【三題噺】牛乳 蝶 夢
検索で適当に出した三題噺から
習作
広樹は最近、元気がなかった。3歳のときから広樹と家もおとなり、小学校も一緒のクラスでずっと一緒に遊んでいたぼくはそれをなんとなく気づいていたけど、どう聞いていいのかわからず切り出せないでいた。だけど、今日、給食の時間に広樹は、ご飯をほとんど残し、大好きな牛乳も飲まなかった。それで、一緒に下校するときに聞いたんだ。うつむき顔で歩く広樹に。
「広樹、風邪ひいちょ? 給食、ほとんど食べやんかったやん」
って。広樹はぼくの顔を力なく見上げ、首を振った。「元気だよ」と言った。ぼくは立ち止まり、広樹の黒いランドセルを引っ張った。
「やったらないで元気がなかど? ぼくんち全然遊びに来んし」
広樹の家はアパートで、部屋はひとつしかない。広樹とママと二人で住んでる。ぼくんちは一軒家で、二階建てで、ぼくだけの部屋もある。春が来れば小学3年生になるから、お父さんとお母さんが二階のぼくの部屋に鍵をつけてくれると約束した。だから、お母さんに邪魔されないで広樹とゲームできるのを楽しみにしていたのに、広樹はここずっとうちに遊びに来ない。それも不満だった。
「……翔の家に行くなって、ママが言うから……。あと、ママが……」
広樹は突然、涙声になった。ぼくはあわてて、長い土手の草むらに広樹の手を引っ張って降りた。
「ママがどげんしたと?」
広樹は鼻をすすってしゃくりあげている。どこまでも続く長い土手に、ぼくと広樹は座った。浅い川と3月のだだっ広い青空だけが眼前にある。時間はまだ15時少し前だろう。
「こないだ、ママがパパと電話してるところに起きちゃったんだ。いつもママとパパは、ぼくが寝たあとの夜中に電話するんだけど、おしっこしたくて。でもママが電話してるからがまんしてたんだよ。
ママが「りこんはしません」て言ってた。「私だけならまだそっちに帰ってもいいけど、広樹がいるから」って。「広樹だけどこか、海外にやる方法でもあればいいけど」って」
広樹は泣きながらそう言った。
「ぼくは、ママとパパの間でじゃまものなんだ。最近ね、ママは、ぼくの好きなものを食べさせてくれなくて。桃がスーパーにあったから食べたいって言ったらすごい顔してダメ!! って。家のごはんもパンばっかりで、たまごかけごはんを食べたいのにダメって。給食も食べちゃダメ、食べたらすぐにわかるんだからねって。ぼく、ママに嫌われてるんだ…」
泣き続ける広樹に、ぼくはどう言っていいかわからなかった。一時間もそうして泣く広樹をただ撫でて、陽が沈む前に腰を上げた。そして、細い路地を一本はさんだお互いの家の前までとぼとぼ歩いて、じゃあまた明日ね、と手を振った。
夕ご飯はお母さん手作りのかぼちゃコロッケとホワイトシチューだった。ぼくはそれをおかずにご飯を2杯食べて、お笑い番組を見ながら食後のミロを飲んだ。
「そいでね」
テレビ画面を見ているお母さんに、ぼくは食事のときの話題を続ける。
「広樹はおやつを買うてもれんって。じゃって、お小遣いももろうちょらんて。東京にいっお父さんに電話はしきっどん、逢いに東京にいったぁ絶対やっせんとお母さんに言われちょっらしいけどお父さんは逢いたがっちょっらしい」
ぼくが広樹から今日聞いた話をしていると、お母さんの顔が徐々にくもっていった。食後のお茶にも手をつけずに、じっとなにかを考えている。
「そう…。広樹くんは、お父さんに逢いたがっちょゆちょるんやなぁ」
「うん」
広樹のぐじゃぐじゃの泣き顔を思い出しながら、ぼくはうなずいた。玄関を出れば1分もしないアパートにいる広樹に、すぐに逢いたいのに。こんなに近くて遠いことなんてあるだろうか。
「翔」
お母さんはぼくの目を見て言った。
「お母さん、明日学校の父母会あっで直接広樹くんのお母さんに聞いてみる。じゃっでおめえははいつも通り広樹くんと遊びやんせ。あ、もうひとつ聞いちょこよごたっどん」
いつにないお母さんの真剣な顔に、ぼくもミロの入ったマグカップをテーブルに置いた。
「広樹くんは、お母さんに殴られっちょる、そげん話はせんかったどね」
ぼくは少し考えて、首をたてに振った。「そげんこつは広樹はゆちょらんよ」
翌日。
