いてきぼりを食らってしまった。


 ようやく書き終わり、僕は鞄と一緒に原稿用紙二枚分の反省文を職員室まで持っていった。

 本来、十枚くらい書くのが当たり前だと言われたけど、柊木先生が丹山先生に取り合って量を減らしてくれたのだ。その時に、あぁ柊木先生って優しいんだな、というのを改めて実感した。いや、初めてかもしれない。もともと優しそうな印象だったけど、本当に優しかったんだって。


 反省文を丹山先生に提出し、帰宅の許可をもらうと僕はそそくさと職員室を後にした。


 ああ……緊張した。


 昔から、職員室という場所に対して苦手意識がある。あの充満したコーヒーの匂い、正しく職員室だった。でもさすがに、コーヒーの匂いを嗅いだだけで不安になった経験はないけど。

 とにかく、今日のことは一旦、忘れよう。


 それでも……これからのことを考えると、やっぱり気が重い。


 自分でも気付かないうちに急ぎ足になっていたのか、もう昇降口が見えてきた。やっと帰れるんだと些か嬉しくなり、さらに足を早める。

 しかし、僕はあることに気付いて足を止めた。


 下駄箱の陰に、誰かいる。足だけを廊下に差し出し、全く動く気配がない。あまりにも静止していたから一瞬、ホウキかな? と思ってしまったくらいだ。


 慎重に、その足を凝視しながらそこに近づいていく。


 紺色のハイソックス。ということは、かなり範囲が限定される。そこにいるのは、女子だと見てまず間違いない。


 でも、誰だろう? しかも、なんでさっきから動かないんだろう?

 少々怖くなりつつも、僕は勇気を出して下駄箱の裏をそっと覗いてみる。


 そこには、予想外の顔があった。僕は反射的に後ずさる。戸惑いが消えない。


 やや狼狽気味の僕の前にいたのは、同じ学級の――一つ前の席の女子。


 四十谷綺音だった。彼女は無言で僕に近寄ってきた。なんで、なんで……?


「あの……僕に何か用かな……?」


 また、僕から話しかけていた。今度は、というか今度も、無意識的に。


「君を待ってたの」


 四十谷さんは答えた。


 え、僕を待っていた……? というか、初めて返事をしてくれた! 素直に嬉しい。憧れの人と僕は今、会話している!


 いや、憧れかどうかは今のところまだわからないし、喜んでる場合じゃないよな。まず僕を待ってた理由を訊かなくちゃ。


「どうして、僕を待ってたの……?」


 ちょっぴり怯えたような口調で尋ねてしまった。心とは裏腹に体は警戒しているみたいだ。


「話があるから」


 まあ、そうだろうね。じゃなくて、用件を尋ねたつもりだったんだけど。もしかして、察しが悪い? それとも、察しが悪いのは僕の方なのか?


「えっと、四十谷さん。その話って何?」


 訊くと、向こうは驚き半分、嬉しさ半分といった案配に目を見開いた。


「あ、あたしの名前、覚えててくれたんだ!」


 そんなに驚くほどのことかなって思ったけど、僕も四十谷さんの名前はクラスで一番はやく覚えたし、それはあの日、皆より少し目立っていたからだ。


「そりゃ、同じクラスだから覚えてるよ。それに入学式の日、ちょっと遅れてきたから」


「あ、そうそう。あの日は前の日に色々やってて夜更かししちゃったから、寝坊しちゃったんだよね。それで髪もセットする暇がなくて、急いで飛び出してきたの」


 だから、席についてから髪を束ねていたのか。


 それにしても、あのギターのことが未だによくわからない。急いでたというのに、あれは何のために持ってきていたのだろうか。

 まあ、気にはなるものの、今は彼女の話とやらを聞かなければ。


「それで、さっきの話って何なの?」


「あ、それね。今日、ライブやってたじゃない?」


「あ、そうだね」


「君は、バンドに興味があるの?」


「ないよ」


 即答していた。やっぱり、その手の話に過剰に反応してしまうのは、心のどこかであのことが常に引っかかっているからかもしれない。


「ふーん、ないのに出てたんだ?」


 不思議そうに、眉をひそめる四十谷さん。当然の反応だ。


「初めは断ってたんだけど、しつこく頼まれて。ほら、同じクラスの打山くん。あの人、重音部に入りたいらしくてさ。でも、重音部に入部審査みたいなのがあって、ライブをやって部員の先輩たちに認めてもらわなくちゃいけないみたいなんだ。だから、他の入部志願者と一緒にバンドを組んだけど、ボーカルだけ足りないから、僕を誘ってきたんだ」


