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365日の初恋  作者: 川本流華
6/8

決心の日

 綾瀬は一命をとりとめたもの、二週間を過ぎても意識不明のままだった。そして、面会できるようになったのはそれから一ヶ月も先のことだった。

 背中に背負っていた楽器がクッションになって大事は避けられたと言うことだが、楽器を演奏するには相当のリハビリが必要とされた。

 いつもギターを背負っていた綾瀬の姿を思い浮かべ、葵はそれがどれ程の苦痛かを感じた。

 葵はただ謝り続けることしかできなかった。

「本当にごめんなさい」

「もういいよ。あれは俺が悪かったんだから」

綾瀬は笑顔で話した。

 葵は毎日見舞いに来た。面会謝絶のときも含めて毎日訪れた。

 あれ以来ハルの顔は見ていない。相変わらず授業に出ることは無く、恐らくは旧校舎にいるのであろうが、事故のことを思うと、綾瀬の気持ちを思うと会いにはいけなかった。

「あいつとは会った?」

「えっ?」

思いがけない話題に葵は口を間誤付かせた。

「いや、あの…… 会っていない」

葵の言葉に綾瀬は息をついた。その息がため息なのか、胸を撫で下ろす呼吸なのかはわからなかった。

「誤解は解いておいたほうがいいよ。本当なら俺がするべきだけど、こんなんだから……」

綾瀬の言葉に葵は静かにうな垂れた。

(……でも、どんな顔をして会えばいいのだろう)

その様子を見て綾瀬は明るい口調で続けた。

「俺、頑張ってリハビリするから。それで退院したらあいつに宣戦布告してやるんだ。秋月を幸せにできる人間がどっちか勝負しろって」

綾瀬はニィと笑った。

(真っ直ぐな人だなぁ)

葵はその笑顔に救われた気がした。

 葵はフフッと笑うと、窓の外の空を眺めた。

 それから綾瀬が退院したのは二ヶ月も先のことだった。気付けば夏休みも終わり、学校は学園祭の準備で盛り上がっていた。

 結局その間、葵が旧校舎に行くことはなかった。しかし、綾瀬が退院した今、先に一度話しておかなければならないと思った。あの日のことをありのままに、そして、今の自分の気持ちを話さなければならないと思った。

 そして、あの日から三ヶ月と二週間ぶりに葵は旧校舎へと向かった。

 その日は半日授業で昼前に学校は終わった。にもかかわらず、辺りは学園祭の準備で賑わっていた。その中で葵は足を震わせ、それでも一歩ずつ歩いていった。

 旧校舎の美術室の前、葵は大きく息をすると、ドアに手を掛けた。鍵がかかっている様子は無かった。

 ハルの優しい笑顔が浮かんだ。きちんと話せばあの日のことは誤解だとわかってくれる。その後、私の想いが届かなくても今はそれで十分。自分に言い聞かせるようにして、葵はドアを開いた。

 葵は異様な光景に目を丸くした。

 そこにはハルの姿は無かった。そこにあったのは、ばら撒かれた絵の具や撒き散らかったペンキと壁一面に描き途中の絵だった。狂気さえ感じるような情景に、葵は息が止まった。

(……ハル?)

思わず後ずさりをして部屋から出ると、葵は慌てて駆け出した。

 職員室に向かった葵は担任にハルのことを尋ねた。すると、ハルは家庭の事情で夏休み前に退学したとのことだった。

 葵は荒立った息を整える間もなく走り始めた。二人で歩いた坂を駆け下り、時に道に躓くと、その都度に溢れるハルとの思い出を巡らしながら駆けていった。

 ハルの家の前に着くと、葵は息を切らし膝に手をついていた。しかし、息を整える間もなくインターホンを鳴らした。

 何度鳴らしても出ないため、今度はドアノブを回した。

 鍵はかかっておらず、開いたドアから目の前に広がる部屋には何も無かった。

 一緒にご飯を食べたテーブルも時計も何もかも無くなっていた。

「……どうして?」

ようやく口を開いて出た言葉は、留まるところ無く消えた。

 葵は覇気を無くしたまま学校に戻った。そして、図書室に向かうと演奏旅行について調べた。生憎、新聞にはそれらしい記事は見当たらなかったが、インターネットには情報が記載されていた。


“天才少年に暗雲 父親一ノ瀬アキラと同じ病気か”

“難聴に苦しむ天才 次は手の痺れ”


 記事によるとハルの父親は次第に五感が麻痺する病気だったらしい。脳の病気と推測されるが詳しい原因がわからず、遺伝性のものかもわからないため、ハルは定期的に病院で検査を受けていたようだ。演奏旅行は最初の一公演で降板。その後は現地の病院で検査をしていたという。

