#一 偶然の目撃
“カツッ、コツッ、スー”
シーンと静まり返った教室の中に響く、緑の黒板に白いチョークで書き込まれていくやけにリズミカルな音を、心地良い陽気を感じながら、俺はただボーっと眺めていた。
周囲の席のクラスメートは皆、小気味良く黒板に書き込まれていく文字を追いながら、それをノートに書き写している。
ゴールデンウィークも明け、新しいクラスにも少しは慣れ始めてきていた五月初旬。とはいえ、この学校は中、高、大、一貫の私立学校。さすがに六年もこの学校に通っていると、毎年クラスが変わるといっても、殆どが知った顔になっていて、特に目新しさはなく、新しいクラスに慣れるという感覚が薄れている…。
そんな事を考えながら黒板に次々と書き込まれていく文字を自分のノートに写していった。しばらくすると、視界に捉えていたノートが眩く輝きだした!と言っても、ファンタジー世界にありがちな非科学的な神秘現象ではなく、雲間から降り注ぐ陽の光が窓から入ってきて、机の上を照らしたというだけのこと…。
俺の席は東側の窓際の席で、冬場にこういう陽の光は差し込んでくると、暖かくて良いのだが、初夏の気候が日に日に強くなってくるこの時期は暑くて嫌になる…。虫眼鏡で焼かれる蟻の気持ちが少し解る気がしたりする…。
斜光に照らされたノートを凝視していて、さすがに眼球疲労を覚え、そんな陽光に誘われて窓の外に目をやる。
小高い山を切り開いて開校したこの学校は周りを様々な木々に囲まれていて、四季によって様々な色を楽しむことが出来る。既に桜の花びらは散っしまっていて桜の木は緑の葉を身に着けているが、三年に進級したての先月は、学校の敷地内に植えられた桜の木にぷらすして、元から山に自生していた山桜が他の木々の緑の中に溶け込んで、授業中の退屈な時間に彩りを与えてくれた。
そんな緑の景色に少しばかりの名残惜しさを覚えつつ、遮光の為に少しカーテンを引き、再びノート写しの作業に戻った。
「ざわざわ」
しばりくして、授業も終わりに差し掛かったころ、急に下の方が騒がしくなってきた…。そのざわめきに誘われ、カーテンの切れ目から目線を階下の中庭にやると、体育の授業が終わった生徒達が戻ってきたところだった。袖輪色が緑という事は一年生。
この学校では入学した年で体操服の袖の輪の色が異なり、今年の一年は緑、二年は黄、三年は赤。と色分けされている。この色分けはローテーションになっていて来年入ってくる新一年生は、今の三年生の色、つまり赤になる。
ぼんやりとその群れを眺めていた次の瞬間、目に入ってきた一人の少女に釘付けになってしまった!
一年とは思えない姿。スレンダーと言った方がシックリくる身体、ぼんやりとしか見えなかったが、その顔はかわいいというより美人という言葉がピッタリだと思った。
その姿が見えなくなっても彼女が歩いて行った先を見詰めていた…。
「柊!」
その時、一際甲高い声が教室中に響いた!
ハッと我に返りその声の方、教壇を向いた!すると教壇に立っているはずのウチの担任で、社会科担当の城美純子先生が目の前に居た!
「何ボーっと外を見てるの?ちゃんとノートをとりなさい」
少し強い口調だったが心底怒っているという風ではなかった。
「す、すいません」
教室中の視線を一気に浴びてしまった羞恥に驅られながら、シャーペンを手に取りノートに視線を落とした。
…そんなに長い時間見ていたのだろうか?
先生はくるりと振り向くと教壇へと戻って行った。気の強い女性だがまだ教師二年目の二三歳という若さ。クラスの生徒からは『先生』ではなく、『純ちゃん』と呼ばれる事の方が多い。本人も『先生』と呼ばれるよりその方が良いのか?止めさせようとはしない。しかし気の強い性格から怒ると怖い…。気さくな性格と、ルックスが美人家庭教師を連想させるため、男子女子問わず生徒の人気はかなりのも。
『キーンコーンカーンコーン〜〜』
そうこうしている内に終業のチャイムが教壇頭上のスピーカーから鳴り響いた。
「はい、じゃあここまで」
「きりーつっ」
純子先生の言葉に素早く反応するクラス委員長。俺には出来ない芸当だ。
挨拶を済ませた純子先生は足早に教室を出て行った。
「おう、良かったな」
ノート、教科書を片付けている俺に、背後から声がした。俺の後ろの席の友人、佐久野豊だ。
「何が良いんだよ?先生に怒られてんのに」
大の純子先生ファンの豊が何の事を言おうとしているのか、瞬時に察し、俺は返答した。
「ま、お前には解からんか?いーや、弁当にしようぜ」
そう言って豊は椅子を俺の机の前に移動させた。そんな事をしなくても俺がそのまま後ろを向けば早いのに…。
(そういえば、もう昼休みか)
豊と他愛のない会話をしながら昼食を摂っていたが、豊との会話、昼食に意識が向かなかった、理由は、先刻の一年生の事が頭から離れなかったから…。
その事を意識すると自然に箸の進みが早まっていった…。
「お前早いな!どうしたんだ?」
あからさまに弁当が減っていく様子を見て、豊が言った。
「ん!?ちょっと用があって…」
豊の問い掛けに適当に答え、残りの弁当を口にかき込んだ。自分でも何がしたいのか判らなかったが、ただ行動しなければ居ても立ってもいられなくなった。
「豊っ悪い、お先っ」
言って、早々と空になった弁当箱を片付け、教室を出た。
(何してんだ俺!)