 四十谷さんは納得したのか、こくこくと相槌を打っていた。


「……じゃあ、別に君は音楽に興味があるわけじゃないんだ?」


「音楽っていうか……聴くのは好きだけど、自分で歌うのは……そうでもないかな」


 つい濁してしまったけど、今の僕にとってはそれが本音だった。自分の心に嘘をついてるんじゃない、これが本当の気持ちなんだ。


 四十谷さんは「ふーん」というふうにまた二回ほど頷くと、体を横に向ける。


「……なんだ、せっかく軽音部に入ってもらおうと思ったのに」


「…………?」


 意想外な発言に、返す言葉が見つからなかった。


 軽音部。

 四十谷さんは軽音部に入っていたのか。だから、あんなに大きいギターを持っていたんだ。

 そういえば、今の彼女は鞄もギターも身につけていない、手ぶら状態だ。部室に置いてきたのかな?


 四十谷さんは僕の方に向き直ると、今度はじ〜っと僕の顔を見つめてきた。女の子に見つめられることに不慣れな僕は当然のごとく羞恥心に襲われ、彼女から目をそらす。顔が熱い。リンゴみたいに赤くなってないかな……?


「ねえ、歌ってみてよ」


 僕は再び、彼女の顔に視線を戻す。


「君の歌声、聴いてみたいな」


 四十谷さんは微笑みながら、そんなリクエストを僕に言う。

 しかし当然、歌う気になんかなれない。もう二度と、人前では歌わないと決めたのだ。


「む、無理だよ」


「どうして?」


「どうしてって、恥ずかしいし……」


「そっか……。でもね、私は君に軽音部に入ってほしいんだよ」


 また、何も返せなくなる。


「今ね、軽音部には部員があたし含めて三人しかいないの。しかもあとの二人は先輩で、どうしても同じ学年の人に入ってほしくて、今色んな人に声かけてるんだ」


 そこで、ようやく彼女の意図を理解した。


「君は、僕を勧誘するために待ってたの?」


「そうだよ。教室で待ってたら変かなって思って、ずっとここで待機してたの」


 四十谷さんの話を聞いて、僕は肩をすくめた。そして、何とも表現し難い感情が湧き上がってくる。悲しさを含んだ、怒りにも似た感情。


「君も見てただろ、今日のライブ。失敗して、恥かいて……。そんな僕を誘っても仕方がないだろ、他を当たれよ」


「へぇ、命令するんだ?」


 あっ、しまった。

 テンパったり頭に血が上ったりすると命令口調になるクセ、そろそろ直さないとな。


「……ごめん。だけど僕は入らないから、他の人に頼んでくれないかな」


 と、慌てて取り直す。


 四十谷さんは初め、不満そうな目で睨むように僕を見ていたが、くるりと体を半回転させ、


「そっか〜。でも勿体ないと思うな。君、上手いのに」


 と言ったあと、今度は顔だけをこちらに向けてきた。その瞳には、少しだけ残念そうな色が浮かんでいた。


「あたしね、立ち居振る舞いだけでその人の歌の上手い下手がわかるの。何ていうんだろ、なんかこう……カンが働く感じ。歌が上手な人ってほら、姿勢がよかったりするでしょう?」


 言いながら、四十谷さんは再び僕に正面を向ける。


 だがそんな話を唐突に始められても、あまりイメージが湧かない。

 確かにそういうことはあるかもしれないけど、全員がそうかと言われると、少し違う気もする。実際、僕は自分の姿勢がいいとは思わないし、どちらかと言うと悪い方だと思う。なんというか、説得力が薄い感じだ。


