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呼び止められた日

作者: 久遠 玲
掲載日:2026/06/21

リビングのソファーから立ち上がった時、妻の詩乃に呼び止められた。


「見てほしい書類があるの。先日の定期検査の結果なんだけどね」



そこには確かに、癌の影が写っていた。


受け取ったCT画像には、右肺の中に歪な楕円の白い陰影がはっきりと映っていた。

読影医の記述欄にも、しっかりと「右肺腫瘍の疑い」と書いてある。


私は深いため息とともに、画像から顔を上げ詩乃を見た。

詩乃はこれといってショックの色も見せず、朗らかに笑っていた。


「肺に転移してるかもしれないんだって。まぁ、乳癌の手術が終わった直後から覚悟はしていたけどね。またサクッと取っちゃえば大丈夫だよ」


「まだ疑いの段階だから、悪性と決めつけるのは早いさ。読影だって、完璧じゃない。乳癌だって、この五年間、転移も再発もなかったじゃないか」


精一杯に平静を装ったが、声が上ずっているのが自分でも分かる。

不意に、詩乃は少し悲し気に笑いながら、視線をリビングの壁に向ける。


「せっかく神棚を家に祀ったのにね。祀った矢先に癌が見つかるなんて、神様は私を呼んでいるのかしら」


私たちは神社巡りを楽しむほどには神道に親しんでいたが、今まで御札を授かることはしなかった。

本当に自分たちが日々のお世話ができるのか、その自信がなかったからだ。

数か月前、伊勢の神宮を訪れた折に意を決して御札を授かり、リビングに小さな神棚を設けた。

以来、お祀りする御札の数も増え、神棚も賑やかになっていった。


その矢先の、病変発覚だった。


「CTだけでは正確な判断は難しいみたい。PET検査をして白黒はっきりさせるぞ!って、先生の方が鼻息荒くしてて笑っちゃったわ」



詩乃の主治医は乳腺科の専門医で、乳癌の際に執刀まで担当した。

術後の説明では、摘出した乳癌を誇らしげに見せ、いかに完璧に切除したかを私に熱弁していた。

今回の転移疑惑に最もショックを受けたのは、主治医だったのかもしれない。



「とにかく、君は体力をつけておいた方がいい。もし治療に入るとなったら、体力が第一なんだから」


「なら、今日から私の好きなものを食べていいのね。そうね……それなら今から、ハンバーガーを食べに行こうよ。ずっとポテトが食べたいと思っていたの」


「まぁ、食べたいものを食べるのが一番かもしれないな。どのハンバーガー屋へ行こうか。ドライブがてら、少し遠出してみよう」


無邪気に喜ぶ詩乃の姿を見ながら、私は胸のざわめきを抑えることに必死になっていた。


詩乃がいる生活。

詩乃がいる人生。


当たり前すぎて、考えすらしなかった。



――死。



それは決して自分とは遠い存在ではなく、ある日突然、ひっそりと隣に並んでいることを思い知った。




◇◇◇




PET検査の結果が出る日、私は会社を早退して詩乃の病院へ付き添った。


「子供じゃないんだから、一人でも行けるわよ」


そう笑う詩乃を制して、共に結果を聞くことを強く告げた。

困った顔をしながらも、小さく感謝の言葉を呟いた。


私に迷惑をかけたくない。

自分の身体よりも、そんな気遣いをする詩乃にどうしようもない切なさを抱く。


病院で受付を済ませ診察室前に到着してみると、さほど混んでもおらず、これならすぐに呼ばれると思われた。

予約時間を過ぎることは病院の日常茶飯事だが、しかしこの日は明らかに順番がおかしい。

後から来た患者が次々と先に呼ばれ、意図的に後回しにされていると感じる。


この時点で、二人の間には重い空気が沈んでいた。


「きっと悪い告知だから、一番最後なんだよ。ごめんね、もう疲れたよね」


「なに、座ってるだけで疲れることはないよ。喉が渇いたろう?何か買ってくるよ」


悪い告知であることは、薄々感じている。

だが、それを言葉にすることもしないし、思考から排除しようと必死になっていた。



待合所に誰もいなくなった後、ようやく診察室に呼ばれ、二人並んで腰かける。

主治医は忙しなくPCを操作し、PET検査の結果をモニターに表示する。

ちょうど胸の中心あたりに、光が集まっているような画像だった。


「PETの結果ですが、やはり肺のあたりに癌が転移していました。正確には肺門部リンパ節です。幸い、他の臓器に集積は確認されませんでした。今後の治療方針について、今日はお話できればと思います」


