「アスキー・アート」
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「なあ、俺らと一緒にバンドやらないか?」
クラスメイトの打山くんにそう言われ、僕は眉を上げた。まさか誰もいなくなった教室で、開口一番そんな話をされるなんて思わなかった。
「頼む、手を貸してくれ!」
彼は両手を顔の前ですり合わせ、神仏にでも祈るように懇願してくるが、僕には何のことかさっぱりわからない。
僕の席は、窓際の列の前から二番目。一方、彼はその一つ後ろの席だった。
打山雄翔。入学して間もない頃、彼の方から話しかけてきたことで仲良くなった。初対面の人にも気さくに話しかけるタイプのようで、中学以来の知り合いがクラスに一人もいない僕にとっては有り難い存在でもあった。
見た目もさっぱりしていて、髪は短く、ワックスで立たせた前髪がどことなく運動部のような印象を与えているが、どうやらそうではないみたいだ。打山くんも僕と同じくまだ部活には入っていず、いつも途中まで一緒に帰宅している。
しかし、入学から二週間程が経った日。休み時間に突然、「放課後、大事な話があるから教室に残っててくれ」と言ってきたのだ。最初、僕はその話が何かわからなかったが、特に用事もないので一応待っておくことにした。それで残ってたわけだけど、思いもよらぬ発言をされたので少し動揺してしまった。
そして今、僕らは向かい合って座り、彼の机を隔てて話をしているというわけだ。
「ボーカルだけ足りないんだ。暁、やってくれないか?」
「脈絡なさすぎて何のことかわからないんだけど……打山くん、バンドやってるの?」
「おう、悪い。実はさ、俺、重音部に入りたいんだよ」
「重音部?」
「そうそう。新歓の時に紹介あっただろ?」
新歓――新入生歓迎会は、文字通り一年生を歓迎するための学校行事だ。
その部活動紹介コーナーにおいて、校内の各部活動に所属する先輩方が体育館の舞台に登壇し、「うちはこんな活動をしています!」といった具合に説明ないし実技での紹介があった。
演劇部ならショートコント風の演劇、吹奏楽部なら生演奏を聴かせてくれた。中でも、特に斬新に思ったのは「ロボット部」という部活だった。ステージ上に登場したのは生徒ではなく、数台のコードレス・メカロボットだったのだ。それらは何故か今や時代錯誤とも言える缶蹴りを披露し、僕を含め新入生達から激烈な拍手喝采を受けていた。僕は、工業高校でもないのに奇怪な部活だな、というフワッとした感想を抱くと同時に、ちょっぴり興味も湧いた。他に合いそうな部活がなかったら、入部してみようかな……みたいな漠然としたことも考えていた。
けれども、直後に出てきた重音部もその前の部活紹介の記憶を全て掻き消すほど、全校生徒を前に楽器をかき鳴らし、場内を大きく沸かせていた。ロックにロックを重ねたような、爆音にも似た強烈なサウンド。迫真の演奏、ザ・ハードロック。彼らもまた、多くの新入生達の記憶に確かな爪痕を残したに違いない。いや、新入生だけではなく、在校生からも多くの声援が飛んでいた。
しかし、まあ、確かにカッコよくはあったけど、僕には少し苦手に思えた。どちらかというと、僕はもっとキャッチーな曲調が好きなのだ。その方が好感を持てるし、共感もできる。いかにもヘッドバンキングを煽るような過激な演奏をする彼らの音楽性とは、少々合わない気がした。
それに対して、打山くんは重音部のあのパフォーマンスに魅了され、どうしても入部したいらしかった。
「あぁ、カッコよかったよなぁ。お前もそう思うだろ?」
「……まあ、確かにね。ハードメタル! って感じで」
「そうだ、わかってるじゃないか。果てのない疾走感! あれこそ、ロックの醍醐味だよな!」
打山くんはつんつんと逆立てた前髪を指で弄りながら、得意気に言う。
と思うと、急に神妙な顔をして僕を見つめる。
「それでさ……昨日、仲間を誘って入部届持っていったんだよ。そしたら、なんか入部条件がすげー厳しいらしくてさ。客を集めて、中庭でライブをしろって言われたんだ」
