優しい侵略者
これは世界征服の話ではありません。ほのぼの日常系です。登場人物はみな善人の予定なので、安心して下さい。
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私のクラスには少し変わった女子がいる。彼女の名前は西野有。入学して三ヶ月経つが、彼女が誰かと話している所を見たことが無い。彼女はいつも決まって教室の隅にある自分の席で、何をするわけでも無くただ静かに座っている。それだけならば至って普通な内向的女子という事になる。私も少し前までそう思っていた。しかし、彼女はそうではない。私が何故確信を持ってそう言えるのか、きっかけは数時間前に遡る。
私はクラス委員の仕事で朝一番に教室に向かっていた。校舎はしんと静まり返っていて、すれ違う生徒はおろか先生もおらず、いつもと違う環境に新鮮な気持ちを持った。しかしながら季節は夏、各教室にはクーラーが完備されているが廊下は蒸し暑く、蝉の鳴き声がけたたましく響き渡っていて、私は汗でじっとりと纏わりつく制服のシャツを摘み空気を入れながら冷たいクーラーの風を目指して教室に急いだ。
程なくして教室に到着した私は、一年二組の扉を開けた。一番乗りだろうと思っていた私は、既に稼働している送風口まで移動してその心地よい冷気を全身に感じるべく、スカートの裾持つと、バサバサと動かした。スカートは一見涼やかに見えるが、中には熱気がこもりやすい。それを効率よく逃がすために、私はそんな行動を取ったのだった。もちろんスカートの中身は丸見えだ。これは周りに人がいない場合のみ有効で、クラスに一番乗りをした人間のみに許される特権なのだ。私はひとしきり楽しんだ後、そろそろ仕事を始めようと振り返った。が、あってはならない事態に直面して私は固まった。教室の隅には西野有が自分の席で静かに座っていたのだ。
「お、おはよう、西野さん。いつもこの時間に?」
「…。」
動揺する私を無視した西野有は、何事も無かったかの如く自身の通学カバンを開けて何かを探し始めた。私は無視された事に一瞬ムッとしたが、彼女は私の羞恥心に配慮して何も見ていなかったという態度をとったのではと思い直した。女子同士とはいえ、下着を見られる事は恥ずかしい。彼女は彼女なりに私の事を慮って無視という選択をしたのではないか。私は自分を恥じた。自分が無視されたと言う些細な出来事に一々腹を立てて、彼女の繊細な思いやりが見えなかった事に。間違っていたのは私だ。ごめんね、西野さん。
私は謝罪の意味を込めて、彼女の方に顔を向けた。彼女はやはり席に座って静かに前を向いている。私はその彼女の顔をよく見て驚いた。彼女が思ったより綺麗だったからだ。日焼けしない肌は透明感があって、大きい目と小ぶりな鼻と口。残念なのはそれを長めの前髪が覆っていて、表情も暗い印象だ。しかし、それも今ではどこかミステリアスな印象で、彼女の魅力の一つに感じられた。ほっそりした首に薄い肩。シャツから覗く二の腕も、親指さえも細くスラっとしている。指先はキラッと光り、マニキュアのトップコートとカミソリの刃が朝日に照らされ輝きを放ってーー。ん?カミソリ?
私は目を疑い何度も確かめたが、確かに西野有が手を乗せている机の上には女性用カミソリが置いてあった。私が何故そこにあるのか疑問に思い凝視していると、彼女はこちらに気が付き、何故かシェービングクリームも追加した。私はそれがどうしても気になり、彼女の元へ訪ねる事にした。
「西野さん、その、毛、でも剃るの?」
「…。」
「必要無さそうにみえるけど…。むしろツルツルで一本も生えてなし。」
「…。」
私は彼女の白く光る前腕に吸い寄せられるように触れた。ひんやりした皮膚は不安を覚える程抵抗が無く、赤ちゃんの様な肌質だ。私がそれに夢中になっていると、彼女の口が開いた。
「それ、日下部さんのだから。」
「へ?」
私が意味が分かり兼ねて固まっていると、彼女は再度話した。
「日下部さん、毛が。」
彼女はそう言うと、机の上のカミソリと、私のスカートの方を指差した。
「え?!もしかして…見えてた…?」
彼女は少し間を置いてから小さく頷いた。
まさか学校で毛の処理を出来ない私は、それから体育着のハーフパンツをスカートの下に履いて生活している。友人から暑そうだと心配されるが、毛が気になってそれどころではない。
朝の一件から彼女を改めて観察してみた。彼女はいつも通り教室の隅にある自分の席に座っている。一見何もしていないように見えるが、よく見るとその机の上には色々な物品が並べられている。制汗スプレーに汗拭きシート、塩飴などもあった。どれも彼女が使うわけでも無く、その必要も無いくらい涼やかな表情をしている。
私はやはり気になって、彼女に声を掛けた。
「ねぇ、西野さん。」
「…。」
「それって西野さんが使うやつ?」
「…。」
「もしかして、私?それとも他の誰か?」
「…青田君。」
彼女は少し離れた場所にいる陸上部の青田を指差した。彼はかなりの汗っかきでそれに伴って中々の匂いを放っていた。
「匂いが…。それに顔色が悪く見える…。」
「西野さん…。もしかして、今までもそんな風に誰かが必要になりそうな物を机の上に用意していたの?」
「そう…。使ってくれたらいいなと思って…。」
「西野さん…。」
私はやはり彼女を誤解していた。彼女は常に誰かの為を思って行動する素晴らしい人間だ。そこに、羞恥心を煽って揶揄してやろうなんて悪意は存在しない。私には、彼女が天使の様に思えた。
「…そうしたら、征服出来るかな…って…。」
天使の口からなにやら物騒な言葉が飛び出した。
「せ、征服?」
私は驚いて聞き返したが、彼女は真っ直ぐな瞳を私に向けた。
「そう…。そうしていけばみんなが私に服従して…世界征服が出来るかなって…だからやっているの…。」
私には意味が良く分からなかった。ただ、これだけは言える。彼女は物静かな内向的女子などでは無く、野心溢るる侵略者だ。その手段が平和的である以外、彼女は言わば世界征服を企む悪の組織のボスなのだ。私は自信に満ちた彼女の瞳が鈍く光るのを見た、…ような気がした。