広樹は、いつも通り小学校に来た。ぼくは広樹と休み時間に遊び、給食を食べ(広樹はサラダのトマトと揚げパンしか食べなかったが)、下校の時間が来るまで校庭でブラブラしていた。
お互い、昨日みたいに話すこともなく、うんていでぶら下がったり早い時期の黄色い蝶が飛ぶのを追いかけたりしていたがじきにそれも飽き、言葉少なに半分地面に埋まったタイヤに腰かけていたとき。
校舎からこっちへと一目散に駆けてくる人影。クラス担任の工藤先生だった。
ぼくらのそばまで走ってくると、
「翔、広樹。ちょっと来やん」
と、切れ切れの息で言った。
ぼくらふたりは、入ったことのない「校長室」に通された。
広樹なんか、緊張しすぎているのがぼくのジャンパーをつかんだ手の力でわかった。
校長室は小さな、白い壁が四方にあるだけの簡素な部屋だったが、中央につるつるのソファと透明なガラスのテーブルが置いてあった。そして、そのテーブルをはさんで、ぼくのお母さんと広樹のママが疲れ切った顔でソファに座っていた。
「ママ!!」
広樹が、ぼくのジャンパーから手を離して一目散に彼のママのもとへダッシュした。広樹のママは「なんで広樹を呼んだんですか!?」と大声を出した。広樹がビクッと立ち止まる。
月曜の朝礼でしか見たことがない、ワニみたいな顔した校長が言った。「お母さん。では、広樹くんを虐待しちょらんと。そう、広樹くんの前で言えますね」と。
広樹のママは、みるみる顔を真っ赤にして怒鳴った。
「さっきからずっとそう言っているでしょう!? 私は広樹のことだけを考えてこっちに引っ越してきたんです! 東京で働く主人と別居してパートもして、広樹を」
きれいな顔をした広樹のママの大きな目から涙がこぼれた。「守ろうと……!」
「じゃどんお母さん」
ワニ校長がゆっくりと言った。「給食を食べさせんのは、こちらとしてん虐待を疑わざるを得ないんですよ。なぜそげんこつを?」
ずっとつるつるのソファに疲れ切ってもたれていたぼくのお母さんが姿勢を正す。
「そこなんです。この方、ないをゆてん全然要領を得らんのですよ」
こんなに厳しい顔をしたお母さんをはじめて見た。広樹のママはキッとぼくのお母さんを睨み、
「ああ、こんな場所に住んでいる方にはわからないでしょうね!!」
と金切り声で叫んだ。ぼくは思わず広樹に目をやった。母親のすぐ横に立つ広樹は、感情のシャッターを閉めて立ち尽くしている。
「あの日!! 東京はもう汚染されたんです!! あんな場所に住んでいたら広樹はガンになって死んでしまう、食べるものはすべて毒なんです。主人はそれをまったくわかってないでもう7年も経つんだから東京へ戻って来いと言う、馬鹿なんです、馬鹿!! 私だけならいいですよ、老い先短いんですから。でも広樹は生まれたばかりだったのに、これからなのに!! せめて、海外の安全な場所に避難させられたら…!!
主人は全然わかってないんです。福島の放射線が、何年経とうがどれだけ被害をもたらすのかを!!
これが夢であってくれればと何度思ったかしれません。でも、現実なんですから。私たちは逃げないと」
2011年。7年前の夏。
ずっと何年も空き家だったとなりのアパートの一室に、2歳の広樹とそのママは二人で引っ越してきた。
鹿児島霧島空港から車で40分。近所には小中学校と個人商店が1軒しかないようなこの町に。
小さな小さな、本当に小さなその一角になんのつてもないよそ者がいきなり入り込んできたことに、きっと周囲の関心は集まったろう。でも、こどものぼくにはまったくわからないことだった。
ただ、広樹がいた。広樹はずっと九州の言葉になじめないでいた。たぶん、広樹のママと、毎日電話で話すパパの影響だろう。広樹はずっと、NHKのアナウンサーが話す言葉でぼくたちに話していた。でも、ぼくはそれでよかった。
7年前。ぼくと広樹が2歳のとき。
日本になにがあったのか。ぼくのお母さんもお父さんも「大変やったみてやなあ」としか言わないけれど、
あれから広樹は、給食は食べていい、となったようだ。昨日のピーナツクリームをとっておいて、ご飯の日にごはんにかけて食べてクラス中の笑いを誘っている。けれど、広樹のパパとママはどうなったのかぼくは、知らないし、聞けないままだ。