今の発言で嫌な予感がした。多分、そういうことだよね。凡そのことは察知してるけど、確認のために一応訊いてみる。
「その、ボーカルを……僕にやれってこと?」
「そうだ! 暁、やってくれるだろう?」
案の定、そのように頼んできた。頼む、というよりは僕が引き受ける前提で話しているようなニュアンスを含んでいるのが変に気になる。
「いや、待って。無理だよ、大勢の前で歌うなんて……」
即拒否。自信がない。
「大勢って言ってもなぁ……。今、仲いいやつに声かけてるところだけど、大きく推算しても十人前後ってとこだろ。場合によっては五、六人だし」
打山くんは淡々と説明するが、それでも気が乗らなかった。
「ごめん。僕はちょっと、遠慮してもいいかな」
「なんだ、歌いたくない理由でもあるのか?」
気に食わないのか、打山くんが眉をひそめながら問いかけてくるので、僕は少し逡巡しつつ答える。
「あ、いや……。歌うの、嫌いなんだ」
しかし、打山くんの目はますます怪訝そうになるばかりだ。
「嘘だろ。今日の音楽の時間、ちゃんと聞いてたんだからな。お前、男子の中では抜きん出て上手かったぞ」
ここでようやく、彼がバンドに誘ってきた理由を悟った。
今日の音楽の授業では、先生が同じフレーズを一人ずつ全員に歌わせた。それで僕も自分の番が来た時に歌ったのだけれど、打山くんはどうもその際に目をつけたらしい。
「あ、うん。あれはそういう授業だから歌っただけで、本当は歌うの好きじゃないんだ」
「マジか。もったいないと思うけどな〜」
打山くんは呟くと、両手を後頭部に当てて組み、上体を仰け反らせながら、天井に向かって口笛を吹いていた。
実は、理由ならちゃんとある。僕が歌いたくない――歌うのが嫌になった理由が。でもそれを彼に打ち明けたところで、どうにもならないことは十全承知だ。
打山くんが再び体を起こすと、彼と再び目が合った。
「じゃあ、重音部に入るか?」
「話、聞いてた?」
しつこくお願いしてくる打山くんに、いよいよ嫌気が差してくる。……友達だけど。
「歌いたくないなら、楽器だけでもやったらどうだ? ぜってー楽しいって! ロックはいいぞ。例えば、メロコアとか。一度聴くと虜になるからな。俺もロックに感化されてギター始めたもん。色々聴いてるけど……そうだな、メロコアとか!」
どれだけメロコア推してくるんだ、この人。いや、でも僕は楽器も習ったことがないし、無理だろう。妹にちょっとだけギターの弾き方を教わったことがあるけど、あんまり、というか全然上達しなかった。
「僕、何も弾けないんだけど……」
「そこは練習すればいいだろ。まあ、初心者は多少上手くなってからじゃないと入部できないらしいけど」
だったら、尚さら無理じゃないか。
打山くんの話を聞きながら、僕は歓迎会の時に見た重音部の演奏を思い出していた。確かにあれは客観的に見てもカッコよかったと思う。耳を劈くようなエレキギターの音色、ドラムの激しいリズム感。打山くんの語るように、疾走感が半端じゃなかった。あんなふうに弾けたらどんなにいいか、と誰もが思ったことだろう。
まあ、素晴らしかったことは共感するけど、やや気になることがある。僕は演奏を観ている間、ずっとある疑問を抱いていたのだ。何故、この学校には軽音部が存在しないのだろう、と。普通、バンド系の部活は「軽音部」という名前がついていることが多いイメージだけど、部活紹介では「軽音部」という言葉は聞かなかった。
この学校には「重音部」しかないのだろうか?
「ちょっと質問なんだけど、どうして重音部なの? ああいう部活は大概、軽音部っていうと思うんだけど……」
打山くんなら何か知っているかも、と期待して尋ねてみると、やはり正解だったようで彼は即座に答えてくれた。
「軽音部なら、一応あるらしいぞ。重音の先輩から聞いた話だけどな」
やっぱり、軽音部はあったのか。それにしても、なんで紹介がなかったんだろう?