 四十谷さんは続けて、


「君が乗り気じゃないのはわかったよ。でも、すぐに入部しろって言ってるんじゃなくてね、一度見学に来てほしいの。それなら、いい?」


「う、うん。あ、いや、ごめん。今日は……」


「それに、部活の先輩には『絶対に連れてくるから!』って言っちゃったし」


「なんでそんなこと言ったの!?」


 勝手にそんな約束をしないでほしいものだ。なんか、さっきから四十谷さんのイメージが僕の中で崩れていっているような気がしてならない。


「だってウチの先輩たち、全然やる気ないんだもん。部員数も規定ギリギリだし。これ以上減ると、廃部になっちゃうんだよね」


 重音部の勢力が拡大する一方、軽音部は現在、廃部の危機にあるらしい。それを聞かされると、ちょっとだけ不憫に感じる。行くだけなら……行ってみてもいいかな。


 ところで、どうして四十谷さんは重音部には入らなかったのだろう? どちらも似たような部活だし、重音部に入った方が個人的にはいいと思える。打山くんから軽音部もあるとは聞いていたけど、まだ活動しているところを見たことがない。


「ねえ、一つ質問なんだけど、君はなんで軽音部に入ったの? 重音部の方が人気っぽいし、部員数も多そうな感じだけど……」


 その返答は、すぐに来た。


「あたし、重音部の音楽は好きになれないの。ロック……パンクとか、メロコアとかいうの? そういうの、よくわからないし。それに、過激な人たちばっかり集まってる感じだったから。第一、あたしがやりたい音楽とは合わない気がするの。音楽観が根本的に違うんだよね」


「音楽観」って言葉、彼女も使ってるってことは、けっこう浸透しているのかな? だけど、そこは僕も同感。やっぱり、そう思うよね。

 僕も打山くんたちと一緒にライブをやってみて……やりかけて、なんとなく仲良くなれそうにないな、と感じてしまった。まあ、打山くんは友達だと思ってるけど。


 四十谷さんは俯きながら、話を続ける。


「あたしがこの高校に行きたいって思ったのも、実は軽音部の活動を見たからなんだ。中学の時、たまたま音楽フェスに行く機会があって、そこでライブを見て知ったの。それで、あたしもあの高校の軽音部に入りたいって、そう思ったんだよね」


 少し頬を紅潮させながら嬉しそうに語る四十谷さんには、やはり《AA》の面影があった。顔は動画には映っていなかったが、確かに声や抑揚、体格なんかを含めて似ていた。そして、なんとなく妹の面影も宿している。


「……でも、入部したら部員が二人しかいなくて。先輩も活動には消極的で、あたしが憧れてたものとはまるで違ってた。だけど、どうにかあの部を立て直したい。重音部に負けないくらい、昔みたいな輝きを取り戻したいの!」


 彼女の強い語気に、僕は圧倒されそうになる。


 しかし、僕にどうしろというのだろう。僕が入部したところで、他の部員が集まるわけじゃない。それを、彼女は理解しているのだろうか。


 でも、何故だろう。胸が苦しくなる。必死な彼女を看過することはできない、したくない。それをやってしまうと、僕はまた……。


「見学だけなら……行ってもいい……けど……」


 迷いを払い除けて、僕は声を絞り出すようにして告げた。


「本当?」


 四十谷さんの瞳に、淡彩な光が灯る。


「うん、まだ入るって決めたわけじゃないけど」


「ありがとう!」


 優しい微笑を見せる彼女に不覚にも見惚れてしまいそうになり、僕は慌ててまた視線を外した。気づかれたかな? と一瞬焦ったけれど、四十谷さんは特に何も気にしない素振りで廊下をただ歩き出す。

 それを見て僕も安堵し、彼女の後に続いていった。


 そういや、もともと軽音部があったにもかかわらず、重音部設立の時によく却下されなかったな、という他愛ない疑問が今更のように浮かんだ。

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