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「決断」

 翌日の昼休み。

 教室の窓際の席で、打山くんと昼食をとった。僕らは購買のパンを机の上に広げながら、この間のように、向かい合って座っていた。

 一応この学校にも食堂という場所は存在するのだが、急いで行かないと席がすぐに埋まってしまうという欠点があった。


 結局、今日も二人で寂しくランチタイム。といっても、教室の中には他にも生徒はいるんだけど。


 因みに、習慣というか、打山くんと一緒の時は決まってまずやることがあった。いや、やるというよりは、やらされるって感じなのだけど。


 それというのは、最初に彼の近況報告を聞かされるのだ。

 そんでもって、本日の報告は、重音部への入部が無事許可されたということだった。ライブは成功しなかったけど、入部審査には全員無事合格できたらしい。やっぱり顧問の先生からもきっちりお叱りを受けたらしいけど。ライブを指示した先輩も、同じく怒られていたようだ。


「まあ、あれだ。波乱の学園生活に相応しい幕開けとなったわけだ」


 さすがはロック好き、と言わんばかりの言動にちょっとばかり感心する。ロックが好きだと考え方もロックなのか。到底、僕には真似できそうにない。


 続いて打山くんは口惜しそうに、こちらに問いかけるようにして言ってくる。


「でも、やっぱ成功させたかったよなぁ、暁?」


「あ……そ、そうだね。でも先生の言ってた通り、許可なしはやっぱりまずかったんじゃないかな……」


 返答に窮しつつ、とりあえずそのように答えておく。


「まあな。けど、せっかくコール&レスポンスまで考えてたのになぁ」


 そんなものまで用意してたんだ……。っていうか、コールするのって基本的にボーカルの人だけのような気がするけど……、まあ、それはいいか。


 ここは敢えてコメントせず、というより、少し気になることができたから、まずそれを訊いてみる。


「打山くん。重音部って部員が多いけど、ライブとかはどうするの?」


 バンドと言えば、多くても五人とか六人のイメージがある。吹奏楽部みたいに大勢で演奏、というのは多分、不可能だろう。


「あぁ、それな。特に仲いい数人でバンドを結成して、普段はそのメンバーだけで練習するんだ。一年生バンドは基本、あまりステージには立てない。新歓や三送会ではほとんど上級生がやるからな。せいぜい、文化祭なんかの時に中庭でやるくらいだろ。俺は、猪爪たちと組もうと思ってる」


 ああ、あの怖い人たちね。

 とても馴染めそうにない、という印象は、僕の中であれから変わっていない。


「大変だけど、頑張ってね」


 すごく他人事のようだけど、申し訳程度にエールを送る。まあ、実際すでに僕には関係ないことだから、罪悪感を覚えるのもお門違いのような気がするけど。


「暁は部活とかやらないのか?」


「あ……うん、なかなか合う部活がなくて」


 僕も近況報告として、軽音部の見学に行ったことでも話そうかと思ったが、口を開きかけて咄嗟に言うのをやめた。重音部への入部を断ったこともあって変な顔をされそうだし、そもそもまだ入ると決めたわけではない。

 昨晩、あれから色々と考えを巡らしてみたけど、どうしても決心がつかなかった。


「でもなあ、何もしない青春時代を過ごすより、どこでもいいから入っておいた方がいいぞ。俺なんか昨日、早速部活の先輩を飯に誘ったぞ。あ、もちろん、女の人な。まあ、結果は惨敗だったんだけど」


 こんなことを堂々と話せるなんてすごい。尊敬。

 しかも指導を受けたその日に、女の先輩をご飯に誘えるなんて誰にもできることじゃない。筋金入りのプレイボーイくんには、見習うべきところが多すぎる。


「はぁー……」


 あれ? ちょっと落ち込んでる?

 プレイボーイでも、実は心はピュアだったりするのかな。これは、励ますべきだろうか?


