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身替わり

作者: 藤原蒼未

 連日、茹だるような暑さが続いていた。久坂周一郎は、帰宅が遅くなることを妻の由岐に告げると、中間一人を供に夜の町へ出掛けた。


「蒸し風呂のようだな」


 殆どつぶやくように周一郎は言った。


「こう暑いと堪らねえな」


 袂に手を引っ込め、もう片方の手で深編み笠をひょいと上げると、取り出した手巾で、額際から顎に伝う汗を拭った。中間の与助は前屈みのまま「へい」と顔を少し傾けただけで、捧げ持った提灯で、周一郎の足元を照らし続けている。


 周一郎は本所見廻を担当する与力である。この時代の与力とは、大雑把に言えば、江戸幕府において、各奉行、目付、組頭の配下にあって、現場で指揮を取る役職のことを指す。主に江戸市中の警備が仕事だが、橋梁や道路普請なども担当し、大雨で洪水などの被害を受けた際には、人命救助なども行った。現代でいうと検察官、いわゆる警視庁キャリア組で、騎馬で勤務するのが常なので、与力ではなく「寄騎」とも書き、何人ではなく、何騎と数えた。


「ここでよい」


 周一郎は、堅川の河岸、二ッ目橋のたもとで与助と別れた。月明かりだけを頼りに、亀井屋敷の隣り、弁財天の方角へ、大川を向いて歩き出した。


 この夜は満月で、提灯がなくても、周一郎の足が止まることはなかった。なので周一郎は、出掛ける時はいつも、月が蒼白い光りを煌煌と放つ夜を選んでいる。


ー寝ていてくれれば良いが。


 由岐の顔を想い浮かべていた。由岐は七年前、十七で周一郎の元に嫁に来た。十人並ちょっと上くらいの容姿の娘ではあったが、肌は絹のように白くきめ細やかで、触るともちもちと弾力がある。しかし、元来あまり躰が丈夫な方ではなかったらしく、嫁入って翌年には男児を出産し、更にその翌翌年に女児を産み落とすと、それまでも細身だった躰は見るも無惨にやせ衰え、ここ数年は寝間で一日の大半を過ごすような日も少なくない。


 由岐の実家では、産後の肥立ちが悪いのだと、娘の生まれつき脆弱な躰を押し隠そうとしたが、久坂家ではそれを疑っている。というのも由岐は、季節の移り変わり目を報せるかの如く、年に四度は高熱を出し床に伏せる。由岐が久坂家の人間となったのが春先。祝言の翌日に熱を出して寝込んだかと思ったら、初夏にも、秋口にも、正月という目出度い日までも、真っ赤な顔をして、苦しい息を漏らす。


 周一郎の母の巴などは、本気で由岐を里へ返すことを考えたほどである。しかし、そんな躰であっても、由岐は子を二人も身籠もり、世継ぎを産むという、嫁としての一応の責務は果たしたわけだから、いくら寝込むことが多くても、由岐を不服として追い出すことは、世間の眼が赦さない。


 しかも由岐は、夫が在宅の際は、例え気分が優れない日であっても、身仕舞いを整えて、甲斐甲斐しく四歳年上の周一郎の世話を焼いた。いまとなっては、母の巴も、そうした由岐の態度をかわいいと思うのか、実の娘、(周一郎の姉や妹)よりも、由岐を優先するところがある。


 しかし周一郎の考えは違った。由岐の献身が、時にとてつもなく苦痛であった。寝ていてくれれば良いと思ったのも、病弱な妻の躰を案じたのではなく、単に、起きて待っていられることを煩わしいと感じたからに外ならない。


「おい」


 格子戸を引いて声を掛けると、板戸の向こうから快活な返事と、心張り棒を外す音がこえた。周一郎は、この声を耳にするだけで、由岐の陰気な蒼白い顔を忘れられるような気がした。


「寝たのか?」

「ええ、もうとっくに」


 佐喜は用意していたすすぎで、周一郎の足を清めると、手拭いで雫を拭き取りながら、今日あった出来事などを、早口の江戸弁でぺらぺらと話しだした。ここも佐喜と由岐とでは大きく異なる。佐喜の父親が江戸詰の御台所検使なのに対して、由岐の実家は、米沢新田藩の作事方である。家格のことはなしとしても、江戸っ子の周一郎には、北国訛りの消えない由岐の話し方がどうも苦手であった。周一郎に嫌われまいと、なるべく訛りを遣わないようにすることで、由岐の話す速度は異常に遅く、文章にして十行ほどの言葉を交わすだけで、周一郎は痩せる思いをするのだ。それに比べ、佐喜と話していると、由岐のような不調和音が聞こえてこない。話しの内容は甚だ下らないことではあったが、何せ物言いが闊達で元気がある。元武家の女とは思えない下町言葉も、これまた周一郎と同じであった。武士と雖も与力というのは、堅苦しい武家言葉を使わないものだ。


