194.結衣の本音
大軍となった魔物の襲撃を受けた初日より数日が経過した。
あれから突発的な少数の魔物との遭遇はあれど、大きな群れとの遭遇はなく、強力な個体も姿を現さなかったため、航海は驚くほど順調に進んだ。
また、昨日から他国の船をチラホラと見かけるようになった。正しく進路を取れている証拠だろう。
ただ海流を自在に操作できる船員がいるか、いないかは船の進む速度を大きく変える。そのため、並走して友好を深める間もなく、水平線の彼方に置き去りにしてきてしまったのは少し残念だ。良い取引相手になったかもしれないのに。
しかし、プロの船乗りなら、誰だって船の速度が普通でないことには気が付いたはずだ。それをキッカケに取引が成立する事にもなるかもしれない。あるいは、秘密が暴かれ、真似する輩が出てくる事にもなるかもしれないが、1日、いや、100日の長は俺たちにある。国を盛り上げる起爆剤になれば、それで良いのだ。
そんな風に、思うこの頃。
俺は、自分の鞄を前に胡座を掻いて腕組みしていた。
「絶対、おかしいだろ、コレ」
そう言って、険しい視線を向けるのは、砂まみれの鞄の前に置かれた球。それは、砂の主を倒した時に謎の発光を放ちながら現れ、収納空間にしまう事が出来ないあの変な球だ。
手に入れた時から、こいつは色々と気になる点はあったが、それに加えて、新たに俺はこの球のおかしな点に気が付いた。
「どう考えても、これが砂を生み出してるよな?」
これを拾ってからというもの、数日置きに俺の鞄は砂塗れになっていた。はじめは、嫌がらせかと思っていたが、段々おかしいと感じ始め、今日その原因はこの球しかないと断定した。
「いったい何なんだ、この球は?」
俺は土の紋様が浮かぶガラス玉のようなそれを手に取り、覗き込む。しかし、やはりというか魔力も、ましてや特別な力など、これっぽっちも感じない。
「いや……待てよ?」
そこで、ふと思い起こしたのは、この球を初めて見た時のシャルステナの反応。彼女はこの球から何か途轍もない力を感じると言っていた。俺はこの一見何の変哲もない球に、そんな力が眠っているはずがないと、適当に流したが、今思えばそれは浅はかだったのかもしれない。
例えば、これが砂の主の強さの源だったとしたのなら、これにはあの自由自在に砂を操ったりする事の出来る力があるのかもしれないと、考えた。
「ちょっと試してみるか」
すぐに何でも試してみたくなるのは俺の悪い癖だが、直す気はあまりないので、俺は好奇心に逆らわず、球を手に持ち甲板に出た。
「ほぅ、それは興味深い。さすがはギルク王子。自国の事となれば、私以上に博識であるな」
「兄上のお手伝いをしていたお陰だ。多少なりとも内政に関わったお陰で、今まで知らなかった国の状況を見れたのだ」
甲板に出ると、セシルとギルクは優雅にパラソルの下で寛ぎながら談笑している声が聞こえてきた。どうやらセシルは情報交換も踏まえて、話をしているようだが、一方のギルクは上手く乗せられてペラペラと国の内情を語っているようだ。だがまぁ、仲間として気心知れているのだと考えれば、そう悪くはない傾向なのかもしれない。
そんな二人の傍には、結衣とシャルステナの姿があり、仲良く……かは微妙だが春樹が作ったオセロで遊んでいた。
「あらあら、結衣さん。誰かのお腹の中みたいに、結衣さんのコマが殆ど黒くなってますよ。ほら、これでさらに真っ黒に」
「いやいや、これで逆転する事になるから真っ黒にはならないよ」
結衣の一手は、盤上埋め尽くす勢いの黒に、縦と横、斜めと白の花を咲かせ、ニマニマしていたシャルステナを戦慄させるに至った。
「そんな……! ちゃんと結衣さんの置いた駒を黒にしてきたのに……」
それは誘導しやすかった事だろう。
「こんな見え見えの罠に、しかも何回も引っかかるなんて、シャルステナちゃんの頭の中身は、この白のコマみたいにいつでも真っ白なんだね」
「そ、そんな事ないよ! ちゃんと考えてるよ! だって、結衣さんの置いた駒を黒くしたら、勝ちなんでしょう?」
「いやだから、この説明何回目……一つずつ黒くしても、一気に返されたら逆転されてしまうから、相手の動きを読んだり、返されにくい端の方を積極的に狙わないと……」
……この二人は仲が良いのか、悪いのかどっちなんだ。
