154.罠
めでたいはずの祝事の最中、突如として主役の二人が姿を消すという予期せぬ事態。民衆が成り行きを見守り、ジャニス親衛隊の面々が慌ただしげに動く中、ゆっくりと階段を上り始める男がいた。まるでリングへと進み出す格闘家のような闘気を滲ませる男を、誰一人として止める者はいなかった。親衛隊はそれどころではなく、民衆は逆に近寄り難いものを本能的に感じ取っていたからだ。
そして、事態は急転直下の大混乱へと移り行く。
突如として一人の少年が現れ、ローブの人影へと空飛ぶ火の鳥を飛ばし始めたのだ。
何がどうなっているのか、困惑が伝播する中、やけに強調された一つの単語が、まるで人の危機感を引き立てるように、響き渡った。
「──魔王様」
声が大きかったわけではない。ともすれば、民主の囁き声にも負けてしまいそうなほどの声量であったが、それは畏れと共に瞬く間に伝播する。
「今あの子何て……」
「魔王って言わなかったか……?」
耳を疑いお互いに確認し合う民衆の間でその名が繰り返され、本能が刺激される。それから、彼らは素直だった。
一瞬後、悲鳴が王都イグノアに木霊し、恐怖がばら撒かれた。
『うぁぁぁぁああッ!』
大混乱。王城に詰め寄せた人がそのまま群れになって逃げ始めたのだ。老人も小さい子供もいる中、我先にと逃げ出す人々。どうなるかは、言わずともわかる事だろう。
だがそれでも、誰もが命に危機に冷静でいられるわけもない。大多数は本能の危険信号のままに動き出す。
それは、逃げる選択肢を捨て、戦う道を選んだレイも同じ事だった。
「俺一人誘い出すのに、随分と回りくどいやり方をしてくれたな。すっかり騙されたよ」
平静を装うレイの額からは汗が滲み出していた。それを悟られないように言葉を選びながら、自分を演じるレイは、余裕のなさを決して逸らさない視線にひた隠す。
「ふふふっ、世界中探し回るよりも、誘き出した方が面倒が省けるでしょう? それに、前々からこの国の存在は邪魔だったのでね。あくまでついでですよ、あなたは」
立ち位置は、レイが上。しかし、立場は逆転している。魔王の背には逃げ惑う人の群れ。押して押されてを繰り返し、王城から、魔王から少しでも遠くへと離れようと我が身かわいさに街を捨てる勢いで逃げていくが、まだ十分安全とは言い難い距離感だ。
今、意識が民衆に向いたとしたら、数秒と経たずにかなりの被害が出る事になるだろう。それは絶対に避けなければならない。
「……俺の命はついでか。けど、また随分リスキーな方法を選んだもんだ。また、負ける事になるとは思わなかったのか?」
意識を背後へ向けさせないため、敢えて挑発するレイ。その虚勢すら見通しているかのように、魔王はチラリと視線を背後に送り、また正面へと戻した。
「多少のリスクは背負いますよ。目的のためならば」
どうやら、今は彼らに興味はないらしい。後でどうにでもなると思っているのか、魔王が標的と定め、殺気を向けるのはレイ一人だ。
……一人……二人……合計3人か。
「へぇ〜。じゃあ、隠れてる魔王様方は、リスクを減らすための準備って事なのか?」
「ほぅ」
自身へと向けられた殺気を感じ取り、それとなく企みを看破したレイに、魔王は感嘆の声を漏らす。
「やはり不意打ちでは終わりませんか」
「ったりまえだろ。お前の殺気はもう嫌ってほどこの身に染みてるんだ。出てこいよ」
勇ましく魔王を睨みつけ、続いて気配を辿り2人目、3人目の隠れている建物を睨みつける。
と、レイの視線が触れた瞬間、派手にその建物ごとぶち壊し、新たに二人の魔王が姿を現した。
「バレバレでしたか」
「よもやこちらの居場所まで見抜いていたとは」
「そりゃ、何度お前と戦ったと思ってる? お前の虫唾が走る気配は忘れられねぇよ。今更不意打ちが通用するか」
いや、しないと言い切るレイの前へ、軽やかに移動した魔王。
背丈が全く同じローブ姿の男が横に並び立ち、まるで三つ子のように仕草が一致するのを見て、段々とその顔に覚えがある者から言葉を失っていく。
「気配は殺していたつもりだったんですがねぇ」
数年前手も足も出ず、地面に転がされたゲルクは、体が震えるのを止められなかった。