 葵は旧校舎の美術室に戻った。

 数時間前に入った時はまるでハルが乱心しているような怖さがあったが、改めて見るとそんな様子は微塵も無かった。

 ただ、苦しんでいた。

 壁の絵を見ると途中で色が変わっていた。自分が何の色を使っているのかわからないように見えた。

 筆があまりに振るえ、途中からは指で描いている様子だった。

『夕陽とかって色が変わって見えそうだけど、あまり関係ないのかな?』

『……そうだね。でも、今はそれがちょうど良いんだと思う』

ハルとの会話が思い出された。

 そして、ハルが出発する日。

『帰ってきたら話そう』

そういったハルの背中は震えていなかっただろうか。

 自分のことしか考えず、相手のことを見ていなかったのは自分だったのではないか。天才と呼ばれた彼がその才能を奪われたときにどれほど辛かったか、自分には想像できない。

 葵はその場に座り込むと、真っ直ぐに大粒の涙を流した。

 ハルにはこのように見えていたのだろうか、壁に描かれた描きかけの絵は目を細め満面の笑顔を向ける葵の姿だった。

 ハルと出会ってちょうど一年。ハルのいない美術室で葵は声を殺して泣いた。


 次の日から葵はハルを探し始めた。学校の誰に聞いても、ハルが住んでいたアパートの周囲の人に聞いても誰も行き先を知らなかった。

 まるで突然消えたかのような、まるで最初からそこにはいなかったかのような印象だった。

 葵はハルの治療ができそうな病院を探しては手当たり次第に電話をかけた。外国の可能性もあるため片手間で英語を勉強し、すぐに会いにいけるようにパスポートも取った。しかし、何一つ手がかりがつかめなかった。

(どこに行ったの?)

美術室の壁に描かれた絵を眺めながら、葵は視界を滲ませた。

 ハルを信じているつもりになっていた。ハルが自分をどう思っているか、そんなことは関係ないと自分の想いが大事なんだと言い聞かせた。しかし、奥底ではハルを疑っていた。自分の心は折れていたのかもしれない。

(ハルの心をひとりぼっちにした)

葵は窓の外に目を移した。すがる様に空を眺めて、そして、俯いた。

 誰もいない旧校舎に足音が響いた。それは美術室に向かっているようで葵は慌ててドアに向かった。

 葵がドアを開けると、そこには驚いた表情の綾瀬が立っていた。

「急にドアが開くからびっくりしたよ」

屈託のない笑顔を向ける綾瀬から葵は視線を逸らした。

「どうしたの?」

葵は精一杯明るく振舞おうと努力したが、顔は引きつり、唇は震えていた。そんな葵を見て綾瀬は淋しそうな目を向けた。

「うん。俺、軽音楽部だから文化祭で歌を唄うんだ。楽器はまだ無理だけど、一生懸命唄うから観に来て欲しい」

綾瀬はポケットからチラシを取り出すと葵に差し出した。葵からの反応はなく、聞こえているのかもわからない様子だった。

「俺は秋月にそんな顔はさせない」

綾瀬は言葉を続けたが、葵の反応は変わらなかった。

 綾瀬は葵を抱き寄せようと一歩踏み出した。

「いや……」

葵は手を伸ばし綾瀬の胸を押し出した。

「……ごめん。部屋に入らないで」

葵は抱きしめようとする行為よりも先に綾瀬が部屋の中に足を踏み入れる行為に反応した。

 部屋の敷居を境に確かな境界線があるように感じた。

「ごめん」

綾瀬は一歩後ろに下がった。

 葵は大粒の涙を溢していた。本人も気付いていない程、自然に涙がこぼれていた。

 綾瀬は言葉を失い、不謹慎ながらその姿に見惚れた。自分は他人のためにこれほど真っ直ぐな涙が流せるだろうか。そう思うと二度手を伸ばすことはできなかった。

 綾瀬は何も言わずに立ち去った。

 葵は遠ざかる足音を聞きながら、その場に座り込んだ。

 綾瀬の落としたチラシが目に入った。

『三年の文化祭では唄って欲しいな』

ハルの言葉を思い出した。

 ハルの言葉、ハルの姿を思い返すと、不思議と優しい気持ちになれた。

 葵は穏やかに微笑んだ。自分にも出来ることを見つけた気がした。そう思いながら窓から空を眺めた。

「……いいよね」

確認するように笑顔を作ると、葵は強く頷いた。

 そして、文化祭の前日に葵は休学を申し出た。


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