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不思議な世界立ってる人(読み切り)

作者: San
掲載日:2026/09/13

駅前には、人が多かった。


 朝の八時を少し過ぎると、駅から吐き出された人々が、広い歩道を一斉に歩き始める。


 会社員。


 学生。


 買い物へ向かう人。


 観光客。


 急いでいる人。


 急いでいない人。


 誰かと電話をしている人。


 誰とも話さず、イヤホンをつけている人。


 その中に、一人だけ立っている人がいた。


 歩道の端。


 大きな街路樹の少し手前。


 信号機から十メートルほど離れた場所。


 そこに、ずっと立っている。


 何をするでもなく。


 誰かを待つでもなく。


 ただ、立っている。


 朝の通勤時間になると、その人の横を何百人もの人が通り過ぎていく。


 最初に気づいた会社員は、少しだけその人を見る。


「あ」


 それだけだった。


 そして歩き続ける。


 別の会社員も気づく。


「あ、立ってる人だ」


 隣を歩いていた同僚は、その方向を見なかった。


「うん」


「今日もいるね」


「いるね」


 それで会話は終わった。


 駅へ向かう人の波に押されるように、二人はその場を離れていった。


 学生も、その人を見る。


 制服姿の女子生徒が二人で歩いていた。


「ねえ」


「なに?」


「あの人、まだいるよ」


「いつもいるじゃん」


「そうだっけ」


「そうだよ」


 二人は笑った。


 けれど、立っている人に話しかけることはなかった。


 そのまま駅へ向かった。


 少し離れたところでは、小さな子供が母親の手を引いていた。


「お母さん」


「なに?」


「あの人、なんで立ってるの?」


 母親は一瞬だけ立ち止まり、子供の視線の先を見た。


 立っている人がいる。


 確かに、いる。


 母親は少し考えた。


「立ってるんじゃない?」


「ずっと?」


「ずっとかもね」


「疲れないの?」


「さあ」


 母親はそれ以上答えなかった。


 子供も、それ以上聞かなかった。


 二人は歩いていった。


 立っている人の横を通り過ぎる。


 子供は最後に一度だけ振り返った。


 しかし母親に手を引かれて、すぐに前を向いた。


 街は、何事もなかったように動いていた。


 信号が変わる。


 車が走る。


 バスが止まる。


 自転車が通る。


 店のシャッターが開く。


 誰かが笑う。


 誰かが怒る。


 誰かが走る。


 そして、その人は立っている。


 昼になっても。


 夕方になっても。


 夜になっても。


 立っている。


 雨の日もあった。


 傘を差して歩く人々の中で、その人だけが傘を持っていない日もあった。


 雪の日もあった。


 歩道に雪が積もっても、その人は動かなかった。


 夏の日には、日差しが強く照りつけた。


 冬の日には、吐く息が白くなる。


 それでも立っていた。


 何年か経った。


 駅前の店が一つなくなった。


 その隣に新しい店ができた。


 信号機が新しくなった。


 歩道のタイルが張り替えられた。


 街路樹が少し大きくなった。


 駅前の広告も何度も変わった。


 人々も変わった。


 いつも同じ時間に歩いていた会社員が、ある日から来なくなった。


 学生だった二人が、制服を着なくなった。


 子供だった男の子が、いつの間にか背の高い青年になった。


 けれど、その人は変わらなかった。


 今日も立っている。


 昨日も立っていた。


 たぶん明日も立っている。


 誰かが言った。


「昔からいるよね」


 別の誰かが答えた。


「そうだね」


 それだけだった。


 警察官が近くを通ることもあった。


 一度、その人を見た。


 立っている。


 それを確認した。


 そして、そのまま通り過ぎた。


 店員が店の窓から見ることもあった。


 観光客が写真を撮っている途中で、背景にその人が写り込むこともあった。


 誰かがSNSに写真を載せたこともある。


 けれど、次の日には別の話題に変わった。


 街の人々にとって、その人はそういう存在だった。


 不思議ではある。


 けれど、気にするほどではない。


 説明できない。


 けれど、説明する必要もない。


 そこにいる。


 それだけだった。


 そして、今日も。


 朝の八時。


 人々が駅から出てくる。


 その人の横を、たくさんの人が通り過ぎていく。


 誰かが見る。


 誰かが見ない。


 誰かが気づく。


 誰かが気づかないふりをする。


 いつもの朝だった。


 ――ここから、私は語ることにする。


 私は、立っている人です。


 それ以外に、私について説明することはあまりありません。


 名前はある。


 年齢もある。


 けれど、それを話す必要はないと思っています。


 少なくとも、ここでは。


 私は長い間、ここに立っています。


 どれくらい長いのか。


 正確には数えていません。


 最初の頃は数えていました。


 一日。


 二日。