「やはり中々に厄介ですよ、あなたは」
逃げる事しか叶わなかった相手との再会にギルクは恐怖を思い出した。
「楽に死ねたというのに」
戦う事すらさせてもらえなかったシャルステナは、強く手を握り締めた。
王子も、親衛隊も、ギルクも、シャルステナも、そして勇敢にも逃げずにその場に残った民衆の誰もが、己と戦いその汗で手を滲ませる中、一方でレイだけは逆に落ち着きを取り戻していった。
「バラバラに喋るな、面倒くさい」
そう辛辣に吐き捨てたレイの後ろには、何度も命を救ってくれた魔法使いがいる。
「あいにくこっちには、気配消す事に関してはお前以上の奴がいるんでな。知らない内に敏感になってたみたいだ」
前には、昔共に仕事をこなした事もある冒険者達の姿もある。
「まぁ、不意打ちは失敗してしまいましたが、あなたを呼び寄せられただけでも良しとしましょうか」
初めにレイから攻撃を受けた魔王が代表して目的は果たしたと口にしているのを、遠目から伺う頼もしい仲間がいる。
「確かに、それについては上手くしてやられたとしか言えないな。だが、自分で仕掛けた罠に掛かったのはお前かもしれないぜ?」
「と言いますと?」
「魔王が一人、二人、三人」
ピッピッピッと人差し指で魔王を羊でも数えるように指差したレイに、魔王達は一律に顔を顰めた。
「さて、ここで問題。こっちはいったい何人いるでしょうか?」
自分で仕掛けた罠に掛かったのはお前だと、レイはその場を代表するように、笑みをチラつかせて言う。
対して、魔王もまた歯を覗かせた。
「おやおや舐められたものですね。寄せ集めで私達に勝てるとでも?」
「さぁ? そこまで俺はお前を弱いとは思ってない。けど、負けるつもりもない。なら、勝てると信じるだけだ」
レイは高まる戦闘開始の重圧から逃げるように、細く長く息を吐く。
「──5分だ」
逃げ惑う人々が遠ざかり、緊張感に支配されたその場の空気は、強い覚悟の篭ったレイの言葉をよく通す。
「5分で、この街の外へ住民を避難させて、態勢を整えろ。その間、俺があいつを引きつけておく」
「ま、待って、レイ。私も……」
しかし、シャルステナは無茶だと言わんばかりに、レイの肘を持って、止めようとした。
「大丈夫。やられはしないから。あれから少しは強くなったつもりなんだぜ?」
少し、ではない。通常ありえない魂の合成によりレイが手に入れた強さは、普通の成長とは比較にならないほどの劇的な進化だった。
それを、鍛錬を通して実感しているからこその自信。
「信じてくれ、シャル」
5分ならば一人で止められる。そう、固い意志の篭った曇りのない強い瞳。
シャルステナは、手をゆっくりと離した。
「……うん。絶対……絶対死なないでね?」
「ああ、死なないよ。まだ、7大秘境も制覇してないし、世界をまだ半分も旅してない。こんなところで、死ねないさ」
やり残した事はいっぱいある。行かなければいけない場所もある。
たかが魔王如きにそれを邪魔されてなるものかと、レイは己を鼓舞し、魔王へと向き直る。
「茶番ですね。舐めるのも大概にして頂きたい。つい力が入り過ぎて、すぐに殺してしまいそうですから」
「キャー、お優しい魔王様。わたくし惚れてしまいますわ」
レイは頬に手を当てクネクネと腰を捻り心にもない事を口走る。シャルステナが密かにムッとしていたのは、気のせいだ。
「舐めるなと」
「言っているのが」
「わかりませんか!」
また、バラバラに言葉を連ねた三つ子の魔王。
レイは、ややこしいんだよと内心愚痴りながら、憤慨して正面から突っ込んできた魔王に、大きく口を開く。
「ばーか」
本気で馬鹿にするような態度のレイに、魔王の顔に怒り筋が走る。だが、それとは反対に無策で飛び込んでは危険と、レイとの戦闘の経験が警鐘を鳴り、ほとんど同時に足が止まる。
だが、それは無駄だったとしか言いようがない。レイの前に姿を現した時、それはもうレイの術中に嵌っていたのだ。そう、たとえレイの知らない秘策で、虚を突こうと考えての動きだったとしても、全ては無駄な事でしかなかった。
「──異空間生成」
