クリスマスイブ
冬休みに入ると、賑やかだった学校は途端に景色を変えた。部活をしている声が遠くで聞こえる程度で美術室内は呼吸の音が聞こえるくらい静まり返っていた。
その中でハルは絵を描き、葵は曲を作る練習をしていた。
「うるさくない?」
葵が尋ねると、ハルは決まって微笑みながら首を横に振った。
ハルは自分のことをどう思っているのだろう?
なぜあの日のことを聞いてくれないのだろう?
葵は胸にわだかまりを抱えながら、ハルの背中を見つめていた。
冬休みは夕方になると校門を閉めるため帰宅しなければならなかった。ハルの作業も例外ではなく、二人は太陽が夕陽色に変わる頃に片づけをして帰宅をした。
葵はハルと帰る時間が特に好きだった。夕陽と並びながら坂道を下っていき、狭い道を通るときに車が来ると手を取ってくれることもあった。
夕陽色に染まるハルの頬を見ると嬉しくなった。少し照れて俯くと繋いだ手の影が伸びていて、それがまた嬉しかった。
葵がアハハと声を出して笑うと、ハルはいつもどおりの穏やかな表情で微笑んだ。
ある日の別れ際、葵は繋いだ手を強く握り締めた。
「あ、あの……」
緊張から葵の声が少し上ずった。真剣なその顔にハルは首をかしげた。
「クリスマスイブの予定ってある?」
葵の言葉にハルはゆっくりと微笑んだ。
「家で母親が作ってくれた料理を食べるかな」
「そう……」
葵が残念そうに俯くと、ハルもまた葵の手を少し強く握り返した。
「よかったら、家に来る?」
思いがけないハルの言葉に葵は目を輝かせた。
「俺は父親がいないから毎年母親と過ごすようにしているんだけど、よかったら……」
ハルは葵の顔を見て言葉を止めた。
(嬉しい)
葵の心にその一言が溢れた。
一杯の幸せが一瞬で溢れた。
一粒の涙が真っ直ぐ落ちた。
ハルは一つ頷くと、空いている手で葵の涙を拭った。
「うん、行く」
ハルは葵の頭を撫でると、手を引いて歩き始めた。
葵は空を仰ぐと、まるで母親に喜びを語るようにニッコリと笑った。
イブ当日、葵がメモで渡された住所に向かうと随分と古びたアパートが建っていた。天才少年、賞をいくつも取っており、習い事も多い、そのイメージとはかけ離れていた。
(ここ、だよね……)
葵が玄関前で戸惑っていると玄関のドアが開いた。
「いらっしゃい」
棒立ちの葵にハルはゆっくりと微笑んだ。
「驚いた?」
ハルの言葉に首を横に振ると、葵は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「初めて私服見た」
ハルはクスッと笑うと、俺もだよ、と笑顔で答えた。
「ほら、そんなところで話していたら寒いでしょう。中に入ってもらいなさい」
中から声がするとハルは目で頷き、葵を招きいれた。
中は外観どおりの間取りだった。一つの部屋とキッチン。トイレとお風呂は別にあった。
「生まれたときからこの家なんだ。狭くてゴメンね」
ハルは声をかけながら荷物とコートを預かった。
葵は、ありがとう、と荷物を渡すと部屋を見回した。
「引っ越そうと言っているんだけれどね」
ハルの母親は料理を運びながら言った。ポニーテールにワイシャツ、ジーンズと随分ラフな格好だった。
「高校生なんだから自分の部屋を持たないと」
「良いんだよ。ここは父さんとの思い出が詰まった大切な場所だから」
「でも、こんなかわいい子を連れ込むには……」
「うるさいなぁ。連れ込むとか言うなよ」
珍しく乱暴な言葉を使うハルに葵は嬉しそうに笑った。その表情を見たハルの母親は目を細めた。
「これから、いつでも来てね」
その優しい表情に葵は自分の母親を重ねた。病室でいつも微笑んでいた母親の顔が見えた。
「はい」
笑顔で答える葵にニッコリ笑うと、座って、と指先で促した。
