大人扱いってのはそういうんじゃなくて
――大人扱いっていうのは、そういう意味なんかじゃなくて。
――克美はどうして欲しいの、俺に。
確かに思っていたし、口にもした。
「二十歳になったら、もっと大人扱いしてよ」
って。だけど。
「んじゃ、留守番をよろしくねっ、店を開ける時間までには帰るから」
「~~~~っ!」
行き先を言わない。時間を気にして時計ばっかり見ている。着ていく服を相談しない。こういう時は絶対に。
「また花街へ行く気だろっ!」
「げ、ばれた。でも、もう大人なんだからオトナの事情を解ってよ」
名探偵よろしくビシリと辰巳を指差した人差し指が、ぐにょんと反対方向へ捻じ曲げられた。
「だからそうやってすぐゲロするとか、そういうのは大人扱いって言わない!」
捻じ曲げられた指ごと右手を思い切り辰巳のほうへ押しやる。
「あだぁっ! マジ痛いっ!」
「ざま」
残りの指で思い切り目潰ししてやった。
克美は玄関先でのた打ち回る辰巳をそのまま放置して自室へ引きこもった。
「くそっ! 死ねっ! バカ辰のクソ野郎!!」
バルーンタイプのサンドバックを渾身の力で蹴り上げる。転がしても蹴飛ばしてもぶん殴ってもへこたれない。変わらずへらへらと笑った某国大統領を模したソイツのへらっとした笑顔までが段々と憎たらしくなって来て、やめた。
大人扱いっていうのは、そういう意味なんかじゃなくて。
「ほかにも、いろいろあるじゃんか……」
ほかにも、という具体的な例を思いめぐらせてみる。例えば……。
「R指定の映画を一緒に見に行く、とか?」
ホラーならオッケーかもしれないけれど、エロ系だとこっちが嫌だ。
「店の経理を丸投げしてもらう、とか?」
なんか苦労が増えそうだ。辰巳の唯我独尊に拍車が掛かりそう。
「店の権限をボクにする?」
……既にほとんど自分一人で店番していることが多くなってる気がしないでも、ない。
酒も許可をもらって買ってくれるし、煙草は自分が吐きそうになってダメだった。夜遊び、なんてことも考えたけれど、一緒に遊ぶ相手がいないことに気が付いた。レンタルショップやコンビニも、もう一人で行っても叱られないし。
「大人扱いって……なんだろう」
自分で言い出しておいて、解らなくなって来た。
そうだ、夜桜でも見に行こう。
ふと思い立った。あの温泉街にあるもぐりの病院近くに佇む、ソメイヨシノの老木のところへ。
最近あの頃が懐かしい。素直に辰巳へ「だいすき」って言葉に出来たあの頃が。「俺もだよ」って口にしてもらえていたあの頃に戻りたくて、克美は辰巳の部屋へバイクの鍵を借りに行った。
「あれ? 結局行かなかったのか」
扉の隙間から光が漏れている。その割には何かしている気配はないけれど。
「辰巳」
ノックをしても返事がない。寝ているのかと思い、そっと扉を開けた。
「……何してんの?」
照明もつけていない薄暗い部屋の中、辰巳は真正面にあるデスクに座り、パソコンの画面と睨めっこしていた。束ねた髪が彼の耳元を晒し、ヘッドホンの存在を克美に知らせた。だから返事がなかったのか。
ちょっとした悪戯心。喧嘩のあと、巧く謝れないときに克美が使う常套手段。
(おどかしてやろうっと)
忍び足で辰巳の背後に近付く。それも四つん這いになって。部屋での辰巳は無防備だから、屈んでさえいれば大抵調べ物に没頭していて気付かない。
「なーに見てんだっ」
叫ぶと同時にヘッドホンを外す。勢いがよ過ぎて端子がパソコン本体から外れた。
「のぁっ!」
と叫ぶ辰巳の声より。
「あ……あ……あっ! イく! イく……ッ!」
スピーカーから流れてくる女の喘ぎ声のほうが大きかった。
「……な、に……見てんだ」
という声とともに、右足を上げる。
「ま、待てだからほらオトナの」
「食らえ天誅!!」
右足が辰巳の脳天にクリティカルヒットした。
「克美ちゃ~ん……まだ怒ってる?」
扉の向こうから声がする。布団を被って蓑虫になる。頭では解っていても、生理的に認めることが出来なかった。
「入ってもいい?」
「入んな! 変態エロ!」
「……」
今のはちょっと、言い過ぎたかもしれない。
「あーのさぁ。克美はどうして欲しいの、俺に」
扉の向こうでがっくりとうな垂れて困り果てた顔をしている辰巳が浮かんだ。
「お兄さんもね、これでも一応健全男子なんですよ。お前さんもお客から散々俺のこと聞かれて、なんとなくどういうもんかってのは解ってるんでしょ」
遊びに行くくらい許してよ、って。
「んなもん、許可もらって行くもんじゃないだろ!」
がば、と跳ね起き扉へ向かって怒鳴る。自分でも言ってることがメチャクチャだとは思うけど。
「だって、バレたら嘘つけないじゃん」
「バレない嘘ついて行けばいいだろ!」
「隠してるつもりだったけどさぁ。それに大人扱いしろ、って言ったじゃん」
「ボクが言ってるのはそういうんじゃなくて!」
「じゃ、どういうのが大人扱いなのよ」
「う……」
「克美の納得する形の大人扱いっての、教えてよ」
理解しなくちゃいけないんだ。頭じゃなくて、心から。それが男なんだからしょうがない、って。
前は解っていたつもりだったのに。まだ「克也」と名乗っていた頃のほうが解っていたのに。
あのときの自分を思い返す。翠を異性として好きだった頃の自分の気持ち。
翠の気持ちを知りたかった。翠の好きなものを好きになりたかった。そのために絵画展にもいっぱい行ったし、映画鑑賞も翠が好きだったから好きになった。
翠が似合うと誉めてくれた服は、予備に同じものを何着も揃えて長持ちさせた。翠が喜ぶことをあれこれ考えて、それを先回りしたとき翠が喜んでくれた瞬間、自分も幸せだと思っていた。
辰巳が好きなものを好きになれば理解したことになる?