僕が新たな疑問に頭を悩ませていると、打山くんは続けて、
「ここからは完全に伝聞なんだが、聞くか?」
僕は無意識のうちに頷いていた。
「重音部は去年、現在の二年生を中心に設立されたそうだ。それまでこの学校には軽音部しかなかったけど、重音ができてからは特に目立った活動はしなくなったらしい」
「だけど、どうして同じような部活を作ったんだろう……」
「それには、音楽観の齟齬が関係してるみたいだな」
「音楽観?」
聞き慣れない言葉に、僕は首を傾げる。そんな僕の疑念を読み取ってか、打山くんはさらに説明を加えた。
「音楽観っていうのは音楽の捉え方、または感じ方のことだ。うちの軽音部の音楽はロックっていうより、どっちかっていうとポップス寄りだったらしい。確か、当時の軽音の部長の意向だとかなんとか。それに反発した連中が去年の新入生の中にはいたみたいでさ、何人かで申請を出したところ、通ったようだな」
そこで、やっと理解が訪れる。なるほど、その人たちはロックがやりたかったがために軽音部には入部せず、重音部という新しい部活を作ったわけだ。
概ね把握しつつも、しかしまだ疑問というか、もやもやは少し残っていた。
「でも、それなら軽音部に入って、自分達がやりたい音楽を先輩達に伝えたらよかったんじゃないかな」
「入部するのも嫌だったんだろうな。ポップスしかやらないやつらに、本物の音楽を見せつけてやろう! って感じで立ち上げたんだと思うし。ロック好きにはよくいるよ」
「よくいるの……?」
なんか、そういう人達とはあまり関わりたくはないかな。怖そうだし。信念が強すぎるのもどうかと思う。
次に、打山くんがこんなことを言い出した。
「でさ、これも重音の先輩から聞いた話だから確証はないんだけど、軽音部ってかなり曲者の集まりらしいぞ? なんでも、陰で《トラブルサム・セット》って呼ばれてるらしい」
「トラブルサム・セット……?」
オウム返しのように、僕は問い返す。きっと、すごく怪訝そうな目になってるだろう。
「直訳すると、《厄介な連中》って意味になる。実際に会ったことはないからよく知らないが、一癖も二癖もあるやつらということは間違いない、というのが大方の見解」
《トラブルサム・セット》――その響きだけでも、さながらバンド名のようだ。一体、どんな人達なのだろう。重音部より、僕はむしろそちらの方に興味が出てきた。
「まぁ、ロックとポップスはまず本質が違うからな。重音部と軽音部は犬猿の仲だってさ」
「そうなんだ……。けど、価値観の違いで啀み合うのは、ちょっと違うような……」
何が好きで、何が嫌いかは人それぞれだと思うし。第一、そんなことで喧嘩してても仕方がないとも思える。
「そうだな。これは俺の所見なんだが、ロック好きには自己主張が激しいやつが多い印象がある。ロックはもっとこう……神聖で、荘厳であるべきなんだ。だから、最近のポップミュージックを音楽とは認めたくないんだろうな」
と、打山くん。ところで、彼は日頃、どんな曲を聴いているのだろう。そちらにも少し興味が湧く。
「打山くんの好きな音楽って、どういうの?」
「まぁ、色々あるけど、近年の邦楽ロックは全体的に抽象化されすぎてて、昔ほどの勢いは感じられないんだよなあ。だから、最近は洋楽ばかり聴いてる」
打山くんはそれから、今一番ハマっている海外のバンドの名前を挙げ、ロックへの熱い思いを語ってくれた。しかし、その話についていくだけで精一杯だった。僕は基本的に邦楽ばかり聴くから、自分が振った話題とはいえ、洋楽の話をされると少しばかり腰が引けてしまう。
「僕は……あまり洋楽は知らないかな。英語、よくわからないし……」
これが、正直な感想。
「ほほう、ひょっとして、お前は曲よりも歌詞を重視するタイプか?」
「う……うん。曲も大事だと思うけど、歌詞に深みがあるとよりいいなぁって」
本当のことを話しただけだけれど、打山くんは何故か白けたような視線を送ってくる。僕、何か気に障ることでも言ったのかな?