「打山くん……?」


「あぁ、悪い。断られ方が『君って邪知深そうだよね』だったから、ちょい凹んでるだけだ」


 とても共感してしまった。その先輩に。

 これまでに十人もの女の子と付き合ってきた彼を警戒するのは、当たり前だと思う。実際、顔はかっこいいと思うのに甚だ残念だ。同情していいのかわからないけど、見ていて可愛そうな気もするし、明るく励ますフリだけでもしておこうかな。


「わかりみが深いよ! 落ち込むよね、そういう時って!」


 なんとなく若者言葉を使ってみたけど、そこは打山くんによってスルーされてしまった。


「おう、ありがとな。お前はいいやつだ、暁」


 打山くんは、ポンと僕の肩に手を置くと笑った。


 彼に悪気はないのだろうけど、ちょっとだけ体裁が悪い。打山くんがメールとかで若者言葉っぽいものを連発してくるから僕も最近少し影響されてきたのだけど、まさかその本人に無視されるとは。悲しみが深い。


 ともかく、打山くんの話は一段落したみたいだし、今のことは早く忘れよう。


 気を取り直し、僕はビニール袋から菓子パンを一つ取り出してようやく食事にかかることができた。……はずだったのに。


「そういえば、暁。昨日、《AA》と一緒に帰ってただろ」


 何の脈絡もなく、打山くんがそんなことを尋ねてきた。

 僕は、一瞬にして凍った。パンの袋を開けかけた手が静止している。


「な……なんでそんなこと、知ってるの?」


 動揺を隠せず、吃りながら問い返す。


「重音の部室からさ、お前らが校門の前を歩いてんのが見えたんだよ。三階だったから初めは『ん?』って感じだったんだけど、あれは今思うと確かに暁とAAだった」


 まさか見られてたとは。しかも、よりにもよってこの人に。

 いや、見られた相手が打山くんだったというのは、不幸中の幸いだろうか?

 それよりも。


「打山くんって、まだ《AA》の正体が四十谷さんだと思ってるの?」


「もちろんだ。何から何までそっくりなんだぜ? 俺以外のやつもみんな噂してる。違うって主張するなら、証拠を提示してほしいものだな」


 本人だっていう証拠もあまりないと思うんだけど。前にも言ったように、偶然の一致だということも有り得るわけで。まあ、本人なんだけども。


 しかし昨日、必ず秘密を守ると約束したばかりなのだ。なんとか、綺音が《AA》だという事実を悟られないよう、取り繕う必要がある。

 それでも、真実をまるで虚偽の噂のように扱うのは、いかんせん複雑な気分だ。でもまあ、こればかりはやむを得ない。彼女との約束を遂行するためだ。


「四十谷さんは《AA》じゃないよ。実は昨日、訊いたんだ。そしたら、違うって」


「本人がそう言ったのか?」


「そう。似てるとは何度か言われたことがあるらしくて、本人も気にしてるみたいだったけど」


 彼はまだ腑に落ちないという目つきでこちらを見てくるが、やはり本当のことは言えない。彼女をがっかりさせたくない。


「ま、そういうことにしておくか。喋ってる時に毛先を弄る癖とか、人差し指を口許に当てる癖とか、かなり共通するとこあるな〜って思ってたんだけどなあ」


 すごい観察眼だ。そういうの、もっと他のことに役立てればいいのに。これもプレイボーイだから為せるワザなのだろうか。


「まあ、俺だってそこまで深く追求しないけどな。あいつ、他の女子と比べて絡みづらいし、あんま興味が湧かないんだよな」


 観察までしてたのに? それなら、興味がある人には何をするんだろう。ちょっと怖い。


 その時、


「何の話ししてたの?」


 突然、すぐ横から話しかけられたので、僕はバッと反射的にそちらを激しく振り向く。自分でも、首が九十度くらい曲がったんじゃないかと思うほど。


 目の前には、綺音が立っていた。

 いつの間にいたのか、全く気がつかなかった、という動揺のもと、つい彼女から目を背けてしまった。しかも今の会話、本人に聞かれていたら相当まずいのでは?