「先程まで待っていたのよ。久坂のおじちゃんと遊ぶんだってね」

「ん、どれ、寝顔でも見てやるか」

「そうしてやって」


 佐喜は弾んだ声で、周一郎に先立って歩いた。男の前を歩くなど、由岐には考えも及ばぬことだろう。由岐はいつも、三歩も四歩も周一郎の影を踏まぬようにして、うつむき加減に歩いている。


「あら、まあまあ」


 手燭を持って、佐喜は息子藤五郎の部屋に入った。藤五郎は、周一郎の息子・宗介と同じ六歳である。生まれた月も同じことから、どことなく息子を彷彿させる容姿をしていた。


 暑かったのだろう、藤五郎は、搔巻を蹴って大の字に寝ていた。佐喜は手燭を一旦、床に置き、藤五郎の胸を寛げてやると、汗を拭き、しばらく愛しそうに見つめていた。


 藤五郎に父親はない。藤五郎の父で、佐喜の夫新左衛門は七年前、侍同士の斬り合いで果てた。馴染みの女郎を巡ってのたわいのない喧嘩から斬り合いになったという、世間的にも伏せたいような恥ずかしいことが理由で、相打ちで死んだのだが、新左衛門はその際、仲裁に入った若侍も道連れに斬り捨てている。運悪くその若侍は、藩主御寵愛の御小姓であったため、新左衛門が継いだ高坂家は家禄を没収され、事実上の断絶となった。


 役宅を追われ、そのころ腹の大きかった佐喜は、一時、三十三間堂、現在の富岡八幡宮付近の実家に身を寄せたものの、家督を継いだばかりの実兄が嫁を貰ったことで居辛くなり、ほどなく実家を出て、本所弁財天近くの町家に小さいながらも一軒屋を与えられ、兄に化粧料のようなものを貰い生活をしている。


 これまで再嫁先がなかったわけではないが、そういった話しを断り続けたのは、既にその頃、周一郎と関わっていたからである。両国の廣小路で、大胆な捕り物中であった周一郎と、ひょんな縁で佐喜が知り合い、互いに情を交わすようになったのは、藤五郎が生まれて僅か半年後のことであるから、周一郎は凡そ六年もの間、妻の由岐を裏切り続けてきたことになる。


「あのな佐喜……藤五郎によ、あまり俺のことは言わねえ方がいいな」

「あら、どうして?」


 珍しく歯切れの悪い口調で言う周一郎に、佐喜は、面食らったような顔をしている。酒を注ぎながら、「ご新造様が気付かれたかしら」と悪ぶれた風もなく言った。


「いや……」


 周一郎は酒を一気に煽ると、盃を付きだして、小さな咳をした。


「そうではない、だが……」

「父親のように慕われるのは、都合が悪い?そうでしょう?」


 ふふふっと、佐喜は袂で口を隠して笑った。


「可笑しいか?」

「いいえ」

「なら、なぜ笑うんだよ?」

「可笑しいって言ったら、可笑しいわね。貴方様が困っているから、その顔が面白いのよ」

「こやつ……」


 一つ年上の佐喜に、子供のように扱われた気がし、周一郎の腹の底は面白くなかった。だが、物わかりが良く、それでいて多くを求めない佐喜に安堵しているのも事実である。


 片膝を上げ、崩した座り方をする周一郎の裾は割れ、身幅を細く仕立てた上等の紬から、形の良い脚が覗いていた。


 周一郎はもちろん武士だが、私用の時は、袴を穿かず、着流しを好んだ。与力という仕事柄、袖の下も多く入り、二百石という石高にしては、相当裕福な生活をしている。これは与力全般に言えることだが、金銭に余裕がある彼等は、お洒落に金をかける上に、剣術にも長けていて、更には騎馬で颯爽と町を駆けるのだから、女に良くもてた。周一郎も例外なく女に人気があり、長身で、男ぶりもなかなか良いので、ちょこちょこ遊ぶだけならば、この本所界隈でもかなりの数を持て余している。