「なるほどなるほど。これで、俺とお前の音楽観には確執が生じたわけだ。俺は曲さえかっこよかったらいいと思ってる。歌詞に意味なんかなくていい。いや、むしろない方がいいんだ。余計なことを考えず、魂だけで感じる。歌詞は音楽の構成要素の一部に過ぎない。人間でいうと、服みたいなものだ。外見がちょっと悪くても、中身がよければ惹かれたりするだろ?」
「そういうものなのかなぁ……」
というより、例えが逆のような気もするのだけれど。
「そう言う暁は、どうなんだよ? 好きなアーティストとかいるだろ?」
「あ、うん。いるにはいるけど……」
「じゃあ、今度はお前の番だ。暁にとっての音楽観を俺にたっぷり聞かせてくれよ」
いや、急にそんなことを言われても……。僕は特段、音楽に詳しいわけじゃない。妹がシンガーソングライターを目指していたというくらいで、人に語れるくらいの知識も持論もあまり持ち合わせてはいない。それでも、もちろん好きな歌手くらいはいる。
妹が熱狂的なファンで、僕もその影響を受け、小学校の頃からずっと聴いていたのだ。
「……千條、ユキとか」
「あ〜、確か今、無期限で活動休止してんだっけ」
打山くんも知ってくれていたようで、安堵する。正直なところ、「誰それ?」みたいな反応をされるんじゃないかと不安だったけど、国内のミュージシャンではわりと著名な方だし、邦楽をあまり聴かない彼が知っていても何も不思議じゃない。
「デビュー当時は、けっこうパンクロック系の曲書いてたけど、休止する直前はちょっと丸くなってたよなぁ」
しかも、意外に詳しかった! 予想よりも反応がよかったことに、些か嬉しくなる。
と、思いきや……。
「そういうわけでだな。明日のライブなんだが……」
「どういうわけ!?」
唐突に話を戻されたので、一瞬何のことだかわからなかった。しかも、強引すぎる……。
「明日の朝、中庭に七時半集合な」
「明日だったの!?」
不意打ちすぎて戸惑うレベルだ。うまい具合に話が逸れていってるな、って思ってたのに!
「あ、あのぉ……。今、お互いの好きな音楽について語り合ってたんだよね?」
「ちょっと話が脇道に逸れただけだ」
僕の言葉を遮るように、打山くんは悠然と答えた。
内心で嘆息。このまま話題がライブに戻ることなく、有耶無耶になることを僅かながら期待していた僕も僕だけど。
それにしても、明日って言われると余計に引き受け難くなる。急すぎるよ。
打山くんは続けて、
「それでだな、ライブで演る曲を入れたブツをお前に……」
と言いながら、机の横に引っかけてあるバッグから何かを取り出そうとするので、僕はそれを咄嗟に言葉で止めた。
「待って。僕、まだ承諾してないよね?」
あと、「ブツ」っていう表現、不穏な匂いしかしない。普通にCDって言えばいいのに。
だが、打山くんは表情ひとつ変えることなく話す。
「いや、これはもう決定事項だぞ。明日、というか今から、お前も正式に我ら《Unknowns》のメンバーだ!」
意味がわからない。たぶん、《Unknowns》というのはバンド名だと思うけど、響きがかっこいいからとか、そんな理由でつけたんだろう。
……それに、もうバンド名なんて考えてたのか。この用意のよさは何なのだろう。
「どうして、君はそんなに拒否反応を示すんだね」
打山くんが腕を組みながら、改まった物言いで尋ねてくる。どうして、って訊かれると少し答えづらい。
僕がバンドに加わりたくない理由。それは、あの子の存在が常に脳裏にあるからだ。僕だけが人前で歌っていていいのだろうか? 歌えば、自分の歌声がある種の痛みに変わってしまうような気がする。だから、歌わない。……歌えないのだ。
閉口している僕に対し、打山くんが執拗に問いかける。
「やっぱり、どうしても言いたくない理由でもあんのか?」
なんとかそれっぽい理由になり得る口実を探さないと。僕は頭をフル回転させてそれを探ると、パッとよさそうな言い訳を閃いた。
「ボーカルって確か、ライブとかではけっこう体力使うよね。僕、体力ないから他の人にやってもらった方がいいんじゃないかな」
「う〜む、尤もかもしれん」
打山くんは俯きながら、唸る。悩んでいるようだ。そして数秒後、再び顔を上げると、
「確かに。お前の体力のなさ、もとい運動能力はある意味で驚異的だよな。短距離走のタイムなんて、一二秒〇八だもんな!」
「うわわわわ!」