 しかし綺音は僕のそんな不安とは裏腹に、机の隅に何かをぽつんと置いた。十円玉だった。


「これ、昨日借りた分ね」


「あ……ありがとう」


 僕は幾分安堵し、丁重にその十円を受け取ると、自分の財布の中に仕舞う。


「今日は、二人で食べてるんだ?」


 それだけでは終わらず、綺音は、僕と打山くんを交互に見やりながら尋ねる。


「おう。そうだ、よかったらアスキー……四十谷も一緒にどうだ?」


 ちゃっかり彼女もお昼に誘おうとする打山くん。さすがプレイボーイ。というか、うっかり「アスキー・アート」って呼びそうになってるし……。


「ごめんね。今日、これから部室に行くの」


 綺音は小さく首を振り、そう断った。


 部室というのは、きっと軽音部のところだろう。それでも、休み時間でも開いていたりするのかな、という些細な疑問があったので、一応確認しておこう。


「部室って、軽音の?」


「うん。それに、なんだか気に入ってるんだよね、あそこ」


 綺音は顔をちょっとだけ紅潮させながら、言う。見ているだけでも、こっちにまで嬉しさが伝わってくるようだ。

 その言葉に水を差すように、打山くんが再び彼女に声をかける。


「お前も軽音部なのか? 重音の方がいいぞ、部員も多いし。入り直すって言うなら、歓迎するけど」


 それに対し、綺音も即座に返答した。


「遠慮しとく。だって、君たちの音楽とあたしの追求する音楽って、根本的に食い違ってるし。あたし、パンクとかメロコアとかいう話されても、わかんないもん」


「おい、メロコアを馬鹿にするな」


「してないよー」


 綺音は右手を軽く振ってみせると、風のように教室から出ていった。打山くんはそれに視線をやりながら「やっぱり絡みづれーな」などとぼやいているが、僕は彼女の後ろ姿を目で見送りながら、昨日の出来事を思い出していた。


 ――先輩たちを説得して、部活を立て直す。


 そう、綺音は力説していた。これから、その説得に行くつもりだろう。そのくらいの察しは僕にもついている。が、少々心配だ。多分、昨日のあの感じだと、あの先輩たちのやる気を引き出すのは至難の業だと思える。ベギー先輩なんか、「堅物」という言葉がしっくりくるくらい、かなり気難しそうな印象だった。


 これは、追いかけた方がいいかも……?

 いや、そもそも僕は入部自体を拒否っているんだ。今更、顔を見せるわけには……。だけど……。


「暁?」


 その声にハッとして前を向くと、打山くんが珍しく真面目な顔をして、僕を見つめていた。


「もしかしてお前、軽音部に入りたいんじゃないのか?」


 その言葉にややドキッとする。いや、別に入りたいわけじゃないから、そこまで焦ることはない……はずなんだ。


「あいつ、軽音部なんだよな? お前が昨日、あいつと一緒だったのって、もしかして軽音部の体験入部に行ってたからじゃないのか?」


 さすが、鋭い。あ、いや、普通に考えたらわかることか。


 とりあえず、何故、打山くんの「入りたいのか?」という質問に過剰に反応してしまったかだ。入部する気はさらさらないけど、妙にもやもやする。自分でもその原因がわからない。

 ただ、確信的なことといえば、気がかりだということだった。


「……ごめん、打山くん。僕も用事が」


 僕はパンを袋に戻し、バッグに押し込むと席を立った。


「どこ行くんだ?」


 不思議そうな目線で、打山くんが見上げてくる。


 そうだ、まだ言い訳を決めていなかった。


「あ、えーと……」


「そうか。アスキー・アートを追いかけるのか」


 見透かされた。まあ、そりゃわかるか。自分の軽率さが恨めしい。だが、ここまで来たからには引くに引けない。


「うん……ちょっと、気になるから。でも、すぐに戻ってくるよ」


 そう言い残して、僕も教室を後にする。


 打山くんは、それから何も言葉をかけてこなかった。それでも、特に考えることなく、今は綺音を追いかけることだけに傾倒することにした。昨日行ったから、もう場所は知っている。そこに向かって、ただ駆け足で彼女を追っていく。


