不思議な世界立ってる人(読み切り)
駅前には、人が多かった。
朝の八時を少し過ぎると、駅から吐き出された人々が、広い歩道を一斉に歩き始める。
会社員。
学生。
買い物へ向かう人。
観光客。
急いでいる人。
急いでいない人。
誰かと電話をしている人。
誰とも話さず、イヤホンをつけている人。
その中に、一人だけ立っている人がいた。
歩道の端。
大きな街路樹の少し手前。
信号機から十メートルほど離れた場所。
そこに、ずっと立っている。
何をするでもなく。
誰かを待つでもなく。
ただ、立っている。
朝の通勤時間になると、その人の横を何百人もの人が通り過ぎていく。
最初に気づいた会社員は、少しだけその人を見る。
「あ」
それだけだった。
そして歩き続ける。
別の会社員も気づく。
「あ、立ってる人だ」
隣を歩いていた同僚は、その方向を見なかった。
「うん」
「今日もいるね」
「いるね」
それで会話は終わった。
駅へ向かう人の波に押されるように、二人はその場を離れていった。
学生も、その人を見る。
制服姿の女子生徒が二人で歩いていた。
「ねえ」
「なに?」
「あの人、まだいるよ」
「いつもいるじゃん」
「そうだっけ」
「そうだよ」
二人は笑った。
けれど、立っている人に話しかけることはなかった。
そのまま駅へ向かった。
少し離れたところでは、小さな子供が母親の手を引いていた。
「お母さん」
「なに?」
「あの人、なんで立ってるの?」
母親は一瞬だけ立ち止まり、子供の視線の先を見た。
立っている人がいる。
確かに、いる。
母親は少し考えた。
「立ってるんじゃない?」
「ずっと?」
「ずっとかもね」
「疲れないの?」
「さあ」
母親はそれ以上答えなかった。
子供も、それ以上聞かなかった。
二人は歩いていった。
立っている人の横を通り過ぎる。
子供は最後に一度だけ振り返った。
しかし母親に手を引かれて、すぐに前を向いた。
街は、何事もなかったように動いていた。
信号が変わる。
車が走る。
バスが止まる。
自転車が通る。
店のシャッターが開く。
誰かが笑う。
誰かが怒る。
誰かが走る。
そして、その人は立っている。
昼になっても。
夕方になっても。
夜になっても。
立っている。
雨の日もあった。
傘を差して歩く人々の中で、その人だけが傘を持っていない日もあった。
雪の日もあった。
歩道に雪が積もっても、その人は動かなかった。
夏の日には、日差しが強く照りつけた。
冬の日には、吐く息が白くなる。
それでも立っていた。
何年か経った。
駅前の店が一つなくなった。
その隣に新しい店ができた。
信号機が新しくなった。
歩道のタイルが張り替えられた。
街路樹が少し大きくなった。
駅前の広告も何度も変わった。
人々も変わった。
いつも同じ時間に歩いていた会社員が、ある日から来なくなった。
学生だった二人が、制服を着なくなった。
子供だった男の子が、いつの間にか背の高い青年になった。
けれど、その人は変わらなかった。
今日も立っている。
昨日も立っていた。
たぶん明日も立っている。
誰かが言った。
「昔からいるよね」
別の誰かが答えた。
「そうだね」
それだけだった。
警察官が近くを通ることもあった。
一度、その人を見た。
立っている。
それを確認した。
そして、そのまま通り過ぎた。
店員が店の窓から見ることもあった。
観光客が写真を撮っている途中で、背景にその人が写り込むこともあった。
誰かがSNSに写真を載せたこともある。
けれど、次の日には別の話題に変わった。
街の人々にとって、その人はそういう存在だった。
不思議ではある。
けれど、気にするほどではない。
説明できない。
けれど、説明する必要もない。
そこにいる。
それだけだった。
そして、今日も。
朝の八時。
人々が駅から出てくる。
その人の横を、たくさんの人が通り過ぎていく。
誰かが見る。
誰かが見ない。
誰かが気づく。
誰かが気づかないふりをする。
いつもの朝だった。
――ここから、私は語ることにする。
私は、立っている人です。
それ以外に、私について説明することはあまりありません。
名前はある。
年齢もある。
けれど、それを話す必要はないと思っています。
少なくとも、ここでは。
私は長い間、ここに立っています。
どれくらい長いのか。
正確には数えていません。
最初の頃は数えていました。
一日。
二日。
三日。
一週間。
一か月。
