哀しい瞳
その場所からは町が一望できた。
山を切り崩して建てられた校舎は一際高いところにあり、この季節は紅葉した木々が広がった。
遠くに見える海は昼の光を反射し、キラキラと煌いていた。
ふと目線を近くに戻すと教室で昼食をとる生徒たちが見渡せた。女子生徒の話し声、机を移動する音、男子生徒が廊下を駆けていく音、さまざまな音が響いていた。
文化祭が終わった翌日ということもあり、その音はいつもより大きく聞こえた。
葵はその音を聞くことが好きだった。彼女は誰もいない屋上の、とりわけ一つ高い入り口の上にあがってはその音を楽しむのだった。
(幸せだなぁ)
葵は空を仰ぎながら微笑んだ。
穏やかな日差しは優しく葵を包み込み、その温もりにまた幸せを感じた。
このような穏やかな日はいつも母親の姿が頭に浮かんだ。病院のベッドで光に包まれながら穏やかに微笑む母親の姿を思い浮かべては、同じように穏やかに微笑んだ。
葵の母親は彼女が十二歳のときに病気で亡くなった。祖母の遺伝だったそうだが、どのような病気かは詳しく知らない。
母は葵が小学校に入学する年に入院するようになり、母との思い出は病院の中ばかりだった。
『死んだらどうなるの?』
幼い頃に葵が口にした言葉に母はゆっくり微笑み、一つの歌を口ずさんだ。それは何とも優しい歌声だった。
病室に差し込む光を受けながら葵の頭を撫でた。
『おばあちゃんもよく唄っていたわ。その歌をみんなに届けたくて、私は歌を唄ったの』
病室の脇にあるギターケースに目をやると、母親はまたゆっくりと微笑んだ。
祖母は唄うことが好きで、普通の会話さえ唄っているように聴こえたらしい。母はそんな祖母の歌を多くの人に伝えたくてミュージシャンとして活動をしていた。
『亡くなった人は空から大切な人を見守るんだって。大切な人が色々な壁に直面しても必ず見渡せるように、大切な人が辛いときや嬉しいときにいつでも仰ぎ見られるように、高いところから見守っているんだって、おばあちゃんが亡くなった時におじいちゃんが教えてくれた。だから、私も、ね』
そう言って母は穏やかに微笑んだ。
母が亡くなってから、葵はふとした時に空を仰ぐ癖がついていた。
友達と喧嘩した時、父親に怒られた時、そして、母のギターを鳴らす時、事在るごとに空を仰いで母を思った。
昼食を終えると、葵は脇に置いていたギターケースに手を伸ばした。お昼休みの賑やかな音に紛れて誰一人いない屋上でギターを弾くことがここに来る目的の一つでもあった。
ケースの蓋を開けたところで扉の開く音がした。
立ち入り禁止ではないので不思議ではないのだが、この時間に人が来るのは初めてのことだった。
一人の男子生徒が姿を現した。彼はフェンスのある端まで歩くと、旧校舎を見つめた。
その表情は酷く哀しそうだった。入院中の母のような表情で、それを見守る父のような目をしたその顔が葵の胸を締め付けた。
(哀しい瞳。 ……ママならどうやって励ますのだろう)
葵は空を仰いだ。
そして、深く息を吐くと、ギターを手に取った。
つらいことがあった日は
いつも空を見上げる
大丈夫だよ 独りじゃないよ
そう 君が言ってくれている気がするから
ありがとう
君のおかげで
また周り(セカイ)を広く見渡せるんだ
独りじゃないから
どんなことも 真っ直ぐ
受け入れられる
どんなことからも 思い切って
逃げ出すことができるんだ
楽しいことがあった日も
いつも空を見上げる
こんなことがあったよ 僕はとても幸せだよ
そう 君に伝えたくて
ごめんね
僕には
こんなことしかできることが無くて
独りじゃないよ
どんなことも二人で
分かち合える
何をしていても きっと
互いを想い合えるんだ
今日はこんなことがあったよ そんな日常を共有したい
夕日が綺麗だなんていうのは 君のほうがわかっているかな
……君の声が聴こえない
僕は空を見上げるよ
何度でも 何度でも
君に聞いて欲しい想いが
無くならないんだ
何も無かった日でも
無くならないんだ
君が好き
この想いだけは 無くならないんだ
君の声が聴きたい……
唄い終わると同時に葵は赤くなった顔を手で仰いだ。
普段は駅前で唄ったりしているが、学校の人間の前で唄うのは初めてだった。
「顔をみていたら、何か唄いたくなって……」
葵は目を合わせないように横を向くと、いたずらに弦を指で弾いた。
「即興?」
男子生徒の声に葵は、うん、と頷いた。
男子生徒が入り口に近づく音がして、葵は肩をすくめた。
「ありがとう」
聞こえたか聞こえなかったかのような微かな声と同時に屋上の扉の閉まる音がした。
葵は息をつき胸を撫で下ろすと、えへへと空を見上げた。
放課後、葵は進路希望の紙を提出しに職員室へと向かった。
職員室の掲示板にはさまざまな連絡ごとが掲示されていたが、一際大きな掲示物が中央に貼られていた。
“二年C組の一ノ瀬ハル、最年少で国際美術コンクール最優秀賞授与”
記事の中の写真を見て、葵は納得したように頷いた。
男子生徒が胸元で賞状を持っている写真。やはりその目は哀しそうだった。
夕陽色に染まる廊下で葵は窓の外を眺めた。
なぜだろう、彼もきっと夕陽を眺めている。そんな気がした。