 三日。


 一週間。


 一か月。


 そのうち、数えることをやめました。


 時間というものは、数えなくても勝手に進んでいくからです。


 朝になる。


 人が来る。


 昼になる。


 人が増える。


 夕方になる。


 人が帰っていく。


 夜になる。


 街が静かになる。


 そしてまた朝になる。


 私は、それをずっと見ています。


 私の前を通り過ぎる人は、たくさんいます。


 とてもたくさんいます。


 けれど、不思議なことに、同じ人が何度も通ることがあります。


 毎朝、同じ時間に来る会社員。


 少し眠そうな顔をしています。


 最初に見たときは、髪が黒かった。


 今では少し白くなっています。


 その人は、私を見るときがあります。


 ほんの一秒。


 それ以上は見ません。


 たぶん、私のことを知っているのでしょう。


 でも、話しかけません。


 私も話しかけません。


 それでいいと思っています。


 学生だった女の子もいました。


 二人でいつも歩いていました。


 毎朝、何かを話していました。


 私は声までは聞き取れないことが多かった。


 でも、よく笑っていました。


 ある日から、一人で歩くようになりました。


 その後、しばらくして来なくなりました。


 たぶん、学校を卒業したのでしょう。


 今、どこにいるのかは知りません。


 でも、ときどき思います。


 あの二人は今も友達なのだろうか、と。


 子供もいました。


 私を見て、


「なんで立ってるの?」


 と聞いていた子です。


 あの子はよく私を見ていました。


 ある日、背が少し伸びていました。


 また次の日には、もっと伸びていました。


 そしていつの間にか、私を見なくなりました。


 子供というのは、そういうものなのかもしれません。


 知らないものを不思議に思う時間は、案外短い。


 大人になると、もっと短くなる。


 私は、それを何度も見てきました。


 人は、私を見ます。


 けれど、ほとんどの人はすぐに目を逸らします。


 その一瞬が、私は好きです。


 驚いた顔。


 不思議そうな顔。


 少し笑う顔。


 何も感じていない顔。


 見なかったことにする顔。


 人によって、本当に違います。


 ある人は私を見てから、友達に何か話します。


 ある人は、何も言わずに歩きます。


 ある人は、二度見します。


 ある人は三度見します。


 でも、誰も止まりません。


 それが、この街なのだと思います。


 不思議なものがあっても、立ち止まらない。


 聞かない。


 触らない。


 それが普通なのです。


 私が立っていることも。


 この街では、きっと普通のことなのでしょう。


 今日も一人の男性が私を見ました。


 スーツを着ています。


 急いでいます。


 腕時計を見ました。


 私を見ました。


 そして、また腕時計を見ました。


 遅刻しそうなのかもしれません。


 私は少しだけ、その人を見送りました。


 別の女性が通ります。


 私を見ません。


 その隣の人は私を見ました。


 でも、何も言いません。


 小さな子供が私を指さしました。


 母親がその手を下ろしました。


 私は何も言いません。


 言う必要がないからです。


 そうして、今日も人々は私の前を通り過ぎていきます。


 私はその人たちの名前を知りません。


 家も知りません。


 仕事も知りません。


 何を食べたのかも知りません。


 どこへ行くのかも知りません。


 それでも私は、何年もその人たちを見てきました。


 だから、ときどき考えます。


 この人は家に帰ったら、何をするのだろう。


 この人は、誰かに今日の出来事を話すのだろうか。


 この人は、明日もここを通るのだろうか。


 そんなことを考えているうちに、また一人、私の前を通り過ぎます。


 その人が私を見る。


 ほんの一瞬。


 目が合ったような気がする。


 けれど、その人は何も言わない。


 私も何も言わない。


 人の流れは止まらない。


 駅から人が出てくる。


 信号が変わる。


 車が走る。


 誰かが笑う。


 誰かが電話をする。


 誰かが私を見る。


 そして、通り過ぎる。


 私は今日も立っています。


 明日もたぶん立っています。


 その次の日も。


 理由を聞かれたことはありません。


 だから、私も答えを用意したことはありません。


 ただ、ここに立っている。


 そして、街を見ている。


 人々が私を見ている。


 それだけです。


 駅前の時計が、九時を指した。


 今日も一日が始まる。


 私は立ったまま、目の前を通り過ぎる人々を見ています。


 誰かが私に気づく。


 誰かは気づかない。


 誰かが少しだけ笑う。


 誰かが目を逸らす。


 そして、誰も立ち止まらない。


 それでいいのだと思います。


 この世界では、不思議なものに出会ったら。


 見なかったことにするのが、普通なのですから。

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