辰巳が見るものを見て好きになれたら、辰巳を理解出来たことになる?
辰巳が好きなことをしてみれば、もっとメンタル的な意味で大人になれる?
そうしたら、大人扱いしてくれる?
「ねえ、克美」
「……見せろ」
「は?」
「さっきの。続き、ボクも見る」
「はぁ!?」
後悔先に立たず。それに気付いたのは、実際にそれを目の当たりにしたときだった。
やっぱり普通じゃないと思う。暗がりの中で光るモニター。住人以外の女が絞り出す喘ぎ声。
辰巳と目が合ったら後悔すること請け合いなので、視線は必然的にモニターへ釘付け。多分辰巳もおんなじわけで。自分の前で椅子に座って同じモノを見ている頭は微動だにしないどころか、指一本さえ動かない。
段々と脂汗が噴き出て来た。女の声が耳障りで苛々する。
(やばい……気持ち悪くなって来た……)
モザイク処理無とか、グロ過ぎる。こんなもん見ておっ勃てられる野郎の精神構造が解らない。どう妥協しようとしても、理解しようと足掻いてみても、その“野郎”の一人が辰巳だと思うと……。
「あだっ!」
「もういい!」
やっぱり形のいい後頭部を張り飛ばしたくなった。
リビングのソファでごろごろと身を持て余す。キッチンからは辰巳の淹れるコーヒーのいい匂いが漂って来る。
「ほい」
辰巳はことんとカップを置くと、顔も上げずにそのままキッチンへ逃げた。
気まずい思いでコーヒーをすする。それはいつもと変わらず絶品だ。何も言わなくても、体調に合わせて微妙に濃さと豆の種類を考えて淹れてくれる、辰巳だけにしか淹れられない味だった。
「こら、エロ兄貴」
「はい……」
今回はやっぱり、自分が悪い。全部ひっくるめて辰巳なのに。綺麗ごとの理想論を押し付けた。
「却下なしな」
「は?」
「藪じいんトコの傍の公園へ行きたい、今すぐ」
「い、今から?」
「今から!」
「もう夜中の二時だよ?」
「いいの!」
「提灯とか、あそこにはないよ?」
「行くの!」
あそこでしか、素直な自分に戻れそうにないから、今は。
「じゃ、風を切るのは寒いから車を出そ」
「タンデムがいいの!」
「……さいですか……」
キーを取りに行く辰巳の後ろ姿は、まだしゅんと肩を落としていて、気の毒なほど情けなく見えた。
冷たい風が、今は丁度いい。それにかこつけて、素直に辰巳にしがみつける。
「寒くないかー?」
前から辰巳が問い掛けて来る。
「きもちいーっ!」
叫ぶと同時にきゅっと辰巳の腹へ回した腕に力をこめる。腹筋が、動いた。笑ってる。ただそれだけでほっとした。
提灯なんか、要らなかった。月明かりがほどよく桜を照らしてくれていたから。
(きれい……やっぱ夜桜が一番だねっ)
小声でそう言ったとき、やっと辰巳の顔を見ることが出来た。
(こんな時間に来たことがないもんな。穴場な時間帯かもしれない)
藪ちゃんに会わなくて済むしね、と辰巳もくすりと笑って言った。
桜の足許に設置された簡素なベンチへ腰掛ける。しばらく無言でお互いに背もたれへ頭を預け、頭上の夜桜に魅入っていた。
(酒、買ってくればよかったな)
(だね。あと、つまみにジャーキーとかも)
ごめんね、とやっと言えた。
(何、コンビニを思いつかなかったってこと?)
いや、全然違うし。視界から夜桜が半分だけ消えた。
(あ、なんて顔するんだよ。半目で睨みつけるなっつーの)
本気で解っていなさそうだから、頭を起こして全力で睨みつけてやった。
(な、んですか……)
途端怯えた目になる辰巳。まだ理不尽な罪悪感を持っているままっぽい。
ぱふん。
(……ボクが、悪かった。大人大人って、うるさ過ぎた)
顔を見ては言えないから、あの頃みたいに辰巳の膝の上に乗っかって抱きついたままでそう言った。
(だから、辰巳はそのまんまでいい。ただ、ボクはまだ子供だから、見えないようにだけしてよ、オトナなところ)
ボクをまだ十一歳のときみたいに思ってよ。まだもうちょっとだけ甘えさせてよ。
大人になってから、逆にそう思うようになった。辰巳がどんどん離れちゃう気がして。
「辰巳、だいすき。ごめんね」
素直にそう口に出したら、つかえていたものが取れた気がした。
「……ありがとうさん」
辰巳は、「俺もだよ」とは言ってくれなかった。だけど、子供に返って抱きついている自分を、無理矢理引き剥がすこともしなかった。
大人扱い、半分だけ。いろいろ引っ掛かるものがあったけれど、これ以上辰巳を困らせたくなくて、無理矢理自分へそう言い聞かせた。
やっぱり早く大人になりたい。こんな中途半端じゃなくて。
辰巳にそう零したら、
(焦ることないさ。お前さんのペースでいいじゃんか)
と耳許で囁いてくすりと笑った。