頭では冷静になれ!と念じているが、体がそれに従わない!
教室を出て、廊下を進み、足早に階段を駆け下りていく…。向かっている先は一年のフロア。
一年のフロアへは、四階から一階へ下りて、さらに中庭を横切り、隣の校舎へ行かなければならい。
途中で少し冷静になり、三年である自分が一年生のフロアへ行くのはどうかと思い、一瞬足を止めたが、もう一度あの一年生を見たいという気持ちに負けてしまい、ゆっくりと歩を進めた。
とにもかくにも一年生のフロアに到着してしまった…。想像したとおり廊下ですれ違う一年生は一往に『何だ!』という表情でこっちを見ている。アッチからすれば何事だ!?という感じなのだろう。
あまりにもバツが悪いので足早に見て回った…。空いている扉や窓から、歩みを止めずに教室内を探ってみる。
一年生のフロアは東棟の一階と二階の全フロアと三階の一部という広さ。ちなみに三年は西棟の二階の一部と三階、四階。
一階の教室内、廊下で先刻の女子生徒を見付ける事ができず、二階へ上がろうとしたが、さすがに居た堪れなくなり、これ以上の探索は諦め一年のフロアを後にした…。心残りの何とも言えない気分を抱えながら…。
どうしてこんな気分になるのか自分でも解からなかった。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
教室に戻ると数人の男子しか居なかった。
(そうか、五時間目は体育か…)
渋々、制服から体操着に着替えを済まし、グランドへ向かった。今日の体育の内容は確かテニスだった。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
いつもはグランドまたは体育館で行われる体育の授業だが、今日の授業内容がテニスということで、テニスコートに二クラスの男子生徒が集合している。
「柊ぃ〜」
準備運動と、体育教師の簡単な説明の後、力の無い声が俺を呼んだ。クラスメイトの伴城武だ。
「何だよ?トモ」
伴城の言いたいことの大体の見当は付いているが、一応訊ねてみた。
「勝負しよーぜ、俺の相手になんのお前だけだから」
「あ〜!?オメー、テニス部だろ。俺が勝てるわけねーじゃん」
正直面倒なので、わざと邪険に対応するが、
「謙遜すんなよ。お前が居なくなったから俺がキャプテンになれたんじゃん」
「・・・・・・・・」
伴城の言うとおり、俺は三年に上がる前までテニス部に在籍していた。今は何の部活にも所属していないが。
「…別に良いけど」
あまり気が進まなかったが、久々に俺と打ち合えるからか?嬉しそうにキラキラと目を輝かせている伴城との勝負を受けた。
先生も俺とトモの試合を快く許したためコートには俺とトモしか居ない。先生がこの勝負を拒否してくれれば、まだやらなくて済む!という俺の微かな望みも絶たれた。
『パカァーン ポカァーンッ』
激しく行き来するテニスボールを先生を含む全員が追っていた。
五面あるテニスコートの中央にあるセンターコートで、俺とトモが行われている。先生は他の生徒に、空いているコートでラリーや試合形式の打ち合いを命じていたが、誰もその指示に従わず、皆適当に固まって、センターコートを取り囲み、この試合を観戦している。
衆人環視の中、本格的な実戦をするのは久しぶりで、最初は気乗りしなかったが、幾度かラリーの応酬を繰り広げる内に、心身ともに楽しさに奮えていくのを実感した。
ブランクのある俺に、トモは簡単なボールを打ってくる。これは気遣いか?挑発か?ともかく、そのトモからのボールがその感覚を俺に思い出させてくれる。
「おお!」「すげー!」
普段、テニスをしたことがない者、ライブ観戦をしたことがない生徒達が、俺とトモの“お遊び”ラリーに歓声を挙げる。
現役の頃の動きとは到底言えないが、それでも体が動いてきた所で、俺はこのお遊びに終止符を打つようにトモに本気のスマッシュをお見舞いする!
「おわっ!」
俺からの突然の宣戦布告に少し体勢を崩しながらもそれを返してきた!
トモとは数えきれないくらい、何度も試合をしたことがあるが一度も負けた事は無い。しかし、今相手をしているトモはその時とは比べものにならないほど強くなっている。俺が現役を退いて腕が鈍っているのもあるだろうが、今はテニス部主将になった実力だ。強くなっていて当たり前か。
本気のラリーが数十分間続き、時間の経過とともに精細さを増していく俺の動きが徐々にトモを圧倒していく。
周囲の歓声が耳に入らなくなった時、
『パコーンッ』
俺が放ったボールが鋭い閃光の様にトモの脇をすり抜けた!
「ゲームセットっ、ウォンバイ柊っ」
審判をしていた先生が叫んだ瞬間、周りで見ていた生徒達から自然とどよめきの様な歓声が挙がる。
自然と俺とトモはコートの真ん中で、ネットを挟んで握手する。
「ふーっやっぱり強いよお前は。…テニス部に戻れよ、今からならまだインハイ間に合うぞ」
トモは笑顔でそう言うと、ラケットをクルクルと器用に回しながらその場を去った。
そう言われても俺はテニス部に戻る気はない…というより今更戻れないだろう。
そんなこんなで一日は終わっていく。午後の久しぶりのテニスで少しは気が晴れたが、それでも心の底にモヤモヤした得体のしれない感情を残して…。
同じ学校の生徒だまたいつか会える…そう自分に言い聞かせた…。