呼び止められた日
リビングのソファーから立ち上がった時、妻の詩乃に呼び止められた。
「見てほしい書類があるの。先日の定期検査の結果なんだけどね」
そこには確かに、癌の影が写っていた。
受け取ったCT画像には、右肺の中に歪な楕円の白い陰影がはっきりと映っていた。
読影医の記述欄にも、しっかりと「右肺腫瘍の疑い」と書いてある。
私は深いため息とともに、画像から顔を上げ詩乃を見た。
詩乃はこれといってショックの色も見せず、朗らかに笑っていた。
「肺に転移してるかもしれないんだって。まぁ、乳癌の手術が終わった直後から覚悟はしていたけどね。またサクッと取っちゃえば大丈夫だよ」
「まだ疑いの段階だから、悪性と決めつけるのは早いさ。読影だって、完璧じゃない。乳癌だって、この五年間、転移も再発もなかったじゃないか」
精一杯に平静を装ったが、声が上ずっているのが自分でも分かる。
不意に、詩乃は少し悲し気に笑いながら、視線をリビングの壁に向ける。
「せっかく神棚を家に祀ったのにね。祀った矢先に癌が見つかるなんて、神様は私を呼んでいるのかしら」
私たちは神社巡りを楽しむほどには神道に親しんでいたが、今まで御札を授かることはしなかった。
本当に自分たちが日々のお世話ができるのか、その自信がなかったからだ。
数か月前、伊勢の神宮を訪れた折に意を決して御札を授かり、リビングに小さな神棚を設けた。
以来、お祀りする御札の数も増え、神棚も賑やかになっていった。
その矢先の、病変発覚だった。
「CTだけでは正確な判断は難しいみたい。PET検査をして白黒はっきりさせるぞ!って、先生の方が鼻息荒くしてて笑っちゃったわ」
詩乃の主治医は乳腺科の専門医で、乳癌の際に執刀まで担当した。
術後の説明では、摘出した乳癌を誇らしげに見せ、いかに完璧に切除したかを私に熱弁していた。
今回の転移疑惑に最もショックを受けたのは、主治医だったのかもしれない。
「とにかく、君は体力をつけておいた方がいい。もし治療に入るとなったら、体力が第一なんだから」
「なら、今日から私の好きなものを食べていいのね。そうね……それなら今から、ハンバーガーを食べに行こうよ。ずっとポテトが食べたいと思っていたの」
「まぁ、食べたいものを食べるのが一番かもしれないな。どのハンバーガー屋へ行こうか。ドライブがてら、少し遠出してみよう」
無邪気に喜ぶ詩乃の姿を見ながら、私は胸のざわめきを抑えることに必死になっていた。
詩乃がいる生活。
詩乃がいる人生。
当たり前すぎて、考えすらしなかった。
――死。
それは決して自分とは遠い存在ではなく、ある日突然、ひっそりと隣に並んでいることを思い知った。
◇◇◇
PET検査の結果が出る日、私は会社を早退して詩乃の病院へ付き添った。
「子供じゃないんだから、一人でも行けるわよ」
そう笑う詩乃を制して、共に結果を聞くことを強く告げた。
困った顔をしながらも、小さく感謝の言葉を呟いた。
私に迷惑をかけたくない。
自分の身体よりも、そんな気遣いをする詩乃にどうしようもない切なさを抱く。
病院で受付を済ませ診察室前に到着してみると、さほど混んでもおらず、これならすぐに呼ばれると思われた。
予約時間を過ぎることは病院の日常茶飯事だが、しかしこの日は明らかに順番がおかしい。
後から来た患者が次々と先に呼ばれ、意図的に後回しにされていると感じる。
この時点で、二人の間には重い空気が沈んでいた。
「きっと悪い告知だから、一番最後なんだよ。ごめんね、もう疲れたよね」
「なに、座ってるだけで疲れることはないよ。喉が渇いたろう?何か買ってくるよ」
悪い告知であることは、薄々感じている。
だが、それを言葉にすることもしないし、思考から排除しようと必死になっていた。
待合所に誰もいなくなった後、ようやく診察室に呼ばれ、二人並んで腰かける。