闇が広がる。漆黒の暗闇の空間が、レイを中心にして街を覆い尽くす。それは、魔王も街の人も含め、全てを飲み込み、瞬きよりも短い一瞬で消え去る。たった四人だけを連れ去って。
「えっ……?」
何が起きたのか理解できた者は、その場には誰もいなかった。姿も、声も、気配すらない。ただレイが魔王を連れて消えたという事実だけが残され、目と鼻の先でレイを見失ったシャルステナを始め、一同は唖然と立ち尽くした。
と、その時──
「惚けるなッ!」
強い叱責が飛ぶ。
「彼が作ってくれた時間を無駄する事は私が許さない! この国の王として、命じる! 5分以内に王都の住民を避難させ、迎撃態勢を整えるのだ!」
叱責を飛ばしたのは、この国の王として名乗りを上げたジャニス。呆然としていた者は、その無茶とも言える指示のお陰で、少し平常心を取り戻して、ジャニスの言葉を己の中で繰り返す。
まずは、避難。その次に、戦闘準備。猶予は5分。
並べてみれば、やる事は二つ。時間も決まっている。ならば、多少無茶でもやるしかない。
心に余裕が生まれた者から、次々に行動を開始していく。シャルステナもまた、一度レイの心配を打ち切り、街へと駆け出した。
一方、それを遠目を見守っていたアンナ、ゴルド、ライクッドの3人は、行動を開始する。
予想外の敵の出現で、レイのトンズラ計画は失敗どころか、根底から覆された。街を捨てて逃げる事など出来ない。ならば、戦わねばならない。
だが、アンナとゴルドは身をもって、ライクッドは直接レイから話に聞いていたからわかる。このまま普通に戦っては絶対に勝てないと。
だからこそ、勝つための行動を、3人は別々に動き出す。
「ギルク、あんたどうせ役に立たないんだから、援軍呼んできなさいよ!」
「いきなり現れて戦力外通告か⁉︎」
アンナは、最強の助っ人を呼びに行かせ。
「みんなぁ〜、魔王が来たんだって〜!」
『はぁぁあ⁉︎』
ゴルドは、ギルド本部に駆け込み。
「ここがいい。ここなら、全部見渡せる」
そして、ライクッドは仕込んだ。
三者三様。それぞれが最善と思える行動を。
そして、それは彼らだけでなく、あの場に居合わせた者達全てが、5分という短い時間の中で、己が取れる最善の行動を取った。
そんな中、ジャニスの指示が飛ぶよりも先に、人々を逃がすために尽力している者達がいた。
「ひっく……ひっく、おかぁさんどこぉ!」
人波に流されて、親とはぐれてしまった不安と、人にぶつかられた痛みで子供が泣いていた。
「お母さんとはぐれてしまったのかい?」
子供と同じ目線になって、優しげな表情で話し掛ける青年。真新しい装備一式を身に付け、ふと見たところ新米騎士のような印象を覚えるが、そう断定するには少し背が大きすぎる気もする。
しかし、そんな判断を下せるほど子供は、冷静でもなかったし、知識も持っていなかった。
一つ、小さな子供でもわかる事は、彼が騎士だという事。
「ひっく……バーって周りの人が走り出して、それで、お母さんがどこかに行っちゃった」
「うん、わかった。お兄ちゃんに任せてくれるかい? お母さんを絶対見つけてあげるから」
うんと、小さく頷く子供を、青年騎士は抱き抱え立ち上がると、チラリと王城の方へと目を向けた。
「そっちは任せたよ、レイ」
〜〜〜〜
「何ですか、これは?」
一寸先も見えぬ闇の中、魔王の声だけが響く。
「ここは、世界と次元を隔てた異空間だ」
「次元を隔てた……?」
「そう、言うなれば異世界。普段いる世界とは、まったくの別物。ここには大地も海も、重力さえ存在しない」
直径1キロ余りのの球場異空間。重力のない宇宙のような場所で、星の光すらない真っ暗な場所だ。
「さぁ、魔王様。存分に無重力を体験してくれよ」
この空間は、空間系スキルの使い手のみ許された特殊な場所。ここに出入り出来るのは、異空間生成スキルを手に入れた者と、その者が選んだ人間のみ。
つまり、おそらくは魔王にとって初めての無重力体験。幾ら災厄の象徴たる魔王と言えど、すぐに馴れろというのも難しい話だ。
そこが、レイにとってのアドバンテージとなる。
「行くぞ」
固定空間を足場に、レイは大きく飛び上がる。これがあるからこそ、異空間は活きてくる。さらには、飛行も可能となれば、自由に動けぬ相手に対しての有利は相当なものだ。