そんな風に、理解していないのか、首を傾げるシャルステナに甲斐甲斐しく説明をする結衣を見て思う。
だが、以前の殺伐とした雰囲気が和らいだのは、良い事だ。俺の精神衛生的に。
と、そんな事を考え、二人の様子を見ていた俺に。
「レイさん、球を持ったままシャルステナさん達を見つめてどうしたんですか? あ、それを誰かに投げ付けて、遊ぶんですか?」
ライクッドが失礼なことを言いながら、近寄ってきた。
「お前とは一度、俺の事をどう思っているのか話し合う必要がありそうだな」
幾ら俺でもこんな硬そうな物を人にぶつける趣味はない……はずだ。ちょっと自信なさ気なのは、ギルクに言ったらまた怪訝な顔をされる気がしたからだ。
「ははは、冗談ですよ。それより、それって何なんですか? 」
「これは、例の砂の王を倒した時に出てきたもんだよ」
「へ〜、見た事がないぐらい綺麗な球体ですね。それに、ガラスにしては透明度が高いような……これが砂漠の王が落とした素材なんですか?」
確かに……言われるまで気が付かなかったが、この球体は綺麗すぎる。まるで人工的に作られた物であるかのように、一切の角もなく、淀みもない。
魔物や魔獣が落とした天然の素材とは思えない。
「さぁ、何なんだろうな? それを今から確かめるんだ」
「今からですか?」
俺は目をパチクリさせたライクッドに微笑して、船の端に行く。そんな俺に、何をする気だろうとライクッドだけでなく、シャルステナ達もまた注目していた。
余程、球を海に突き出す俺の行動が怪しく見えたのだろう。
俺は、そんな視線に晒されながら、考える。
……ここから、どうしたらいいのだろうか?
ひとまず船の上からは離してはみたものの、視線が集まる中、無策でしたと口にするのは、馬鹿みたいではないか。
とりあえず、この球が本当に土を出せるのか、実験してみるか?
「ええっと……砂よ、出でよ!」
適当に叫んでみたが、内心こんな感じでいいのかと、疑わしい限りだった。だが……
「えっ……うおっ、ちょ……!」
予想外にも、まるで俺の言葉に反応したかのように球が光りを帯び、瞬く間に砂が溢れ出した。その勢いたるや凄まじく、噴水のように砂が吹き出し、周囲に曲線を描いて落ちる。そこには、もちろん球を手にする俺もいて……
「あっ、くそ、体が砂塗れに……! てか、どうやって止めたらいいんだ、これ!」
「レイさん、取り敢えず船からもっと離さないと! このままだと、いずれ砂の重みで船が沈みますよ!」
「そんな事言ったって、俺の体もう半分砂に埋まってるよ! 手を離さないようにするだけで、限界だ!」
「じゃあ、いっそ離しましょうよ、それ!」
くっ、確かにこのままだといずれ船が沈む。というか、その前に俺が砂に埋もれて窒息する。
だが、こんな正体不明の変な球を手放してしまうのは、冒険者としての矜持が許さない。
「ああもう、止まれ! 止まってくれ!」
俺は半ばヤケになりながら、半身を砂に埋もらせながら、叫んだ。すると、またしても俺の言葉に呼応して、球は光を発して、砂の放出が止まる。
「止まったのか……?」
「……みたいですね。もう、いったい何をしているんですか、レイさんは」
「いや、俺もまさかこんな事になるとは……」
俺は砂山から這い出ると、苦笑する。そして、パンパンと服や髪を叩いて、砂を払うと球を訝しげに見つめて、頭を捻った。
「俺の言葉に反応した、よな……?」
いったいどう言う事だろうと、頭を悩ます中、遠目に見ていたシャルステナが、真剣な表情を浮かべて近付いてきて。
「それってあの時の球だよね……?」
「ああ、そうだよ。ちょっと試しに砂よ、出ろって念じてみたら、さっきみたいになったんだ」
「それだけで、あんな事に? やっぱりその球には何か特別な力が宿ってるのかな……」
思案顔になりそのまま考え込んでましまったシャルステナ。確かに彼女の言う通り、これは普通の球ではない。かといって、何かの魔道具にも思えない。
一番不可解なのは、魔力が一切使われていない事だ。
無から有を生み出す。それは、ファンタジー異世界のここでも不可能だ。何もない場所に、土や水を生み出す事は可能でも、それは無から有を作り出しているわけじゃない。魔力という有限のものがあって初めて、魔法やスキル、魔道具によってそれが可能となるのだ。
だが、これは何だ?