主治医は忙しなくPCを操作し、PET検査の結果をモニターに表示する。
ちょうど胸の中心あたりに、光が集まっているような画像だった。
「PETの結果ですが、やはり肺のあたりに癌が転移していました。正確には肺門部リンパ節です。幸い、他の臓器に集積は確認されませんでした。今後の治療方針について、今日はお話できればと思います」
私の意識が、一瞬だけ遠のく。
PET検査後から、悪性腫瘍である可能性を覚悟しつつも拒み続けてきた。
拒絶してきた現実を、こうして目の前に突きつけられると言葉を失う。
今日は私の誕生日だった。
とんだ誕生日プレゼントになってしまった。
「先生、手術で摘出して抗癌剤をすれば完治できますか?」
私とは正反対に、詩乃は至って平静だ。
むしろ、その言葉に楽観的な響きさえ感じさせた。
「このリンパ節は切除できません。切除すると、肺に侵入したウイルスなどを排除できず、重篤な肺炎になってしまう。そうなると、もう手の施しようがありません」
手術できない、という現実に詩乃の顔色が一気に変わる。
どうやら、摘出できることに希望を見出していたようだった。
「先生、手術できないとなると……放射線や抗癌剤でのコントロールが治療のメインになるのでしょうか」
言葉を失っている詩乃の代わりに、私は口を挟む。
主治医はモニターから私へと視線を移した。
「先に放射線治療から入ってもらうのが私の考えです。現在もっとも警戒すべきは肺炎です。放射線により、まずは今の癌を無力化することを狙います。その後、抗癌剤で叩きます」
再びモニターに向き合う主治医が、過去の画像やグラフを鋭い眼光で睨む。
診察室には、重い沈黙が流れていた。
やがてモニターに視線を固定したまま、主治医が口を開いた。
「いいですか」
その声色に、確固たる意志が込められているのがわかった。
「目指すのは、根治です。徹底的にやる予定なので、これからは体力勝負になります」
帰りの車内で、詩乃と私はふたたび伊勢へのドライブ計画を立てた。
治療が始まったら、もうそんな余裕もなくなるだろう。
――未来を、二人で計画する。
そんな些細なことが、これほど貴重だとは思いもしなかった。
家に帰り、並んでソファーに腰掛けた。
正面の壁には、神棚が神聖な空気をまとって鎮座している。
手術不可という主治医の言葉に、詩乃はすっかり気落ちしてしまった。
「せっかく決意して神様をお祀りしたのにね。毎日欠かさずお水も替えて、拝礼して……。そのご利益が、癌の転移かぁ」
神棚に向かい、おどけた声色で独り言のように呟いた。
私も視線を神棚へと移す。
その夜、詩乃が眠ったあと、一人で神棚の前に立った。
感謝と敬意を捧げる、いつもの拝礼。
しかし今回は、いつもとは違う祈りが込められた。
――どうか、私の家族を、お助けください。
◇◇◇
放射線科の医師は、PET検査の膨大な画像データを睨んでいた。
マウスのホイールを巧みに操作し、胴体を輪切りにした画像を何度も行ったり来たりしている。
そして、とある画像で操作を止めて、詩乃にモニターを向ける。
「ええと、ですね。肺門部リンパ節の癌を確認しました。大きさとしては10ミリ程度なので、放射線と抗癌剤で消える可能性が高いです」
医師の言葉に、私の血流が戻ってくるのを感じた。
詩乃を見ると、淡々とした表情で特に感情が動いたようには見えなかった。
「PETで集積は認められませんでしたが、胃にも癌がありますね。こちらも10ミリ程度です。今回は予定通り、リンパ節のみ照射を行います」
胃にも癌が転移している。
その言葉に、私は目を見開いた。
思わず詩乃の顔を見ると、詩乃も初めて知る事実に瞬きを繰り返している。
「先生、胃の癌に照射しなくても大丈夫でしょうか。後々、胃を摘出することになりませんか」
