借りたる氷
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
つぶらやは、人にものを借りた経験ってどれくらいある?
お前、たいてい人にものを貸す側だった記憶があるぜ。学校じゃ毎日、全教科の教科書持ってきてるって豪語してたしな。
俺か? 昔は人のものをよく借りていたわ。最初のうちは後ろめたさもあったからな。自分でも用意をしていたんだが、何度も重ねていくと、この方法があまりに楽ちんだと気づくんだわ。
ちゃんと借りられるアテがあれば、準備っていう煩わしい時間を、別のことにあてられる。この心地よさにはまっちまうと、どうにも抜けられなくなっちまうのさ。
ずるずる楽なほうへ流れていって、自己中になっていってよ。そのアテがアテにならなくなったとたん、ぶん殴りてえ衝動に駆られる。どうしてちゃんと用意してねえんだ! って具合に、棚上げもいいとこだよな。
でも、そいつに懲りるときがとうとう来ちまったんだ。ちょこっとだけ、痛い目を見ることがあってな。
――ん? そのときのこと、聞いてみたい?
お前なら、そういうとは思っていたがな。ま、いいだろ。
借りる人は何人も用意し、ひとりあたりの間隔を空けるべし。俺が自分なりに学んだ定石だ。
ひとりから借り続けるっていうのは、さすがにうっとおしがられて、仮に持っていたとしても貸してくれなくなる。貸す奴からみれば、あくまで「たま〜にやってくる相手」って認識レベルにとどめないといけない。
幸いなことに、俺はそれなりに人脈があったようだ。男女、クラスの別なく、借りられるグループを作ることができた。代わりばんこといっても、俺自身もきっちり準備する日を作らないと顰蹙を買う。
せいぜい三日に一度。空ける月ならば、それこそ半月に一度くらいの頻度。うまく借りられなかったのは、せいぜい3割くらいの確率。先生にお小言も食らったが、やっぱりやめられなかった。
自分にとっての時間と心の余裕を、一瞬でも多く用意したい。そんな気持ちが、胸のずっと奥の方に、こびりついていたんだ。
そんなある日のこと。
俺は隣のクラスの女の子から、国語の教科書を借りる。
個人的、借り物番付の中で彼女はかなりの上位に位置していた。彼女のクラスは俺のクラスより、ちょこっと進みが早くてな。彼女は丁寧に、教科書へポイントを書きこみしているわけよ。
そして、俺と彼女のクラスは国語を見ている先生が同じと来ている。後は分かるな?
予習ばっちりの教科書を抱えたまま、俺は授業に臨めるというわけよ。いわば解答本完備状態。
先生は俺の教科書に書かれていることを、トレースする授業を展開するってわけだ。説明のある個所を追いかけてさえいれば、当てられて恥をかくこともなし。「ちょろい時間だぜ」と、俺はほおづえつきながら、ページを開いていた。
ところがだ。その日の彼女の教科書は、べらぼうに読みづらい。
書き込みがごちゃごちゃしているわけじゃないんだ。こうさ、集中して文を見ようとすると、一瞬だけピントが合うんだが、すぐにぼやけていっちまうんだ。本文も書きこみも、インクがにじんだシミのようにしか見えない。
仮性近視か? と教科書から目をはずす。時計、板書、掲示物、いずれも視認に問題なし。
教科書だけだ。教科書の紙面に目を移すと、とたんに俺の目は使い物にならなくなる。
一度、クラスで眼鏡のかけ合いが流行ったときに、誰かの眼鏡をかけさせてもらったが、あの景色にそっくりだ。いくら目をこすっても、この状態は良くならなかった。
先生の話はうわの空で聞いていたし、あてられたらやばかったな。だが、どうにかその時間をしのぎ、俺は休み時間に彼女へ教科書を返しに行く。
あの奇妙な視界に関しては、話さなかったな。あれはたまたまだと、この時は思っていたからな。
でも、次の時間から、俺の目はどんどんぼやける時間が長くなっていく。