私の意識が、一瞬だけ遠のく。

PET検査後から、悪性腫瘍である可能性を覚悟しつつも拒み続けてきた。

拒絶してきた現実を、こうして目の前に突きつけられると言葉を失う。


今日は私の誕生日だった。

とんだ誕生日プレゼントになってしまった。



「先生、手術で摘出して抗癌剤をすれば完治できますか?」


私とは正反対に、詩乃は至って平静だ。

むしろ、その言葉に楽観的な響きさえ感じさせた。


「このリンパ節は切除できません。切除すると、肺に侵入したウイルスなどを排除できず、重篤な肺炎になってしまう。そうなると、もう手の施しようがありません」


手術できない、という現実に詩乃の顔色が一気に変わる。

どうやら、摘出できることに希望を見出していたようだった。


「先生、手術できないとなると……放射線や抗癌剤でのコントロールが治療のメインになるのでしょうか」


言葉を失っている詩乃の代わりに、私は口を挟む。

主治医はモニターから私へと視線を移した。


「先に放射線治療から入ってもらうのが私の考えです。現在もっとも警戒すべきは肺炎です。放射線により、まずは今の癌を無力化することを狙います。その後、抗癌剤で叩きます」


再びモニターに向き合う主治医が、過去の画像やグラフを鋭い眼光で睨む。

診察室には、重い沈黙が流れていた。

やがてモニターに視線を固定したまま、主治医が口を開いた。


「いいですか」


その声色に、確固たる意志が込められているのがわかった。


「目指すのは、根治です。徹底的にやる予定なので、これからは体力勝負になります」




帰りの車内で、詩乃と私はふたたび伊勢へのドライブ計画を立てた。

治療が始まったら、もうそんな余裕もなくなるだろう。


――未来を、二人で計画する。


そんな些細なことが、これほど貴重だとは思いもしなかった。




家に帰り、並んでソファーに腰掛けた。

正面の壁には、神棚が神聖な空気をまとって鎮座している。

手術不可という主治医の言葉に、詩乃はすっかり気落ちしてしまった。


「せっかく決意して神様をお祀りしたのにね。毎日欠かさずお水も替えて、拝礼して……。そのご利益が、癌の転移かぁ」


神棚に向かい、おどけた声色で独り言のように呟いた。

私も視線を神棚へと移す。



その夜、詩乃が眠ったあと、一人で神棚の前に立った。

感謝と敬意を捧げる、いつもの拝礼。

しかし今回は、いつもとは違う祈りが込められた。



――どうか、私の家族を、お助けください。




◇◇◇




放射線科の医師は、PET検査の膨大な画像データを睨んでいた。

マウスのホイールを巧みに操作し、胴体を輪切りにした画像を何度も行ったり来たりしている。

そして、とある画像で操作を止めて、詩乃にモニターを向ける。


「ええと、ですね。肺門部リンパ節の癌を確認しました。大きさとしては10ミリ程度なので、放射線と抗癌剤で消える可能性が高いです」


医師の言葉に、私の血流が戻ってくるのを感じた。

詩乃を見ると、淡々とした表情で特に感情が動いたようには見えなかった。


「PETで集積は認められませんでしたが、胃にも癌がありますね。こちらも10ミリ程度です。今回は予定通り、リンパ節のみ照射を行います」


胃にも癌が転移している。

その言葉に、私は目を見開いた。

思わず詩乃の顔を見ると、詩乃も初めて知る事実に瞬きを繰り返している。