僕は慌てて、両手を胸の前でバタバタと振る。授業が始まって一週目の体育では体力測定が行われたが、僕のもらった評価はA〜Eのうち、握力以外すべてEだったのだ。……握力だけは何故かBだったけど。
運動音痴は昔からのことで、よくクラスの人達からはからかわれたりしていた。打山くんもそれを揶揄するように、にやりと笑い、
「長距離はもっと悲惨だったなぁ、タイムだって覚えているぞ。確か……」
と、わざとらしく言い続ける。
咄嗟に僕は「ああああ!」と教室中に響くぐらいの声を上げて、全力で彼の言葉を阻止した。そして、またあらぬ方向に逸れていった話題に再び軌道修正をかけるべく、
「ほ、他に上手い人はいないの?」
と、なるべく自然な感じを装いながら尋ねた。彼も気づいたように、
「お、おう……そうだったな」
そう言って、顎に手を添えて考える姿勢に入る。
「他にこのクラスで上手いやつと言えば……四十谷だろう」
「四十谷さん?」
打山くんが話すのを聞いて、僕は思わず後ろを振り返った。僕の一つ前の席、今はもちろん空席になっている。
いつも、僕の前で授業を受けている――四十谷綺音。
「四十谷さんは、歌上手だよね」
僕は打山くんの方に向き直った。今日の音楽の授業では彼女も無論歌ったが、彼の言うように確かに上手かった。たぶん、誰が見てもそう思ったことだろう。
「そうだよなぁ、女子……いや、クラスの中でもダントツで一番だったからな」
「僕も、ちょっとびっくりした。こんなに上手い人がいるんだなぁ……って」
「しかも、苗字も珍しいしな。よんじゅうたに、って書くだろ?」
「うん。最初に見た時、どう読むんだろうって思ったよ」
すると、打山くんが急に難しい表情になる。何があったんだろう。
「どうしたの?」
「あ……いや。ちょっと、気になることがあるんだよな……」
やや言いにくそうに、そう話す打山くん。
それがますます気にかかり、尋ねずにはいられない。四十谷さんがどうかしたのだろうか。
「……気になること?」
打山くんは頷き、訥々とした口調で問い返してきた。
「お前、《AA》って知ってるか?」
アスキー・アート……?
聞いたことはある。ネットスラングの一種だったような気がするけど、それが四十谷さんの話とどう結びつくというのだろう。
「それって、文字とかだけを使って絵を描くことだっけ?」
「まあ、普通はそう思うよな。でも、俺の言った《AA》はまた別モンだ」
「……?」
僕は首を傾げる。今、僕の頭上にはクエスチョンマークがたくさん浮かんでいるだろう。
僕の記憶が正しければ、「アスキー・アート」とはインターネット上で記号や文字などを駆使して作成する、イラストのようなものだったはずだ。それじゃないとすると、彼の言う《アスキー・アート》とは一体?
「簡単に説明するとだな、主に動画サイトを拠点に活動するソロ・ミュージシャンだ。去年の後半ぐらいから人気が急上昇。動画のフォロワーは今やなんと百万人! 年内デビューも確実視されてるみたいだし、俺らの世代では知らないやつの方が少数派だぞ」
そう言われても、僕はそういうものには疎いからあまりピンと来ない。名前だって今初めて聞いたくらいだし、それよりもなんでそんな変な名前にしたのか、という方が気になる。グループ名ならまだしも、ソロでそんな名前にする意図がよく理解できない。
様々な疑問が頭に浮かんだが、とりあえず打山くんが何故そんなことを僕に尋ねてくるのかを聞いておかないと。
「その、《AA》っていう人がどうかしたの?」
「……ああ。実は四十谷こそが、《AA》の正体なんじゃないかって思ってな」
きょとん、と目を丸くする僕に、さらに打山くんは畳みかけるように話す。
「《AA》は顔出しはしてなくてな、肩から上までは動画の中に収まっていないんだ。【弾いてみた動画】ではよくある撮り方だよ」
「でも、顔がわからないんじゃ、その人が四十谷さんだってこともわからなくない?」
「一般論で言えばな。けど、歌声……っていうか、声質が全く同じに聞こえるんだ」
それで、彼は四十谷さんが《AA》なんじゃないかと疑っているらしい。しかし、たまたま声が似てるだけかもしれないし、どっちかと言えばそっちの可能性の方が高いんじゃないかな。
それでもなお、打山くんの顔は至って真剣だ。
僕はその人の動画を見たことがないから、何とも答えられないけど、本当にそんな有名人がこの高校にいるとなると、それはそれでちょっと妙に期待してしまう。
いや、ドラマとかならありがちなシチュエーションではある。しかし、現実にそんなことが起こるものだろうか?
