「入学式」
初めて僕が四十谷さんと会ったのは、入学式の日のことだった。会った、という表現は正しいのかわからないけど。
教室に着くと、前の黒板に張り出されている座席表を見て、僕は自分の席を確認した。もうほとんどの生徒が着席していたが、室内はしんと静まり返っていた。皆も僕と同じで緊張しているんだろうな、などと思いつつ席に着こうとすると、あることに気づいた。気づいた、というよりは疑問を持ったのだ。
僕の苗字は「暁」だから、一学期の最初は一番前の席になることが多いのだけど、今回は前から二番目だった。ということは、僕よりも出席番号の早い人がいるということだ。その人はまだ登校していないのか、空席だった。
椅子に座ると、暇つぶしも兼ねて、勝手にその人の苗字を想像してみた。中学時代、こんなことは滅多になかったから、少しワクワクしていたのかもしれない。「アカツキ」よりも前だとしたら、「アイカワ」とか「アオヤマ」とかが妥当だろうか。僕と似ているところで考えると、「アカツカ」とかも有り得る。
そんなことをぼんやり考えているうち、チャイムが鳴り、担任だと思われる男の先生が教室に入ってきた。灰色の背広に身を包み、眼鏡をかけている。背筋もぴんと伸ばし、真面目そうな印象。歳は見た目から推測すると、二十代後半か、いっていっても三十歳くらいだろう。
あれ? そういえば……。
改めて、前の席に目をやる。そこは空席のままで、もちろん机の上には何も乗っていない。鞄らしきものも、どこにも見当たらない。
遅刻かな……?
他人のことながら、少し心配になった。
「はじめまして。このクラスを担当する、柊木です。それじゃあ早速、出席をとるぞ」
少々ぎこちない声音で、柊木先生は徐に名簿帳を広げて生徒の名前を読み上げ始める。
「四十谷綺音」
先生は、フルネームで点呼した。が、返事はない。不思議に思ったらしい他の生徒たちも、キョロキョロと教室内を見回している。その時、前方のドアがガラッと開いた。
「すみません、遅れました!」
その声に反応して、僕は無意識にドアの方に目を向ける。僕だけではなく、そこにいた全員が入ってきた一人の生徒に視線を注いだようだった。女の子だった。
髪はセミロングよりも少し長め。足も長く、女子としては身長が高い印象を受ける。
右肩には学校の制定鞄をかけ、背中に黒いギターバッグを背負っている。
「えー……と、アイタニさん、かな?」
先生に尋ねられると、その人は「はい!」と大きく返事をした。
やっぱり「ア」行で、僕よりも前だったんだ。それにしても、惜しかった。「アイカワ」じゃなくて、「アイタニ」だったのか。いったい、どんな字を書くのだろう。
アイタニさんという人は僕の前の席まで歩いてくると、ギターを床に下ろし、次いで鞄も机の上に置くと、着席した。先生が出席をとっている間、なんとなく周りを見てみたけど、他の生徒たちから頻りに彼女の方に視線が集まっていた。
新入生はまだ部活には入れないはずだし、気になっていたのは僕だけじゃなかったらしい。通常、新入生歓迎会の後で部活動から勧誘を受けるか、見学に行かないと入部届はもらえないと、前もって保護者同伴の説明会で聞いていた。それなら何故、ギターなんか持ってきているのだろうか。
一方、彼女は皆からの視線をも意に介さず、濃緑のブレザーのポケットからゴム紐を出して茶色がかった長い髪を、後ろで束ね上げた。次に、鞄を開いてピンク色のシュシュを取り出すと、その上からさらに縛る。ポニーテールが仕上がると、彼女は最後に軽く頭を振った。その時に、彼女の毛先が僕の鼻頭に僅かに触れた。チクッ、という一瞬の痒みのあと、甘い香りが鼻孔を衝く。
妹に似ている。――という感情が、発作的に脳裏に現れた。
目の前の彼女は、僕の妹にそっくりだった。顔がどうとかじゃなくて、明確な論拠はなく、何かが似ている気がしたのだ。何故そう思ったのか自分でもよくわからなかったが、しばらく僕は彼女から目を離せずにいた。多分、他の誰よりも見ていたと思う。……自分でも少し引くくらいに。幸い、相手も周りも気がついていないようだった。
全員の出席確認が済むと、先生の指示で体育館に移動し、そのあとすぐ入学式が行われた。校長先生からの祝辞や学校紹介などがあった。
これから、新しい学園生活が始まる。皆、各々のワクワク感に酔いしれていたことだろう。僕もそうだった。高校では何をしよう、どんな部活に入ろう、なんてことを先生や先輩の話を傾聴しながら考えていた。
式が終わって教室に戻ってくると、徐々に打ち解け始めた生徒たちが互いにお喋りしている光景が目につく。僕はまだ友達はいないけど、始まる前よりだいぶ緊張が解けてきているのがわかった。
全員が席に着くと、学級の名簿表が配られる。僕は昔から、毎回名簿が配布されると同時にこのクラスにはどんな名前の人がいるのか、ということをチェックする癖がある。今回もその紙をじっと眺めていると、最も気になったのは、やはり一つ前の席の人だった。出席確認の時に名前は聞いたものの、漢字はまだ知らなかった。だから、ここで初めて知る。「四十」と書いて「あい」と読むのだということも。その珍しい読み方に、憚らずに表現すると、ただならぬ関心が湧いた。どうしてこんな変わった読み方をするんだろう……なんて考えていると、教室のざわめきの中に先生の声が響いた。
「じゃあ、明日は健康診断だからな。各自、体操服を持参するように。連絡事項は以上だ」
式の前はぎこちなかった先生の口調も、いつの間にか柔らかくなっていた。最初は眼鏡という第一印象だけで厳格な人なのかなと思っていたけど、話を聞くうちに優しそうなイメージに変わっていた。この人が担任でよかった、今ではそう思える。
解散の時刻になり、教室の人口は徐々に減っていった。僕は座ったまま、登校初日の余韻に浸っていた。こうして、僕の高校生活は幕を開けたのだ。数ヶ月前は誰とも口を利きたくないくらい気持ちが沈んでいたのに、それが嘘のように清々しい気分だった。あぁ……明日からが楽しみだなぁ。
そんなことを思いながら、さて帰ろうと腰を浮かせた時――。
巨大な黒い何かがぬうっと視界を横切り、僕は再び椅子に腰を落とした。危うく、それに額をぶつけるところだった。驚いて上を向くと、ギターバッグを抱えた四十谷さんと目が合ってしまった。
髪の色と濃緑のブレザー、そしてグレーのチェック柄のスカートが絶妙なコントラストを呈している。また、右手首には長細いゴム製のリストバンド。どこかで見たことがあるな、とは思ったものの、どこで見たのかぱっと思い出せない。
それはそうと、彼女は立ち止まったまま、じっと僕の顔を見つめている。
……気まずい。何か、話しかけないと。咄嗟にそう思ったが、言葉が何も思いつかない。
「や、やあ」
こんな挨拶しか出てこなかった。
しかし、数秒間こちらを見ていた四十谷さんは、やがて前に向き直ると一言も言葉を発することなく、悠々と歩いていった。
……無視? なんだよ、感じ悪いな。彼女の後ろ姿を目で追いながら、思う。
ただ、一つ言えることは、彼女は僕に対してあまりいい印象は残さなかったということだ。まあ、無視ではないにしろ、無言っていうのはちょっぴり切ない。言葉を返すに足らないやつだと判断されたのかも、と少し不安にもなる。
これが、僕と四十谷さんとの会話ですらない出会いであった。