ハルの母親から亡くなったハルの父親のことやハルが子供だった頃の話、自分が葵くらいの頃の話など色々な話しを聞いた。あまりに一方的な会話だったが、楽しそうな母親の表情を見て葵もまた楽しそうに笑った。
「あら、話しすぎたかしら?」
「かしら? じゃあないよ」
ハルの言葉に葵はドッと笑った。
「ごめんね、葵ちゃん」
悪びれた様子も無く言う母親の言葉に葵は笑顔で応えた。
「いえ、私は母が亡くなっているので何か嬉しいです」
「そう? いつでも遊びに来ていいからね」
優しい目で微笑むその表情は母性に溢れていた。
(お母さんかぁ……)
葵は心にじわりと温かいものが広がるのを感じながら、ハイっと笑顔で応えた。
ハルは黙ったまま一度視線を落とすと、窓の外に目を向けた。
「何よ、一人でたそがれて……」
ハルが視線を戻すと、母親が料理を目一杯頬張っていた。忙しい人だなと少し苦笑すると、葵のほうを見ていつもどおり微笑んだ。
「ごめんね、秋月さん。いつもはもう少し大人しいんだけど」
まるでペットのように言い扱うハルの言葉に葵はフフッ、と笑った。
「そうだ、秋月さん……」
「葵って呼んで」
その扱いに対する反応だろうか、ハルの母親は意地の悪い声で横やりを入れた。
「あき……」
「葵って呼んで」
「いちいちうるさいなぁ」
もう嫌だと天井を見上げるハルを見て、葵は声を出して笑った。
一瞬しんみりしかけた雰囲気が一転して賑やかに変わった。
その後は葵が家の話をしたり、ハルがヴァイオリンで曲を披露したりと和やかに時間が進んでいった。
ふと壁にかけてある時計に目をやると、夜の八時を回っていた。
「……そろそろ、帰らないと」
名残惜しそうに言う葵に二人は穏やかに笑った。同じ表情をする二人を見て、自分の顔も母親に似ているのだろうか、帰ったら父親に聞いてみようと思った。
「送っていくよ」
「うん、ありがとう」
二人が立ち上がり、支度を始めるのを母親は幸せそうに見つめていた。しかし、その瞳が哀しみを帯びていたことに誰も気付くことはなかった。
玄関で靴を履くと、葵は深く一礼をした。
「今日はありがとうございました。凄く楽しかったです」
太陽のように明るい笑顔を受け、母親は首を横に振った。
「こちらこそ、ありがとうね」
笑顔が溢れるその空間はいつもより明るく、真冬の玄関前にも関わらず少し暖かさを感じた。
「じゃあ、ちょっと行ってくるから」
靴を履いたハルの背中をポンッと一つ叩くと、母親は黙って一つうなずいた。
玄関の扉が閉まる間際、最後に見た母親の表情はやはり笑顔だった。しかし、どこか含みのあるものを感じた。
少し違和感を覚えハルの顔を窺ったが、ハルはいつもどおりの笑顔で応えた。
気のせいかと笑顔を返すと、二人は並んで歩き始めた。
「年末はまだ学校に通うの?」
「ううん。少し用事があるから、今年はもう行かないよ」
その回答に葵はあからさまに肩を落とした。ハルはフフッと笑うと、葵の手を握った。何も無いところで二人が手をつなぐのはこれが初めてだった。
「初詣、一緒に行こうか」
「うん」
葵はハルの手を握り返すと、マフラーに顔を埋めながら頷いた。
二人はそれ以上会話をすることなく、歩いていった。
「秋月さん、じゃあまた……」
「葵って呼んで」
葵はハルと向き合い目を真っ直ぐ見ると、ニコッと笑った。ハルは照れくさそうに頭を掻くと一つ息をした。
「葵。じゃあまた正月に」
「うん、またね。 ……ハル」
初めて名前を呼んでもらえた嬉しさ、初めて名前で呼んだ恥ずかしさに葵は耳まで真っ赤にしていた。
葵は踵を返すと少し早足で歩き始めた。時折振り返り、手を振るとハルも応えて手を振った。
あたりが暗くて葵は気付くことができなかった。ハルの表情が別れ際の彼の母親と同じだったことに、そして、あの玄関が閉まった直後に彼の母親がゴメンね、と呟いたことを知る由もなかった。