「先生、胃の癌に照射しなくても大丈夫でしょうか。後々、胃を摘出することになりませんか」


胃癌には照射しない、という医師の言葉に、私は咄嗟に不安と疑問をぶつけた。

医師は穏やかに微笑んだ。


「胃の病変は抗癌剤で消えてしまうと思います。今は主治医の先生が仰る通り、リンパ節に集中するべきだと考えています」


幾重にも張られた治療計画に、私の緊張も少し解れる。

CTでもPETでも「所見なし」とされていた胃部の病変を、初期の段階で発見できた奇跡に感謝した。




診察室を出た瞬間、詩乃がくすりと笑った。

放射線や抗癌剤で、ある程度は癌が消えることの安堵が溢れ出たのだろうか。

会計へと歩きながら、私は素直な気持ちを言葉にした。


「一時はどうなるかと心配したけど、思っていた以上に現代医療は進歩していたんだね。そうは言っても、詩乃には辛い治療が待っているけど、何とか頑張ってくれないか」


「あなたがこんなに動転するなんて、今の今まで知らなかったわ。診察室で必死に先生に食いついてる姿を見て、笑いを堪えていたのよ」


私を茶化す詩乃を見て、憮然とするか一緒に笑うか、躊躇した。


「そりゃあ、詩乃に万一のことがあったと考えたら、冷静ではいられないだろう」


「そうね……。こうして絶望を目の前にした時って、本人より周囲の方が動揺するものかもしれないわね。私は全然へっちゃらで、もう落ち込む時期は過ぎちゃったみたい」


そう言って足早に会計の窓口に並ぶ詩乃を見て、頼もしく思うやら、浮足立つ自身が情けないやら、複雑な心境だった。




その夜、珍しく「頭を洗ってほしい」と言ってきた詩乃の願いで、久しぶりに二人で湯船に浸かった。

若い頃は、こうして二人で風呂に入り、私が詩乃の頭を洗ったものだった。


「抗癌剤が始まったら、髪の毛が全部抜けちゃうでしょう?だから、ね?」


そう笑った詩乃の言葉に、私は不覚にも涙が零れ落ちてしまった。

湯船の湯で顔を洗うふりをして、なんとか誤魔化そうとしたが声は震える。


「今まで、人生の大半を詩乃と過ごしてきた。この家に詩乃がいることが、『当たり前』なんだ」


私は背を向け、揺れる水面を眺めながら今まで溜め込んだ気持ちを吐き出す。


「いってきます。いただきます。ただいま。ごちそうさま。毎日毎日、詩乃に向けた言葉にどれだけの想いを込めているか……。詩乃を失ってしまったら、俺の言葉は、どこへ向かっていくんだろうな」


「うん、わかってるよ。いつも必ず、あなたは挨拶のあとに『ありがとう』って言ってるもんね」


振り返り、詩乃をきつく抱きしめた。

腕に感じる形のある詩乃を、こんなにも愛おしく、そして儚いものだと感じたことはなかった。


「俺は詩乃を失いたくない。わかってる、わかってはいる。いつかは必ず訪れる。だけど頼む、俺より先には逝かないでくれ。俺を置いていくことはしないでくれ」


詩乃は抵抗することもなく、狭い浴槽で私の抱擁を静かに受け止めていた。

私が身体を離した時、詩乃は微笑んでいた。


「さぁ、そろそろ髪を洗ってもらおうかな。ついでに肩のマッサージもお願いね」


詩乃はいつも通り、おどけたように笑って言った。




◇◇◇




「放射線の効果は、しっかりと出てますね。CTの結果では、腫瘍の中身は壊死しているように見えます。MRIの結果で、脳への転移も認められなかったので安心して下さい。あとは見えない微細な癌細胞を、抗癌剤で徹底的にやっつけましょう」