胃癌には照射しない、という医師の言葉に、私は咄嗟に不安と疑問をぶつけた。
医師は穏やかに微笑んだ。
「胃の病変は抗癌剤で消えてしまうと思います。今は主治医の先生が仰る通り、リンパ節に集中するべきだと考えています」
幾重にも張られた治療計画に、私の緊張も少し解れる。
CTでもPETでも「所見なし」とされていた胃部の病変を、初期の段階で発見できた奇跡に感謝した。
診察室を出た瞬間、詩乃がくすりと笑った。
放射線や抗癌剤で、ある程度は癌が消えることの安堵が溢れ出たのだろうか。
会計へと歩きながら、私は素直な気持ちを言葉にした。
「一時はどうなるかと心配したけど、思っていた以上に現代医療は進歩していたんだね。そうは言っても、詩乃には辛い治療が待っているけど、何とか頑張ってくれないか」
「あなたがこんなに動転するなんて、今の今まで知らなかったわ。診察室で必死に先生に食いついてる姿を見て、笑いを堪えていたのよ」
私を茶化す詩乃を見て、憮然とするか一緒に笑うか、躊躇した。
「そりゃあ、詩乃に万一のことがあったと考えたら、冷静ではいられないだろう」
「そうね……。こうして絶望を目の前にした時って、本人より周囲の方が動揺するものかもしれないわね。私は全然へっちゃらで、もう落ち込む時期は過ぎちゃったみたい」
そう言って足早に会計の窓口に並ぶ詩乃を見て、頼もしく思うやら、浮足立つ自身が情けないやら、複雑な心境だった。
その夜、珍しく「頭を洗ってほしい」と言ってきた詩乃の願いで、久しぶりに二人で湯船に浸かった。
若い頃は、こうして二人で風呂に入り、私が詩乃の頭を洗ったものだった。
「抗癌剤が始まったら、髪の毛が全部抜けちゃうでしょう?だから、ね?」
そう笑った詩乃の言葉に、私は不覚にも涙が零れ落ちてしまった。
湯船の湯で顔を洗うふりをして、なんとか誤魔化そうとしたが声は震える。
「今まで、人生の大半を詩乃と過ごしてきた。この家に詩乃がいることが、『当たり前』なんだ」
私は背を向け、揺れる水面を眺めながら今まで溜め込んだ気持ちを吐き出す。
「いってきます。いただきます。ただいま。ごちそうさま。毎日毎日、詩乃に向けた言葉にどれだけの想いを込めているか……。詩乃を失ってしまったら、俺の言葉は、どこへ向かっていくんだろうな」
「うん、わかってるよ。いつも必ず、あなたは挨拶のあとに『ありがとう』って言ってるもんね」
振り返り、詩乃をきつく抱きしめた。
腕に感じる形のある詩乃を、こんなにも愛おしく、そして儚いものだと感じたことはなかった。
「俺は詩乃を失いたくない。わかってる、わかってはいる。いつかは必ず訪れる。だけど頼む、俺より先には逝かないでくれ。俺を置いていくことはしないでくれ」
詩乃は抵抗することもなく、狭い浴槽で私の抱擁を静かに受け止めていた。
私が身体を離した時、詩乃は微笑んでいた。
「さぁ、そろそろ髪を洗ってもらおうかな。ついでに肩のマッサージもお願いね」
詩乃はいつも通り、おどけたように笑って言った。
◇◇◇
「放射線の効果は、しっかりと出てますね。CTの結果では、腫瘍の中身は壊死しているように見えます。MRIの結果で、脳への転移も認められなかったので安心して下さい。あとは見えない微細な癌細胞を、抗癌剤で徹底的にやっつけましょう」
ここまでの治療が順調であることを聞き、詩乃がようやく安堵の表情を見せた。
私は大きく頷き、主治医の言葉に耳を傾ける。
難しい薬品名や医学用語が連発されたが、安堵が勝りほとんど理解することはなかった。
抗癌剤治療の日程も決まり、診察室を後にする。
扉に手を掛けた時、主治医が二人に慌てて声を掛けた。
モニターには、肺のCT画像が表示されている。
「そうだ、最初の定期検査で撮ったCTですがね、あの右肺にあった影は癌ではなく、単なる炎症の跡だったのか……今はもう消失してます」