 僕がやっと綺音に追いついたのは、軽音部の部室の目の前の廊下であった。



 扉を開けた綺音に続いて部室の中に踏み込むと、やはりというか、昨日の放課後と相変わらぬ風景がそこにあった。


 床にはお菓子の袋が散らかっているし、ブラウン管テレビの前で胡座をかいてゲームのコントローラーを握っているジュリエット先輩が真っ先に目につく。ベギー先輩も、今日も後ろの壁にもたれて読書している。

 心の中で、また嘆息してしまう。


「あ、ユキちゃん。おはよう!」


 ジュリエット先輩は綺音が来たことに気づくと、手を振った。しかも、昼休みなのに「おはよう」って……。やっぱり、どこかおかしい、この部活。


「あ、君も来てくれたんだ!」


 先輩はコントローラーを傍らに置くと、嬉しそうに今度は僕のところへ駆け寄ってくる。


「やっぱり、入りたいんだね?」


 そう言いながら、僕の頬を指でつんつんとつついてきた。かなり気に入られてるみたいだ。まあ、それはそれで少し嬉しい……のかな……?


「彼、また見学したいそうです」


 綺音が僕を手で示して、説明をする。


 別に今日は見学に来たわけじゃない。というより、どうして来てしまったんだろうか。


「えっ、見学だけ?」


 きょとんと目を向けてくるジュリエット先輩に対し、僕は頷く。


「はい」


「またまた〜。いいよ、部員は現在、絶賛募集中だからね〜」


 先輩は、眩いばかりのスマイルで話す。

 そのわりには、活動らしいことをしてるようには見えないんですが……。


 当惑している僕を余所に、彼女は読書中のベギー先輩の方を振り返った。


「ベギー。この子、やっぱり入りたいみたいだよ〜?」


「そんなこと言ってないです!」


 やっぱり来るべきではなかった、と若干後悔する。

 しかしジュリエット先輩の話を聞いても、ベギー先輩は興味なさそうな冷ややかな表情で、ただ僕に無言の視線を送ってくるだけだった。


 こんな人たちを、果たして綺音が一人で説得できるだろうか。

 入部する気にはまだなれないけど、ここまで彼女を追ってきたのだから、僕も説得を手伝うべきだろうか? こんな活動する気が全く感じられない先輩たちの心を開かせるのは、正直、綺音だけでは厳しい、と思う。


 僕も、どこまで力になれるかわからないけど、一応やれるだけやってみようかしら。

 と、迷いつつも臍を固めて、自らベギー先輩の方に歩み寄る。我ながら、すごい決断をしたものだ。それでも、怖いのは変わらないけど。


 ベギー先輩の前に立つと、相手を見下ろす形になってしまった。少々きまりが悪い気もするけど、ここに来た以上、ガツンと言わなければ。

 もう、こんな機会はこの先ないかもしれない。できるだけ、僕は綺音の役に立ちたいのだ。……だから。


「あの。どうして、活動しないんですか?」


 恐る恐る、機嫌を損なわない程度に声量を微調整しながら、尋ねてみる。


「昨日、言わなかったか?」


 早速、ごもっともな答えが返ってくる。その一言に、早くも心が萎縮してしまいそうになるが、ここで挫けてしまうと恥ずかしすぎる。現に、綺音も後ろから見ているのだ。


 活動したくない理由。それは重音部と喧嘩になりたくないからだということは、昨日ジュリエット先輩の話を聞いて知っている。僕も、打山くん以外の重音部員には苦手意識があるから、その気持ちはなんとなくは理解しているつもりだ。しかし、ずっと活動せずにいるのは、やはり勿体ない。その考えは今も変わっていなかった。


「あの。本当に、時間の無駄だと思いますよ、それ。少しでも活動した方が、その……もっと時間を有意義に使えると思います、よ、はい」


 緊張しているせいか、自分でも次第に何を言っているのかわからなくなる。


 一方、先輩の鋭い眼光は今もなお健在で、僕を睨みつけるように見上げている。無言というのも相俟って、威厳すらあった。昨日も感じたように、まさに蛇に睨まれた蛙って感じだ。我ながら、危ない綱渡りをしていると思う。