実際、レイを追尾するために魔王は、触手を伸ばそうとしたが、無重力故に体があらぬ方向へ回転し、狙いが定まらない。まるで、遊んでいるようにも見えるが、経験だけは豊富にある魔王の対応は速い。
触手がダメならばと、一人の魔王がすぐにそれを引っ込めて、手をかざす。
「魔弾」
魔力のエネルギー弾が、何百発と発射された。豪速球のように直進するものもあれば、旋回して裏へ回ろうとするものもある。
しかも、上下も定かでなく宙に浮いた状態では、カバーしなければならない箇所が無駄に多い。
「魔装」
レイもまた魔装を体に纏う。この数を捌き切るのは不可能と判断したからだ。加えて上手く魔弾から離れながら時間を稼ぎ、竜化による完全防御体制を整えた。
ドバババッと魔装と魔弾が激突する。
と、その弾幕の嵐を抜けて、一本の触手が伸びてきた。
「チッ」
舌打ちしながら、切れ味抜群の魔手でそれを斬り払おあと十字に構えていた手を伸ばした瞬間、狙ったかのようなタイミングでその手が魔弾で弾かれる。
その一瞬の間に、触手がレイのもう一方の手を絡め取る。グッとその腕を折るかのように強い圧力が手首にかかるり、次の瞬間には体ごと引っ張りあげられた。
みるみるうちに弾幕の外へと引っこ抜かれたレイ。見れば、3人の魔王はそれぞれ別々の動きをしていた。
一人はレイを捕らえる触手を綱引きの要領で引っ張っていた。ガッチリと両手で物質化した魔力を掴み、引っ張り上げる力を増大させている。
それだけでなく、触手を出す魔王はレイが態勢を整えられないよう触手の動きを細かに変えて、尚且つその物質化した魔力を縮めて引き寄せようとしている。
それに抵抗しようとレイが、鋭く尖らせた腕を上げれば、邪魔に入る無数の魔弾。
見事なコンビネーションだ。さすがは3つ子のように顔が同じだけはある。実に無駄のない動きと連携で、レイを彼らの間合いに引き込もうとしている。
そんな熟練のパーティさながらの連携を見せる魔王に対して、レイは一人だ。移動もままならない彼らを連れて来ても足手まといとなると踏んで、一人で魔王と相対したが、ただでさえ厄介な手合いが3人もいる状況では、無重力のアドバンテージも虚しいものだ。
それでも、体が上手く操れていない魔王の様子を見ると、幾らかはマシになっているのか、とレイは逡巡する。
「固定っ!」
レイは触手の動きに合わせて、その先っぽ──自分の手首を固定した。それに伴いあらぬ方向へ曲がりそうになる腕を、強引に筋力で引き戻し、体の動きを停止させる。
と、そこへ襲い来る魔弾の数々。レイに触手を斬らせないとばかりに彼の右手を集中的に弾く。
集中放火によるダメージは、特に硬い腕の魔装と鱗のお陰でほぼ皆無。だが、次第にその守りも薄くなってきている。さらには、魔力が弾ける衝撃により、激しく上下左右に振られ、身動きが取れない。
ならばと、敢えてその衝撃に逆らわず、体ごと流されたレイの足が一層強く輝いた。
「ったあ!」
相手の攻撃を利用した回転蹴り。それは、固定された空間の数センチ先の触手の枝に吸い込まれた。
一瞬、物質化した魔力と、魔力により鋭く変形した足がせめぎ合った。その勝敗を決めたのは、そこに込められた力の優劣。
肉体を依代にしたレイの魔足は、十全にその力を費やし、一方でただ魔力を物質化しただけの触手は硬度という耐える力しか持ち合わせていなかった。勝敗は明白。
バシュッと軽快な音がなったと同時に、レイは素早く左手を軸に体を固定空間の上へと持ち上げた。重力が存在しない分楽に、そして無駄のない動きで、足をそこへ乗せると、解除と同時に足を跳ね伸ばした。
上下が定かではないその異空間で、レイは頭上への推進力を持って、また魔王との距離を大きく開く。
「面倒な」
口惜しそうに顔を歪め、吐き捨てる魔王。
この自由に動けない場所で、再び距離を取られた事に歯嚙みせずにはいられない。レイの目的が時間稼ぎであることも相まって、優勢な状況であるのに余計な面倒を強いられる。そして、先の宣言通りであれば、5分後には万全な体勢を整えた寄せ集め達を相手にしなければならない。そうなると、余計に面倒が増える。