完全な無から有を生み出した。いわば世界の摂理に反したもの。
「ははっ、面白い。いい拾い物をした」
これもまた俺の知らない何か。いずれその謎も解き明かしたい。
「笑いごとじゃないよ……私はとっても嫌な予感がするんだけど……」
「シャルステナは心配症過ぎるんだよ」
そんな風に軽く受け流す俺は、シャルステナの心配が的中する事になろうとはこの時はまだ思いもしなかった。
〜〜〜〜
『親〜〜!』
ある日の夕刻。もうすぐ目的の島国が見えてきそうな頃合いに、ハクが扉をぶち壊して泣き付いてきた。
「おい、幾ら開けられないからって、壊すんじゃねぇよ。毎度毎度直すのも面倒なんだから。それで、今度はどうしたんだ?」
『シャルがハク虐める!』
「またそれか……怪我人は大人しく治癒術師に従いんさい」
これでいったい何度目か。飛行のリハビリを始めたハクが泣き付いてきたのは。
以前は、飛びたい飛びたいと泣き付いてきたくせに、いざリハビリを始めたら、自由にさせてくれないから面白くないだの、しばらく飛んでなかったから疲れるだの、文句の多いやつだ。ほんと誰に似たのか。
『親に説得力ない』
こいつ……
と、そこへハクを探しにきたシャルステナが船室に入ってきて。
「あ、またここにいた。ハク、ちゃんと飛へるようにリハビリをしないと」
励ますように説得を図るシャルステナだったが、ハクはより一層強く俺の足に泣き付いた。というか、離れまいと噛みついた。
それでも、シャルステナは諦めず、ハクを連れていこうと頑張るが、必死の抵抗を見せるハクは、頭をぶんぶん振って叫ぶ。
『やぁ〜! ハク、もう飛ばない! 親の頭、楽!』
「おい」
それがお前の本音か。
俺は泣きつくハクの頭を掴むと、強制的にシャルステナに引き渡した。
「じゃあ、頼む」
「うん。頑張れば、すぐに前みたいに飛べるようになるよ」
俺は苦笑しながら、ハクの面倒をシャルステナに頼む。すると、彼女は任せてといった様子で微笑んだ。
『親でなし──!』
そんな悲鳴をあげながら、ハクはシャルステナに連れて行かれた。
「やれやれ……」
飛ばない竜がどこにいるのだと嘆息しつつ、俺は船内の自室にて、胡座を掻く。そして、足の上で手を重ねて、目を閉じる。
船体を揺らすさざ波の音と、それに紛れ甲板で騒ぐ仲間の声。それから、鋭くもリズミカルな剣筋が奏でる心地よい音色。この音を出せるのは、アンナだろうか。素振りでもしているのか?
俺はさらに感覚を研ぎ澄まし、集中を高めていく。何をしているのかというと、魔力操作を練習している。やはり基本というのは、どれだけ実力をつけても大事なことだ。
人より魔力量が多かろうと、一度に操作出来る量が限られていれば、この優位を十全に活かす事は出来ない。いずれ来よう復讐の時に、そして、予言された世界が終わる時に、こんな鈍な状態ではいられない。
俺は、まだまだ強くならないと。
その向上心から続けてきた魔力操作の練習。それは、主に空間スキルを流用し、広範囲にかつ、高密度の魔力をばら撒き一度に操り、遥か遠方で魔術を使う練習を重ねていた。
そのお陰か、魔力物質化スキルを除き、スキルレベルはカンスト。魔力量は、魔臓がないためか数値的には0だが、1日に魔素に変換出来る量は増加傾向にある。
つまり、魔力生産量自体は上昇しているという事だ。
あとは進化して、魔臓を元に戻せれば、俺は以前より確実に魔力の扱いに長けているはずだ。
いわば、これはその時までの布石。準備段階だ。
魔王が口にした最後の一つ。魔性変化なるスキルを手に入れた時、俺は初めて魔皇帝と並ぶ。
全てはそこからだ。
それからどれだけ魔皇帝の裏を掛ける魔術を開発出来るか。
魔術以外の要素であいつを上回れるか。
俺の復讐が成るかは、それらに掛かっている。
この手で必ず、親父の仇を。
アンナにも、ハクにも、そして、シャルステナにもこれだけは絶対に譲らない。
あの時、止められなかった、何も出来なかった自分に。このどうしようもなく醜い心に。
決着を付けるために。
そのためには、無駄に出来る時間はない。一つ一つ、毎日の小さな積み重ねを、俺は積み上げていかなければならない。
その絶好の舞台は、迷宮だ。