 長い沈黙が部屋を支配し、居た堪れなくなってきた頃、ベギー先輩がようやく口を開いた。


「別に、披露する場所もないからな」


 小声で呟く彼女のその言葉は、すでに諦観しきったような声色だった。


 これ以上、何を話しても無駄だということを悟った僕は、軽く頭を下げてその場を離れた。綺音には悪いと思ったが、誰が何か言ってどうこうというレベルじゃない。予想以上に頑固な先輩を前に、為す術がなかった。


 綺音の真横を通る際、何もできなくてごめん、と心の中だけで彼女に伝え、部屋を出た。


 これから、綺音はどうするつもりだろう。諦めず、あの二人を説得し続けるのだろうか。ジュリエット先輩はどうにか説き伏せられたとしても、ベギー先輩が思った以上に曲者だ。容易く、承服するとは到底思えない。


 案じながら廊下を歩いていると、後ろからこちらに向かって駆けてくる足音が聞こえ、それが止むのと同時に、声をかけられた。


「レンくん!」


 どこか幼く、甘く、あどけなさの残る声。そして、その呼び方。振り返ることなく、背後にいる相手を僕は認識した。


 後ろを向くと、視線の二メートルほど先に綺音の姿があった。彼女は重々しい足取りでさらに進み出て、僕の目の前で立ち止まった。僕も、彼女に正面を向ける。


「レンくん、先輩たちを説得するの、手伝おうとしてくれたんだよね。ありがとう」


「うん。でも、結局何もできなかった。ごめん」


 すると綺音は、首を大きく横に振った。


「そんなことないよ。ただ、お礼が言いたかったから。それに、私も君に訊かなきゃいけないこと、あったんだよね」


 僕は、彼女のその言葉の真意をなんとなく察したが、あまり答えたくはなかった。きっと、あのことだろう。


「知りたいの、君が軽音部に入りたくない理由」


 予想は当たっていた。正直、外れることを期待していたのだけど。


 そういえば、昨日はあれから、うやむやになってしまった。だから、この子は気にしていたのだと納得もできる。

 昨日は運良く話が逸れてしまったけど、今日はそういうことにもいかなそうだ。


 別に教えたくないわけじゃない。しかし、他人に話してもどうにもならないんじゃないかと思ってしまって、なかなか切り出せなかった。


「何か隠してるよね、絶対」


 綺音は疑う気満々だった。知らぬ間に、結構な至近距離まで詰め寄られている。これは……逃げられそうにない。


「どうして、言いたくないの?」


 じっと僕の顔を凝視してくる綺音。その顔は、もう数センチ先にまで迫っている。やがて、心臓が恥ずかしさのダンスを踊り始め、目を合わせるのも困難になりそうなほど、僕の鼓動は激しく打った。


「ち、近いんだけどっ!」


 綺音もやっと気がついたように「あっ」と声を上げて、数歩退いた。


「あたし、思ったんだけど……」


 そして、何事もなかったように言葉をつなぐ綺音。こっちはかなり動揺してるというのに、何故、彼女はそんなにも平気そうなんだろう。


「昨日、あたしの秘密、打ち明けたよね?」


「秘密? ……君が《アスキー・アート》だってこと?」


 激しかったあの鼓動は、だいぶ落ち着きを取り戻しつつあった。


 綺音はこくんと頷き、僕を強く見つめながら続ける。


「あたしが秘密を話したんだから、レンくんも自分の秘密を打ち明けるべきだと思うの。そうでなきゃ、不釣り合いでしょう?」


 確かに、その通りだ。しかし、まだ逡巡が残っているのも事実だった。かなりプライベートな、それでいて暗く、重い話。僕はこの話を、身内以外の人間にしたことはない。友達にも、知り合いにも、一切ない。目の前の同級生の子が、初めてということになる。