「それ、似てるだけじゃないかな」
たぶん、これが正解だと思う。僕としては有名な子と同じクラスになって、しかもお近づきになれるなら願ってもない話だけど。まあ、そのためにはその人のことをよく知らなくちゃとも思うけど。
「実は、俺もそう思ってな。《AA》の動画を全部チェックして、学校でも四十谷を後ろから観察してたんだよ。そしたら、二人に共通する仕草とかがわかってきてさー。例えば、たまに前髪を触るとか……」
そこまでして調べたんだ……。僕が思ってる以上に好奇心が強いみたいだ。気づかれて誤解されたりしなかったのかな。もうやめた方がいいよ、と心の中だけで忠告しておく。
だけど、それだけでは《AA》と四十谷さんが同一人物だということまではわからないとも思える。
「やっぱり、ただの偶然じゃない?」
「いや、しかし声質といい、けっこう似てるぞ。一応ネットでも調べてみたんだが、AAって今年から高校に入学したみたいだしな。だから、俺らと同学年ってことになる」
打山くんはそう言って譲らない。それならば、と僕も一つの案を出す。
「そんなに気になってるなら、いっそ本人に訊いてみたら?」
「うーむ……しかしほんとにあいつが《AA》だった場合、たぶん教えてくれないだろう」
難しい表情を見せる打山くんを不思議に思いつつ、
「……何か、あるの?」
と恐る恐る質問してみたところ、彼は話し出した。
「うちの学校、芸能活動は原則禁止みたいなんだ。もし学校側にバレたら、最悪の場合、退学まであり得る。噂によると、《AA》はすでにインディーズレーベルと契約していて、プロデューサーまでついてるって話だ」
「プ、プロデューサー……?」
プロデューサーって、あのプロデューサー? 編曲したり、アレンジしたりしてくれる人のこと? メジャーデビューしてる人ならともかく、インディーズの人についてるっていう話はこれまでに聞いたことがない。
次に、打山くんは両手を天井に掲げて伸びをしながら、こんなことを言い出すのだった。
「でもまあ、俺に言わせるとちょっと近寄りがたいんだよなぁ……」
「それ、四十谷さんのこと?」
「あぁ。今まで色んな種類の女子を見てきたけど、初めて見るタイプっつーか……なんていうんだろ、独特なオーラ出てるんだよなあ。絡みにくい感じ」
気になる発言だ。特に前半部分。これは、もしや……!
「もっと言うと、あんまり付き合いたくないタイプかな」
この一言で、僕の予感はさらなる明確なものに昇華された。
「……打山くん、彼女いるの?」
「今はいないが、中学の時は十人くらいと付き合ったかな」
やはり、プレイボーイだ。僕の予想は当たっていた。それこそ、テレビの中にだけ実在する人だと思ってたけど、こんな身近にいたなんてある意味で感動ものだ。それにしても、後の方に付き合った人は知らなかったのかな? それまでに彼が何人もの女の子と交際したって知ってたら、普通は付き合わないと思うんだけど……。
「それはそうと、《Unknowns》は男子だけのグループだ。というわけで、ボーカルはやはり暁、お前に頼みたい。お前しかいないんだ、明日のライブを成功させるために、頼むよ!」
打山くんはまた強引に話を引き戻すと、僕の肩に両手を置き、哀願するように頭を下げる。どうやら、もう逃げ道は封鎖されたみたいだ。困った。
打山くん曰く、例のバンドは男子だけのバンドだから、四十谷さんを誘うことはできないという。僕の料簡では、男ばかりのグループでもたまに女の人が一人だけ混ざってたりするし、そういう編成もアリだと思うのだけれど。
それに、四十谷さんの方が僕なんかよりよっぽど音楽を愛していそうだ。
あの日、僕は妹の幻影を見たような気がした。雰囲気がどことなく似ていて、そのおかげで彼女の風変わりな名前もすぐに覚えられた。
ちょうど二週間くらい前の、この教室で。