何故なら、そこはこの世界で最も多くの魔物が存在する場所だからだ。迷宮では、壁や天井から魔物が生まれてくるそうだ。その数、種類共に豊富で、迷宮内でしか出会えない魔物もいるらしい。特に、10層ごとに現れるいわゆるフロアボスは殆どがオリジナル。さらには、上から下に魔物の強さが上がっていくという攻略難易度の縦構造。
俺は、その事をこれまで不思議にも思わなかった。何故なら、そういう場所だと思っていたからだ。よくある迷宮。ありふれた仕様。
だが、今は一つ違う見解を持っている。
それらは、クラクベールの思惑によって、何かを隠すために作られた場所であると。
であるなら、迷宮の仕様にはクラクベールの思惑が絡んで来ているのだろう。段階的に強さが増していく仕様は、まるで誰かを育てようとしていたのではないかと感じる。
実際のところ、それが正しいのかはわからないが、大事なのはそう感じてしまう程に、迷宮は強くなるのにはもってこいの場所だという事だ。俺だけでなく、実力的に不安のある結衣や、ギルク達にとっても良い成長の機会となるだろう。さらには、復讐のため貪欲に強さを求めるアンナにとっても、大きな手助けになる。
そんな副次的な目的もあるが、本来の目的は迷宮の探索と、その調査。特に、最奥に何が隠されているのかを、俺は知りたい。
他はどうかは知らないが、強くなるという目的があるお陰で、俺たちは迷宮の踏破という大目標に共に向かっていけるのだ。
だがまぁ、その前にルクセリアが安心して、旅を続けられるよう、最後の詰めに入ろうか。
俺は、魔力を意図的に霧散させ、集中を解く。そして、船室から赤ん坊の頃のようにフラフラとリハビリに励むハクと、それをまるで赤子を呼ぶように手をおいでおいでパチパチ鳴らすシャルステナのいる甲板へと出た。
「おお、やっと少し飛べるようになったのか。けど、リハビリは一旦おしまいだな。着いたみたいだぞ──ヤマト大国に」
〜〜〜〜
ヤマト大国。
そこは、アフロト大陸とクリフォト大陸の丁度中間にある島国。両大陸、並びにその他大陸ともに広大な海が間に広がっているため、独自の発展の仕方をしてきた。
いわば、日本でいう鎖国。それに近い状況が、今もこの国にはある。しかし、迷宮を目指す冒険者などの大半はここを通るために、半鎖国状態のようなものだ。元々、鎖国を国が推し進めているわけでもなく、大陸と離れているために、技術も、物資も、中々外へは出回らないし、入ってもきにくいという意味で、鎖国に近い状況下になっているのだ。
つまり、裏を返せばこの国では、まだ開拓されていない新たな生産から販売までのルート建設が望めるという事だ。
「嶺自、船の停泊許可証を貰ってきたわ」
「サンキュー、結衣。何か言われたか?」
船の下船準備を進める中、先に停泊許可を貰いに行って貰っていた結衣から、その許可証を受け取った。
「ひとまずこれで、2週間の間は停泊出来るそうだけど、警備はしてくれないようだから、見張りを置くなりしろとの事だったわ。それと、船の名前が必要だと言われたから、地球で有名だったタイタニックにしておいたわ」
「沈没したやつだよな、それ」
何でそれにしちゃったんだろうと、俺は思わずツッコミを入れたが、結衣は気がついてすらいなかったのか、目を見開いて慌てた。
「ご、ごめんなさい、そんなつもりではなくて……!」
「いや、名前くらい何でもいいけどさ……いっそのこと沈没丸みたいに開き直ってもいい」
そうそうこの船が沈むことはないだろうし、沈んでも余り問題もない気がする。半分以上が空飛べるんだし……
「とりあえず宿を確保するまで、この船の警備は適当にやって貰うとして、他の船はどうするか。まぁ、これぐらい自分達で決めて貰った方が後々のためにはいいよな」
小姑みたいに一々口を出すのはやめよう。ここまで問題なく航海を果たした彼らはもう一端の船乗り。ここからクールキャスには、自分達だけで戻って貰う事になるのだから。
「よし、これで終わりと」
俺は、船着場に最後のロープをガッチリと固定し終えた。ふと、甲板に注意を向ければ、まだ掃除などの後片付けをしているようで、もう少しかかりそうだった。
「あいつらは、まだ時間がかかりそうだから、一足先に街に行ってみないか?」
「え、二人で?」
「ああ。船の掃除するのも面倒だし、このまま黙って行っちまおう」
あいつら全員連れて宿を探すのも、疲れそうだし……
そんな俺の思惑はさて置き、結衣は俺の誘いをどう受け取ったのか、顔を赤らめて頷いた。