そうなる前に、魔王はレイを仕留めなければならないと……いや、殺してしまっては、このわけのわからない場所に閉じ込められる事もあり得る。
そう考えると、捕まえて助けを求めて解除するように仕向けるのが、最も得策かと魔王は頭を回す。
しかし、その為の役割分担であったが、このままでは同じことの繰り返しであろう。
それはどちらも共通の認識で、レイにとっては嬉しい状況だ。だが、レイはそれでも油断なく、魔王に先じて動く。
「隔離空間」
有無を言わさず、魔王の一人をその中に閉じ込めたのだ。
魔王の戦法は基本的に魔力を使った魔術によるものだ。今現在レイがわかっているだけで、3つ。魔装、魔力物質化、そして、魔力加工により作り出した濃縮弾。
その3つはレイも同じようにとまではいかないが使う事が出来る。そこから恐らく、魔爆もまた手札の一枚として持っているであろう事は予想出来た。
だが、それら全てに共通するのは、断絶された空間を超えられないという事実。全ては壁に阻まれ、更には魔王自身も閉じ込める事が出来る。
3対1の状況を2対1へと変えるこれ以上ない技だった。惜しむべきは、物体が存在する地点には壁を作れない事だが……仕様なのだからそれはこの際仕方ない。
不可視の壁に閉じ込められた魔王は、プカプカと空を泳ぎ、それにぶち当たって初めて気が付く。
何かわからない壁がそこに存在し、音が全く聞こえない。それを壊そうと、山一つ粉々にし兼ねない程の剛腕を叩きつけてもビクともしない不可視の壁に、思わず唖然とする。
さすがは竜のブレスさえ防ぎきってしまう壁といったところか。
レイからすれば、それはもはや穴だらけの防御だが、その穴に通す糸の種類を知らない魔王にとっては、恐ろしく難解な壁だ。このまま半永久的に閉じ込める事だって不可能ではない。
その代わりと言ってはなんだが、今のレイに魔装以上の防御は存在しない。いや、正確にはない事もないが、それは防御というより回避に近いため、使える状況が限られてしまう。何より、この不安定な空間でそれをしようものなら、異空間そのものが潰れ兼ねない。
だが、それを差し引いたとしてもお釣りが来る成果。丁度、ここに来てから2分が経過しようとしていた。出来るだけ長くと考えているレイにとってはまだまだだが、魔王にとっては戦力の三分の一が減ったのはかなり痛い損失である。
しかし、レイは閉じ込める魔王を間違えていた。事ここに至っては、厄介な技を持つ二人を残してしまっていたからだ。
触手を操る魔王の目が、怪しい紫苑の光を帯びる。それを注視した時──
「なっ……!」
レイが驚愕に顔を歪める。それは、己の左腕が、いや正確にはその先端に当たる手首が、レイの意思に反して牙を剥いたからだ。
先に仕掛けたのはレイ。だが、先に仕込んでいたのは魔王だった。
まるで蛇の顔のように、自らの首を締めようと動く左手。レイが咄嗟に肘を伸ばして、それを遠ざけると、左手全てを拘束するかの如く、時計回りに手首がねじれた。
「魔人形まで使えんのかよっ」
レイはグググッと骨が軋む音を聞きながら、左腕に力を込めて、抵抗を図る。しかし、この厳しい状況で腕を封殺されてしまったのは、痛い。しかも、もう一度掴まれれば、そこも魔王の支配に乗っ取られ、最後には自由を全て奪われる。
魔人形がこれほど厄介なものだとは思っていなかったレイは、実際に体験してその恐ろしさを初めて知った。だが、それと同時に対応策にも思い至る。
レイはおかしな方向に曲がっている左手を右手で抑え、無理矢理に前へと突き出すと余りある魔力を豪勢に放出した。
「魔弾!」
宇宙に浮かぶ太陽のように紅く煌めく大きな魔力の玉。それは、レイの体内に含まれてい他人の魔力も吸い出して、消滅させていく。いわば、毒を水で洗い流したようなものだ。
基本的に魔力は魔力でしか関与できない。例外は数多あるが、例えば魔力充填。一般的には、装備の強度や鋭さを強化するために使われるスキルだが、魔法や魔弾は、魔力が込められたものでないと斬れないし、防御もできない。