ここまでの治療が順調であることを聞き、詩乃がようやく安堵の表情を見せた。

私は大きく頷き、主治医の言葉に耳を傾ける。

難しい薬品名や医学用語が連発されたが、安堵が勝りほとんど理解することはなかった。


抗癌剤治療の日程も決まり、診察室を後にする。

扉に手を掛けた時、主治医が二人に慌てて声を掛けた。

モニターには、肺のCT画像が表示されている。


「そうだ、最初の定期検査で撮ったCTですがね、あの右肺にあった影は癌ではなく、単なる炎症の跡だったのか……今はもう消失してます」



主治医の言葉に、私は声を失った。

隣の詩乃を見る余裕はなかったが、詩乃も動きを止めている気配がした。


すべては、ほんの小さな誤認だった。

それがPET検査へ繋がり、肺門部リンパ節癌が見つかった。

そして放射線医師が、検査機で発見できなかった胃癌を見つけた。

偶然が偶然を呼び、本来知り得なかった異変に初期で気付けた。


私の背筋に、恐怖とは違う震えが走った。




家に到着し、リビングのソファーで一息ついた。

二人並んだ視線の先には、神棚が静かにこちらを向いている。


「あ、そういえば今日、まだお水を交換してなかったわ」


「なあ……詩乃」


私はぼんやりと神棚を見つめながら、立ち上がろうとする詩乃を止めた。


「右肺の白い影。あれを癌だと疑ってくれた読影医に感謝しなきゃいけないな」


「そうね。それに、CTでもPETでも発見できなかった胃癌を見つけてくれた先生にもね」



私は詩乃の顔を見ようとしたが、神棚から視線を移せずにいた。

この神々を神棚に祀って、すぐに起こった詩乃の危機。



「もしかしたら、右肺に写った影は……」


そこまで言いかけた時、詩乃がケラケラと笑った。


「確かに、私は神様に呼ばれたのかもしれないわね」


そう言った詩乃も、神棚を見つめている。

しばらくして、小さく首を振った。


「ううん。違うわ」


そして笑いを収め、自分の内側に向けているかのように、低く呟いた。


「呼ばれたんじゃなくて、この世界に呼び止められたのかも」


そうして私の顔を見て、またケラケラと笑う。


「もう少し生きろ、という神様の神意なのかもしれないね。あなたを一人残したら、毎日の水替えも怪しいしね」


私もつられて、笑顔になる。

詩乃の肩に手を回し、そっと引き寄せる。

そのまま、二人でしばらく神棚を眺めていた。


詩乃の温もりは、確かにそこにあった。




◇◇◇



「じゃあ、そろそろ行ってくるよ」


私が出勤する時間。

いつもなら、詩乃が忙しく家事をしている時間だった。

しかし今は、ソファーでのんびりとテレビを観ながら横になっている。

気だるそうに立ち上がり、私を玄関まで見送りに来ようとするのを慌てて止めた。


「いいよ、そのまま楽にしていなよ。今夜も何が食べたいか、スマホで連絡してね」


詩乃の抗癌剤治療も2クール目が終了した。

非常に強い倦怠感と、少しの吐き気はあるが時間の経過とともに良化していく。

今はまだ投与して数日なので、だいぶ辛そうにしている。


私は神棚に正対し、拝礼する。

隣に詩乃が立ち、私の動きに合わせて拝礼する。

神様を迎えてから、毎朝の光景だ。


隣でスキンヘッドの詩乃が微笑んでいる。

その姿も愛おしく、軽くハグをする。

ソファーに誘導すると、詩乃はそっと横になり笑顔で私を見上げた。




あの日、詩乃は神様に呼び止められたのか。

私には分からない。

ただ、あまりにも「出来すぎている」と感じるだけだ。


これから、癌がどうなるかも分からない。

このまま根治するかもしれないし、転移や再発の可能性もある。

私だって、いつどうなるかも分からない。



「いってらっしゃい。気をつけてね」


「ああ。いってくるよ」




ただ一つ、分かることがある。

今日も詩乃は、私の隣にいてくれている。




「……ありがとう」



<あとがき>


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

本作は、とある夫婦が実際に経験した出来事をもとに、小説として再構成したものです。


毎朝「いってきます」と言い、「いってらっしゃい」と返ってくる。

そんな日常の尊さを感じていただけたらと思います。


もしこの物語が、誰かにとって大切な人を思うきっかけになれば幸いです。


ありがとうございました。

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