 それでも、彼女になら話してもいいかな、とも思えた。この苦悩を他人に話すことで少しは楽になれるなら、それもいいんじゃないか。……完全に他人事でもないような気もするから。


「妹が、歌手を目指してたんだ」


「妹さん?」


「そう。目指していた、っていう表現で大体察してくれると助かる。もう、妹はいないから」


 僕の言葉の意図を汲んだのか、一瞬、綺音の顔が強張った。その血色のいい頬が、徐々に青ざめていくのが目に見えてわかった。



 僕の妹――夢乃ゆめのは、人気ミュージシャン・千條ユキのアルバムを買ったことがきっかけで、独学でギターを始めた。シンガーソングライターを目指していて、オリジナル楽曲も制作し、毎日のように作曲活動に励み、一度も修練を怠らなかったのは、夢を見る姿勢が常人よりも遥かに上だったからに他ならない。


 夢乃は、どんどん自分の才能を開花させていった。僕なんか、とても追いつけないほどに。

 しかしそんな彼女にも、唯一、弱点らしきものがあった。歌詞を書くのが苦手だったのだ。だから、彼女が作った曲のほとんどの歌詞は僕が書いていた。


 僕も、別に作詞が得意というわけじゃなかったけど、何故か夢乃から「お兄ちゃんの歌詞には説得力がある!」とか言われて、重宝されていたみたいだった。


 妹の楽曲制作を手伝うことが、僕のささやかな楽しみでもあった。中学に上がっても部活はやってなかったし、帰宅後もあまりやることがなかったから、毎日のように詞を作っていた。

 夢乃が曲を書き、僕が歌詞を乗せる。こうして出来上がった曲を、二人でよく歌い合った。


 さらに夢乃は、自らが作った楽曲を歌い、それを録画・録音して動画サイトに投稿したりもしていた。「少しでも多くの人に私の歌を聴いてほしい」というのが、彼女が最も口にしていた願いだった。


 因みに、僕は彼女の動画には一切映らず、ただカメラを回すことだけに専念していた。ファンは決して多いとは言えなかったけど、夢乃はいつも楽しそうに笑っていた。僕もそれを見るのが嬉しかった。


 中学校に上がってからは部活にこそ入っていなかったものの、勉学と両立しなければならず、大変だということを夢乃はよく漏らしていた。それでも、彼女は勉強も僕より遥かにできて、常に学年トップの好成績を収めていた。


 僕は、そんな妹を心から尊敬していた。もちろん、今でも。


 ところが、僕が高校受験に本腰を入れるようになると、作詞を全く手伝わなくなってしまった。それ以来、妹は一人で楽曲作りをするようになっていった。路上ライブを本格的に始めたのも、その頃だ。


 僕は自分の勉強のことで手一杯になり、夢乃とはあまり話さなくなってしまった。彼女が作詞を求めてきても、全て断っていた。あの頃の僕は、第一志望に合格することに必死で、それどころじゃない、と思っていた。今振り返ると、ひどい兄だと思う。


 それでもある日、夢乃が僕の部屋に来た。断られることを知っていて、詞を書いてほしいと頼んできたのだ。


「これで最後にするから。お兄ちゃんの受験が終わるまで、曲の話はしないから」


 そう、必死に懇願してきた。

 しかし、僕は何も考えずに断ってしまった。冷たく、突き放すようなことを言ってしまったのだ。まさかそれが、妹への最後の言葉になるなんて思わなかったから。


 その日、夢乃はいつものように路上ライブに出かけていったきり、帰ってこなかった。帰宅途中に交通事故に遭ったのだ。僕が塾を早退して病院へ駆けつけた時には、夢乃はすでに亡くなっていた。


 何故、あんなことを言ってしまったのだろう。僕も、夢乃が作ってくれた歌を歌うのが好きだった、はずなのに……。何故、もっと彼女のことを慮ってあげられなかったのだろう。