主治医の言葉に、私は声を失った。
隣の詩乃を見る余裕はなかったが、詩乃も動きを止めている気配がした。
すべては、ほんの小さな誤認だった。
それがPET検査へ繋がり、肺門部リンパ節癌が見つかった。
そして放射線医師が、検査機で発見できなかった胃癌を見つけた。
偶然が偶然を呼び、本来知り得なかった異変に初期で気付けた。
私の背筋に、恐怖とは違う震えが走った。
家に到着し、リビングのソファーで一息ついた。
二人並んだ視線の先には、神棚が静かにこちらを向いている。
「あ、そういえば今日、まだお水を交換してなかったわ」
「なあ……詩乃」
私はぼんやりと神棚を見つめながら、立ち上がろうとする詩乃を止めた。
「右肺の白い影。あれを癌だと疑ってくれた読影医に感謝しなきゃいけないな」
「そうね。それに、CTでもPETでも発見できなかった胃癌を見つけてくれた先生にもね」
私は詩乃の顔を見ようとしたが、神棚から視線を移せずにいた。
この神々を神棚に祀って、すぐに起こった詩乃の危機。
「もしかしたら、右肺に写った影は……」
そこまで言いかけた時、詩乃がケラケラと笑った。
「確かに、私は神様に呼ばれたのかもしれないわね」
そう言った詩乃も、神棚を見つめている。
しばらくして、小さく首を振った。
「ううん。違うわ」
そして笑いを収め、自分の内側に向けているかのように、低く呟いた。
「呼ばれたんじゃなくて、この世界に呼び止められたのかも」
そうして私の顔を見て、またケラケラと笑う。
「もう少し生きろ、という神様の神意なのかもしれないね。あなたを一人残したら、毎日の水替えも怪しいしね」
私もつられて、笑顔になる。
詩乃の肩に手を回し、そっと引き寄せる。
そのまま、二人でしばらく神棚を眺めていた。
詩乃の温もりは、確かにそこにあった。
◇◇◇
「じゃあ、そろそろ行ってくるよ」
私が出勤する時間。
いつもなら、詩乃が忙しく家事をしている時間だった。
しかし今は、ソファーでのんびりとテレビを観ながら横になっている。
気だるそうに立ち上がり、私を玄関まで見送りに来ようとするのを慌てて止めた。
「いいよ、そのまま楽にしていなよ。今夜も何が食べたいか、スマホで連絡してね」
詩乃の抗癌剤治療も2クール目が終了した。
非常に強い倦怠感と、少しの吐き気はあるが時間の経過とともに良化していく。
今はまだ投与して数日なので、だいぶ辛そうにしている。
私は神棚に正対し、拝礼する。
隣に詩乃が立ち、私の動きに合わせて拝礼する。
神様を迎えてから、毎朝の光景だ。
隣でスキンヘッドの詩乃が微笑んでいる。
その姿も愛おしく、軽くハグをする。
ソファーに誘導すると、詩乃はそっと横になり笑顔で私を見上げた。
あの日、詩乃は神様に呼び止められたのか。
私には分からない。
ただ、あまりにも「出来すぎている」と感じるだけだ。
これから、癌がどうなるかも分からない。
このまま根治するかもしれないし、転移や再発の可能性もある。
私だって、いつどうなるかも分からない。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「ああ。いってくるよ」
ただ一つ、分かることがある。
今日も詩乃は、私の隣にいてくれている。
「……ありがとう」
<あとがき>
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作は、とある夫婦が実際に経験した出来事をもとに、小説として再構成したものです。
毎朝「いってきます」と言い、「いってらっしゃい」と返ってくる。
そんな日常の尊さを感じていただけたらと思います。
もしこの物語が、誰かにとって大切な人を思うきっかけになれば幸いです。
ありがとうございました。