そのうち、数えることをやめました。
時間というものは、数えなくても勝手に進んでいくからです。
朝になる。
人が来る。
昼になる。
人が増える。
夕方になる。
人が帰っていく。
夜になる。
街が静かになる。
そしてまた朝になる。
私は、それをずっと見ています。
私の前を通り過ぎる人は、たくさんいます。
とてもたくさんいます。
けれど、不思議なことに、同じ人が何度も通ることがあります。
毎朝、同じ時間に来る会社員。
少し眠そうな顔をしています。
最初に見たときは、髪が黒かった。
今では少し白くなっています。
その人は、私を見るときがあります。
ほんの一秒。
それ以上は見ません。
たぶん、私のことを知っているのでしょう。
でも、話しかけません。
私も話しかけません。
それでいいと思っています。
学生だった女の子もいました。
二人でいつも歩いていました。
毎朝、何かを話していました。
私は声までは聞き取れないことが多かった。
でも、よく笑っていました。
ある日から、一人で歩くようになりました。
その後、しばらくして来なくなりました。
たぶん、学校を卒業したのでしょう。
今、どこにいるのかは知りません。
でも、ときどき思います。
あの二人は今も友達なのだろうか、と。
子供もいました。
私を見て、
「なんで立ってるの?」
と聞いていた子です。
あの子はよく私を見ていました。
ある日、背が少し伸びていました。
また次の日には、もっと伸びていました。
そしていつの間にか、私を見なくなりました。
子供というのは、そういうものなのかもしれません。
知らないものを不思議に思う時間は、案外短い。
大人になると、もっと短くなる。
私は、それを何度も見てきました。
人は、私を見ます。
けれど、ほとんどの人はすぐに目を逸らします。
その一瞬が、私は好きです。
驚いた顔。
不思議そうな顔。
少し笑う顔。
何も感じていない顔。
見なかったことにする顔。
人によって、本当に違います。
ある人は私を見てから、友達に何か話します。
ある人は、何も言わずに歩きます。
ある人は、二度見します。
ある人は三度見します。
でも、誰も止まりません。
それが、この街なのだと思います。
不思議なものがあっても、立ち止まらない。
聞かない。
触らない。
それが普通なのです。
私が立っていることも。
この街では、きっと普通のことなのでしょう。
今日も一人の男性が私を見ました。
スーツを着ています。
急いでいます。
腕時計を見ました。
私を見ました。
そして、また腕時計を見ました。
遅刻しそうなのかもしれません。
私は少しだけ、その人を見送りました。
別の女性が通ります。
私を見ません。
その隣の人は私を見ました。
でも、何も言いません。
小さな子供が私を指さしました。
母親がその手を下ろしました。
私は何も言いません。
言う必要がないからです。
そうして、今日も人々は私の前を通り過ぎていきます。
私はその人たちの名前を知りません。
家も知りません。
仕事も知りません。
何を食べたのかも知りません。
どこへ行くのかも知りません。
それでも私は、何年もその人たちを見てきました。
だから、ときどき考えます。
この人は家に帰ったら、何をするのだろう。
この人は、誰かに今日の出来事を話すのだろうか。
この人は、明日もここを通るのだろうか。
そんなことを考えているうちに、また一人、私の前を通り過ぎます。
その人が私を見る。
ほんの一瞬。
目が合ったような気がする。
けれど、その人は何も言わない。
私も何も言わない。
人の流れは止まらない。
駅から人が出てくる。
信号が変わる。
車が走る。
誰かが笑う。
誰かが電話をする。
誰かが私を見る。
そして、通り過ぎる。
私は今日も立っています。
明日もたぶん立っています。
その次の日も。
理由を聞かれたことはありません。
だから、私も答えを用意したことはありません。
ただ、ここに立っている。
そして、街を見ている。
人々が私を見ている。
それだけです。
駅前の時計が、九時を指した。
今日も一日が始まる。
私は立ったまま、目の前を通り過ぎる人々を見ています。
誰かが私に気づく。
誰かは気づかない。
誰かが少しだけ笑う。
誰かが目を逸らす。
そして、誰も立ち止まらない。
それでいいのだと思います。
この世界では、不思議なものに出会ったら。
見なかったことにするのが、普通なのですから。




