恋の予感
葵は放課後になると旧校舎へ向かった。昨日、一昨日もハルを訪ねたが美術室には鍵がかかっていた。
「今日はいるかな?」
扉に手をかけると、中から物音が聞こえた。葵は思わず手を引き、胸の前で構えると深く息をした。そして、一つうなずくと扉を開けた。
長く差し込んだ夕陽に葵は目を細めた。
シルエットになっている人影は動きを止め、入り口のほうに身体を向けた。
「こんにちは。 ……ごめん、名前を聞いてなかったね」
「秋月葵」
「そう。秋月さん、俺は……」
「知っているよ。一ノ瀬君は有名らしいから」
「『らしい』なら知っているかわからないでしょう」
目が慣れると、葵はハルが笑っている姿を見た。その屈託ない表情は幼い印象を感じた。
『……先生さえ近寄りがたいって感じなんだよね』
友達の言葉を思い返すと、葵はフフッと笑った。
「何?」
「ううん、何でも。入っていい?」
葵が聞くなり、ハルは教室の隅に重ねてある椅子を持ち出した。そして、教室の後方に置くと、どうぞ、と葵を招きいれた。
葵は微笑みながら頷くと、ありがとう、と中に入った。
美術の授業は二クラス合同で行われるため、その部屋は随分と広かった。机が取り払われ、椅子も寄せられていたので、いっそう広く感じた。
窓際の壁にはいくつもの絵や画材が置いてあり、中柱で影になる場所でハルは絵を描いていた。
「いつもここで絵を描いているの?」
葵はすでに絵を描き続けているハルに尋ねた。
「授業のあるときは大抵ね。授業に出なくても出席はとられているから。でも、放課後はいつもいるわけではないよ。音楽の練習は先生のところに通っている」
そっか、と相槌を打つと、葵は廊下側にあるハルのヴァイオリンに目をやった。
葵は荷物を置くと、すでに作業に戻っているハルの背中を黙って見つめていた。
時折窓の外に沈む夕陽を見ながら、葵は静かな時間を過ごした。
「電気つけないで大丈夫なの?」
薄暗くなった部屋で葵が尋ねると、ハルは筆を止めた。
「うん、日が暮れたら帰るから。今日ももう帰るよ」
ハルは一度だけ振り返ると、後片付けを始めた。
「夕陽とかって色が変わって見えそうだけど、あまり関係ないのかな?」
「……そうだね。でも、今はそれがちょうど良いんだと思う」
確かにハルの絵は優しい色をしていた。夕陽の様に温かく、世界を包み込むような優しい色使いだった。
片づけが終わるとハルは葵に微笑みかけた。
「次はギター聴かせてね」
葵は気付いたように口を開くと、はい、と恥ずかしそうに返事をしてうなずいた。そして、窓の外に目をやると、ゆっくりと空を仰いだ。
葵はそれから冬休みまでの三ヶ月、ハルがいる日は毎日のように美術室へと向かった。ハルのいない日は気分を沈ませ、会える日は心を弾ませた。そして、顔を合わせれば不思議と心を落ち着かせ、自然と微笑んだ。
これが恋なのだろうと、私の初恋なのだろうと気付きはしても、どうしたら良いかわからず、また、誰に相談をすれば良いかもわからなかった。
(……ママ)
葵はただ空を仰いではため息をつくばかりだった。
ハルもまた葵と過ごすことを穏やかに感じていた。普段は先生かビジネスの対象として自分を扱う大人ばかりだったので、純粋に嬉しかった。
これは恋なのだろうかと自分に問うこともあったが、途中から考えるのをやめ、空を眺めた。いつも葵がするように、その姿を思い返しながら。
葵はハルの後ろでギターを弾いた。いつも母が歌っていたものを思い出すように、忘れないように歌っていた。
「自分では作らないの?」
ハルが尋ねると、葵はうーん、と首を傾げた。
「三年の文化祭では唄って欲しいな」
「無理だよ。才能無いもん」
葵が俯くと、ハルは手を止めて振り返った。
「そんなことはないよ」
相変わらず優しく微笑むと、そんなことはない、ともう一つ念を押すように言った。
葵はその顔を見ると、思わず頷いた。
「ハル君は冬休みもここに来るの?」
「うん。時間があるときは来ると思う」
「……私も来ていいかな?」
照れくさそうに頬を赤らめる葵にハルは満面に笑みを浮かべた。
「うん」
その言葉に葵はホッと息をついた。
「帰ろうか」
「うん」
二人は片づけをすると一緒に旧校舎から出た。外は既に日が沈み、暗くなっていた。
「秋月」
校舎から出るとすぐに遠くから葵を呼ぶ声がした。
声のほうを向くと人影が歩いて来るのがわかった。
「綾瀬君?」
「えっ? ああ、そうだけど。 ……暗いのによくわかったね」
綾瀬の言葉に葵はフフフっと笑った。
「だって、ギター背負っているもん」
綾瀬は学校の軽音楽部に所属していた。葵もギターを持っていること、最初の席が隣だったことから新学期当初は随分と仲良く話していた。
「部活の帰り?」
「……ああ」
綾瀬はハルのことを意識しながら体の悪い感じで答えた。
「秋月、ちょっと話があるんだけど……」
「ん?」
綾瀬はハルに目を向けた。葵もその視線に合わせてハルに目を向けた。
ハルは葵を見て小さく頷いた。
「じゃあ、秋月さん。さようなら」
ハルの言葉に、うん、と小声で答えると、歩いていく背中を見つめていた。
「秋月?」
綾瀬の声を聞くと葵は慌てて目線を戻した。
「ん? どうしたの?」
葵はすぐに笑顔を作った。すると、綾瀬はハルのほうへ目を向けた。
「付き合っているの?」
綾瀬の言葉に葵は目を丸めた。
「あいつと、付き合っているの?」
再度聞く綾瀬の言葉に葵は首を横に振った。少し恥らったその動作が葵の気持ちを物語っていた。
「俺、秋月のこと好きなんだけど……」
「…… え?」
呆けた顔で綾瀬の顔を見ると、綾瀬は俯き首筋をポリポリ掻いた。
葵は以前から時折感じる視線を思い出した。
(あれは綾瀬君だったんだ……)
綾瀬の表情はよく見えなかったが、体温が上がっている様子が感じ取れた。
「俺と付き合ってくれないかな?」
その言葉に、その想いに葵の体温も上がっていくのを感じた。
葵は静かに俯くと、首を横に振った。
「俺は新学期始まってからずっと好きだったんだ」
「……ゴメン」
「ずっと見てきた。だから、秋月があいつのことが気になっていることも知っている。 ……でも、だからこそ、あいつには……」
「ゴメン」
葵は強い口調で言うと綾瀬の目を真っ直ぐ見た。
「綾瀬君、ゴメン。 ……私、ハル君のことが好きなんだ」
綾瀬は少し潤んだ葵の目をみると、フッと笑い俯いた。
「秋月は本当に真っ直ぐだな。だから、好きなんだよ」
綾瀬は満面で笑みを作ると顔を上げた。葵はその表情を受けると、同じように笑いかけた。
「俺は二人が付き合うまで諦めないよ」
綾瀬はギターを背負いなおすと、深く息をついた。白い息とともに上がった体温も抜けていくようだった。
「じゃあ、また……」
「……うん」
葵は去っていく綾瀬の背中を見つめていた。そして、俯き息を吐くと、空を仰いだ。
澄んだ空の中、いつもより星が輝いて見えた。