そうして、二人で船着場を出て、街中に入る。
そこは、一言で言えば和風。些細な違いはあれど、家屋や道を行き交う人の服装には、古き日本と似た印象を受ける。
「外から見た時もそうだったけれど、中に入ってみると……まるで京都に観光しにやって来たみたいで、とても懐かしいに気持ちになる。嶺自はこの事を知って?」
「知り合いにござるがいるから、予想はしてたよ。こんなにソックリだとまでは思わなかったけど……」
もしかしたら、ここはこの世界に来た日本人が作った国なのかもしれない。
だとしたら、この哀愁漂う懐かしさにも頷ける。前世に殆ど未練など残して来ていないつもりだったが、心の深い部分ではまだ、何か引っかかっている事でもあるのかもしれない。
俺は瓦屋根の木造家屋と、和服を来て行き交う人々を流し見しながら、結衣に疑問をぶつけた。
「結衣、辛くないか?」
「……? 急にどうしたんだ?」
俺の問いかけに結衣は首を傾げて、心配するように見詰めてきた。
「あれから……俺が正体を明かした日から随分たった。結衣たちが勇者召喚されてから考えたらもっと時間が経ってる。結衣たちが、俺のためにこっちに残ってくれたのはわかってるつもりだ。けど、結衣には、向こうに親だって、友達だって沢山いるだろう? それなのに、ずっとここに居ていいのか?」
いつかは話さなければならないと思っていた。結衣と春樹にとって俺は幼馴染かもしれないが、二人には俺と違い、日本で待つ親や友達だっている。
春樹は、獣人の嫁を連れて帰ると、不順かもしれないが、この世界で生きる目的を持っているが、結衣はどうだ。
彼女は、俺と春樹がここに残る事を決めたから、残る事にしたのではないか。本心では帰りたいと思っているのではないか。俺がこの世界を離れたくないと言ったから、無理してここに残っているのではないか。
俺は、そんな具合に、彼女に引け目を感じていた。
だからこそ、この懐かしい風景の中で。俺でも、そう感じてしまうのだから、結衣にとっては、余計に懐かしく、恋しさを覚えるだろう街の中でなら、彼女の本心が聞けるのではないか、とそう思った。
「結衣は……無理して俺に付き合ってないか?」
「無理は……していないつもりよ。けど、帰りたいとは思ってるわ。出来るだけ早く」
結衣は前半言い淀み、それから少し視線を地面に落とした。
「けどね、私一人で帰っても何の意味もない。それは、また同じ過ちを繰り返すだけだから」
彼女の言う過ちが、果たして何を指しての事なのか、俺にはわかりかねた。しかし、繰り返したくないというのが彼女の本音であろう事は、後悔を滲ませた瞳を見ればわかる事だった。
目を閉じて小さく息を吐いた結衣の手が、ゆっくりと伸ばされ、俺の手に触れた。それはまるで、あの日3人で約束を交わした時のように。
「一度離れてしまった手が、こうしてまた繋げる。私はもうこの手を離さないと決めたから、いつか必ず嶺自を連れて、春樹と3人で日本に帰る」
強く握られた手。結衣の側に引き寄せられそうとなる手に、俺はまだ抵抗していた。それを肌で感じ取って、悲しそうな表情を浮かべた結衣は、罰が悪そうに手を離す。
「ごめん……俺は、日本に帰りたくない」
「……それは、わかってる。この世界には、嶺自の家族や友人が沢山いるのだから、そう簡単に踏み切れない事も。……だけど、いつか嶺自が日本に帰りたいと思ってくれたら、私は嬉しい。その為なら、どんな事だってやれる自信がある」
全てを知った今なら、もう過去への忌避感はない。けれど、帰りたいと、俺はどうしても思えなかった。何故なら、そこには帰りたいと思えるものがないのだから。一度、帰ってしまえば、戻って来れるのかわからないのだから。
結衣はそんな俺の気持ちをわかってくれていて、それでも自分の願いを俺に伝えてきた。俺は、それにどう答えればいいのか。答えるべき本心も筒抜けで、これ以上何が言えるのか。
俺は、口を彷徨わせた。
そんな風に言葉を返さない俺に、結衣は。
「……それとも、嶺自は私のことが邪魔か……?」
不安を滲ませる声音で言った。
「……俺の為に残る事を決めた相手を邪魔に思う奴がいたら、そいつはクズだろうな」
「そうか……なら、よかった」
安堵するように微笑した結衣に、俺は思う。
それに甘えるだけ甘えて、完全に突き放せない中途半端な奴も、同じだろうけどな──と。