レイはこの性質を知っていたから、レイの体に侵入した魔王の魔力を無理矢理押し流したのだ。それにより、行き場を失い、役目も失った魔力は残滓となり世界へと消え失せた。
その代わりと言っては何だが、レイがこんな時のために貯めておいた魔力を、ふんだんというか、無駄に多く使い過剰なまでに膨らんだ魔力弾は、その大きさに見合わぬスピードで魔王達へと迫っていた。
一瞬、常の癖で空を足で蹴った魔王。スカッと抜け落ちた感触に、憎々しげに顔を歪めると、互いに触手を伸ばし、弾き飛ばしあった。
それにより残されたのは、断絶された空間の中にいる魔王だけ。ギリギリで隔離空間を解除すれば、まず間違いなく当てる事は出来るだろう。
だが、レイは解除しようとはしない。
理由は2つ。
1つは、ただ大きいだけの魔弾では、大したダメージが与えられないこと。そんな僅かなダメージのためにせっかく捉えた相手をみすみす逃すのは馬鹿らしい。
もう1つの理由は、先程まで固まっていた魔王がバラバラに別れたこと。このまま上手く回られれば、挟み撃ちにされる。
それは、避けたい。だから、レイは隔離空間にぶち当たる前に、それらを散開させる事にした。
意趣返しでもするかの如く、無数の弾へと姿を変えたそれは、片方にだけ飛来した。先と同じく動きを止める役割を与えられたそれは、一度ではなく、複数回に分けて衝突と消滅を繰り返す。
それが数度繰り返された後、真似された事に魔王は、不快な感情を抱きつつ、魔装による防御をやめ、触手による攻勢に切り替えた。
二人同時に、触手の数が20を超えて、魔弾を撃ち墜とさんと動きを見せる。
と、そこへ援護はさせないとばかりに、もう片方の魔王にレイは水弾を飛ばした。その水弾の供給源となる収納空間から、大量の水が溢れでており、それを即座に固めて飛ばすレイ。
魔弾同様に威力はないが、所詮は時間稼ぎ。倒すのが目的ではない。
無重力のせいで、簡単に弾き飛ばされる魔王は、詰めた距離を離されないよう、水弾を一々触手で落とさなければならなかった。速さ優先で飛んでくるそれらを撃ち落とすのは、バットで球を打つ作業に似ていた。クルッと軌道が変われば、撃ち漏らしてしまう。
だからか、両魔王は次の一手に打って出た。
魔弾を相手にしている魔王は、触手から同じく魔弾を放ち、迎撃に当たった。
一方で、水弾を叩き落としていた魔王は、何本かの触手を合わせ、4つのプロペラを作った。それをまるで盾を使うかの要領で、回転させて水弾を弾く。
「やっぱこんな半端な攻撃は効かないか」
わかっていた事ではあったが、これでは足止めにすらならない。レイは己に迫る触手を、飛行して交わしながら、水を飛ばすのをやめて、短剣を投げ付けた。
「今日は随分大人しいではないですか。いつもは捨て身だというのに……本当に私を倒す気はないようで。その怠慢、後で後悔する事になりますよ」
シュババッと数本まとめて飛来した短剣を触手一本で叩き落としながら、魔王は自由に空を舞うレイに、触手と魔弾を飛ばす。
「生憎と、今無茶をする理由はないからな」
レイはクルリと体を回転させ回避行動を取ると、術式が刻まれた魔石を取り出した。それをまたしても投げ付けながら、爆風を利用して触手と魔弾もろとも自分を吹き飛ばし距離を取ると、翼をはためかせ停止する。
そんなレイの逃げ一択の戦法に痺れを切らした魔王は、一度全ての攻撃を止めた。
「小手先の技ばかり、鬱陶しい。初めは面白い趣向かと思いましたが、いい加減この環境にも嫌気が指してきました。終わらせましょうか」
「そう簡単にやられるか」
レイは何が狙いだと魔王の動きを注視する。まばたき1つ見逃さないと、強い眼力で睨みつけたレイを嘲笑うかの如く、魔王がその身に秘めた莫大な魔力を高鳴らせた。
「いいえ、もう終わりです。時間稼ぎをする相手には、そんな暇など与えず、圧倒的な力で叩き潰せばいいだけのこと」
10や20で利かない、100を超す触手をまるで蜘蛛の足のように体から生える。
それが、二人。言葉通りのごり押しだ。
「何秒持ちますかね」
──5分まで残り2分。
「捕まえてみろよ、百足野郎」
明確過ぎる技量差を見せ付け、そして、魔王による蹂躙が始まった。