 今も、これからも、その後悔は消えることはないだろう。



「だから、歌いたくないんだね……」


 今まで無言で聞いてくれていた綺音が、そっと口を開く。押し殺したようなその声は、少し震えていた。


「そうだよ。自分だけ歌っていたら、あの子に申し訳ないから。だからごめん、あの部活には入れないんだ」


 綺音は俯いたまま、何も返してこなかった。こんな話を聞かされるなんて、思ってもいなかったことだろう。自分でもこんなにすらすらと言葉が出てきたのは、少し意外だった。でも、これでよかったとさえ思っている。


 これで、きれいさっぱり、彼女も諦めるに違いない。そんな期待が、心のどこかで息吹いていた。

 しかし。綺音もまた、一筋縄ではいかない人物だということを、この時に改めて悟らされることになった。


「君が入りたくない理由はわかったよ。だけど、あたし、そんなことじゃ諦めたくない。君が歌えないのは、自分の殻の中に閉じこもっているからだよ」


 綺音は俯いていた顔をきりっと上げ、さらに言葉を続けた。


「あたし、君の妹さんのことはよく知らないけど……もしも、もしもね、あたしがその子だったら、自分の分まで歌ってほしい……って思うかな。あたしが歌えない分、他の誰かに歌ってほしいって。レンくんも……そう思わないかな……?」


 私の考え方、間違ってる? というふうな視線で問いかけてくる綺音に、何と返していいか見当もつかない。


「妹さんも、きっとそう思うはずだよ」


 と、彼女は最後に付け加えた。


 僕の心は再び、強風に翻弄される柳のように揺らぎ始める。歌うのは嫌いじゃない。けれども、夢乃のことを考えると――。


 わからない。自分でもどうしたいのか。そして、どうするのが正解なのか。


 僕の唯一の取り柄は歌だ。運動も、楽器も全くできない。しかし、歌だけはそれなりに得意だと自負しているのだ。夢乃も、よく僕の歌声を褒めてくれた。それが嬉しかった。だから、僕はあの子のために歌ってきた。だが彼女がいない今、歌うことに意味なんてあるのだろうか……。


「もう一度言うね。君には才能がある。軽音部に入って、歌だけでも極めてみない? 先輩たちは、あたしが絶対になんとかしてみせるから!」


 綺音は強気にそう言って、また一歩、僕に詰め寄る。


 夢乃はもういないが、もしも今彼女がここにいたら、僕に歌ってほしいと言うだろうか? 夢乃はいい子だから、そう言うかもしれない。いや、きっとそう言うだろう。


 いつまでも罪悪感が消えないでいたのは、彼女の死を心のどこかで否定していたからだと、今なら思える。そのことに気づくと、真っ先に思い浮かんだのはこんな言葉だった。


 ――夢乃のために、もう一度、歌いたい。


「僕、入るよ」


「え、ホント?」


 綺音は、今度は意外そうに目を見開いた。嬉しさ半分、戸惑い半分といった表情。

 先程まではあんなに必死に説得してきたのに、最後まで僕が首を縦に振らないとでも思っていたのかと、逆にこちらが戸惑ってしまいそうだ。それでも、まあ、いいや。この子のおかげで、決心がついたのだから。


「いつまでも引きずってても、前に進めないと思うし。気づかせてくれて、ありがとう」


 僕がそう感謝の気持ちを伝えると、綺音は首を横に振った。


「お礼を言うのはこっちだよ。じゃあ、ボーカルはレンくんに任せるね」


「君は、歌わないの?」


「まだわからない。そうなった場合、ギターも兼任ってことになると思うしね」


 綺音はやりきったというように伸びをしながら、清々しそうな顔で笑っていた。夢乃もよくあんな笑顔を見せてくれたのを思い出す。するとまた感傷的になりそうだったので、それ以上は思い出さないことにした。


 まさか、こんな形で軽音部に入ることになるなんて思わなかった。でも、さっきまでの暗鬱な心模様が嘘のように、口許が緩んでるのが自分でもわかった。それは単に、これからのことに期待していたからかもしれない。


 ――夢乃も許してくれるよね、きっと。

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