あの時は見ることに問題がなかった教室の数々が、集中してみないと、輪郭がはっきりしなくなる。これまでの感覚がしみついているから、触ったりよけたりすることは、どうにかできた。
だがそれよりも問題なのは、突然、目の前に現れる壁だ。
歩き、走りを問わず唐突に現れるそれに、俺は不意打ちで頭をぶつけてしまう。
どうやら周りの連中には見えていないらしく、急に額を押さえて立ち止まる俺を心配してくる。
しかもその壁、めちゃくちゃ冷たい。ぶつかってから俺がよろめくまでのわずかな間で、氷の針が一本、頭蓋骨の中にまで刺さったかのような痛みが走る。
どうも俺がぶつかる壁は、氷でできているようだった。それも透き通っている身体を持っている。俺の頭を冷やさせるその体の奥には、何か黒ずんだものが映るが、少し目を離したすきに消えてしまうんだ。
――あいつにはめられた。
さすがにこれほど続くと、俺も疑惑を持たざるを得ない。あの教科書を借りてからは、ケチのつきっぱなし。あいつが何かしらの細工を教科書に施したに違いない。
文句のひとつもいってやろうと思ったが、あいにく午後の授業は一コマだけで、すぐ掃除が始まってしまう。
担当場所へ向かう途中、それとなく彼女がいないか目を走らせたが、見つかることはなかった。
そして、いよいよ掃除の時間でも俺は激突する。雑巾がけの最中だったから、今までで一番勢いよく突っ込んだ。
感じる痛みもそこそこに、俺はあの氷の正体を見極めようと、かっと目を開いた。あいかわらず氷ははっきり見え、周りの景色はもうカゲロウか何かのように、ぼんやりと立つだけだ。
そのわずかな間で確かめられたこと。それは氷の中に浮かんでいるものは、黒ずんだ教科書たちだったってことだ。それだけじゃなく、ポスターカラーに裁縫セットに……学校で使う道具たちが浮かんでいる。
それらが、墨でもかけられたかのように真っ黒な姿で浮かんでいたんだ。
すぐに消えてしまったそれらだったが、俺はもう彼女を何としても捕まえる気でいる。
帰りのホームルームが終わるや、すぐさまカバンをひっつかみ、教室の外へ飛び出そうとした。
そこへぬっと現れたのは、まさに俺が探している彼女の姿。すでに数十センチのところへ迫っていた彼女との距離に、俺は慌ててブレーキをかけようとする。
そこでまたも氷の壁が立ちふさがった。勢いを殺しかけていたとはいえ、またもまともに食らっちまったが、今回はこれまでと違う。
ビキリと、はっきり聞こえる別の音。見ると氷の壁に大きなひびが入り、砕ける音だったんだ。
中に詰まっていた、真っ黒い教科書類が次々に飛び出してくる。図ったように俺へ向けて一斉に突っ込んできたそれらは、俺の目の前を瞬く間に、真っ黒に埋め尽くした。
気がつくと、俺は保健室で寝かされていた。そばには、椅子に座る彼女の姿もある。保健の先生が席を外しているらしかった。
俺が何か言う前に、彼女が口を開く。「きみ、だいぶ恨みを買っているよ」と。
彼女は話してくれた。俺がものを借りていたメンツが、俺のいないところで愚痴をこぼしていること。その半分以上が、俺にはもう物を貸さないと話していることを。
「君は気づいていないかもしれないけどね。君が物を返す時、汚くなっている部分がどこかしらあるんだよ。表紙だったり、道具の表面だったりするけど、手垢とか汗でにじんだところとか……。
今回の国語の教科書だって、だいぶ汗ばんだ手で握ってたでしょ? ちょっとページにしわが寄ってたし」
もう借りるな、とは言わないけど、せめて手はきれいにしてよねと、彼女は俺の言葉を待たずに去っていく。
それからほどなく、帰ってきた保健の先生に診てもらう。身体に異状はなかったが、俺の近視ぎみの視界は、今に至るまで完全には直っていない。
あの氷の壁は、俺に向けられる恨みを押さえていてくれたのかもしれないな。それが、ああやって見えてしまうくらい薄くなっていて、俺に注がれてしまったのだと思うんだ。