 しかし最近は、そっちほ方にも飽きがきた。六歳になった嫡男が近頃、父親である周一郎の背中を良く観察しているのに気付いたからだ。宗介がもう少し小さな頃は、「小人が家にいる」くらいの感覚しか持たなかったが、言葉を喋り始め、「とと様」から「父上」に変わったくらいからか、次第に愛情のようなものが芽生えてきた。今では正直、倅が可愛くてならない。四つになる娘の小里も愛らしく、こちらは生まれた当初から、眼に入れても痛くないと思っていた。


「はいはい、よござんすよ。承知しました。藤五郎には、貴方様のことは、なるたけ耳に入れぬようにいたしましょう」

「……」

「その替わり……」

「なんだ……ん?」


 佐喜は盃を周一郎から奪い取って、自分に注げと言っている。酒はあまり強い方ではなく、自らお相伴にあずかろうなどと、この七年したことがない。


ーやはり、言わなぬ方が良かったかな。


 生後半年でこの胸に抱いた藤五郎に、自分の名を出すななどと、やはり言うべきではなかったと、周一郎は少々後悔していた。


「あーっ美味しい」


 飲んだそばから目の周りを赤くし、佐喜はにこにこと微笑んでいる。しかしすぐにその視線は周一郎を外すと、暗く膝に落ちた。



「雨か……?」


 周一郎は、自邸の縁側に座り爪を切っていた。夏の焼きつける陽と、天からのお情けのような雨が交差して、まぶしい光りを放っている。


「返って、蒸さなければ良いのですが」


 由岐が、麦湯をそっと差し出しながら言った。周一郎は無言で爪を切っている。外では多弁な男も、妻の前では口を開くのも損だといった顔をする。用事が終わり、膝を立てようとした妻の手首を、周一郎は強く握り込んだ。


「由岐」


 由岐の顔が驚愕してる。見開いた眼で周一郎を凝視していたが、やがて腰を落とすと、手首を握りしめる周一郎の手の甲に、自分の掌を重ねるようにして腕を引いた。周一郎も、その動作に従うように由岐の手を離した。


「驚かせてしまったようだな。すまぬ」

「……」


 周一郎は、切り落とした爪の乗った懐紙を脇に寄せると、由岐に向いて座り直した。


「躰の調子はどうだ?」やさしく言った。

「はい、今日はとても気分が良いのです。いつもすみません」


 申し訳なさそうに頭を下げ、顔を上げたときには、由岐は平静を取り戻したようであった。恥ずかしそうに微笑している。


「驚いたか?」

「少々、……いきなり手首を掴むんですもの……」

「うん、突然ある話しを思い出してな、お前に聞かせたく、声を掛ける前に、気が付いたら手を掴んでしまっていた。痛くはないか?袂にしておけば良かったかな」

「そうでございますね、その方が、よろしかったですね」


 由岐は声を立てずに笑った。頬に赤みが差したことで、表情も幾分、華やいで見えた。


 麦湯を手にした周一郎は、口に湯飲みをあてると、眼だけを上げて由岐を観察した。その視線を避けるように、由岐は顎を衿の中に入れるほどうつむいた。こうして見ると、三十に手が届く佐喜よりも、二十代半ばの由岐の方に、艶や香りに関しては軍配を挙げたくなる。


「お前さま、話しと申されましたな……」


 周一郎の視線に堪えられなくなったのか、物静かな由岐の声は、いつもよりも高いように感じた。


「おお、そうだ」


 周一郎は笑顔を見せて、由岐の膝を二度、三度、叩いた。


「知り合いのな、家で少々厄介な問題が起きてな」

「まあ、どの様な?」


 先程から躰を触れあうことが多かったせいか、由岐は大胆に周一郎の顔を覗き込んだ。いつもの由岐からは考えられない仕草だ。


「藩の名までは明かせぬが、藩主の殿様がのう、寵臣の御小姓を、記録所役だった家臣に殺されたことを恨みに思うておってな」

「……御小姓を」


 由岐は肩をすぼめ、口を両手で塞いだ。それを見ていた周一郎が、僅かに首をかしげた。どうも調子が狂うようだ。由岐と一緒の時は、ふだんのような江戸弁を使えない。


「と申してものう、その御小姓が殺されたというのは何年も昔の話しなのだ。一旦は、殺した方の家臣の家を潰すことで、処分を済ませた気になっていた殿様だがな、この一年、急激に体調を崩し、余命いくばくもない状態に陥っていまったらしく、自身に世継ぎが授からなかったこともあり、いろいろと思うことがあったのだろう。床に伏せっていると、時間ばかりがあるので、余計なことを考える……ん、そなたのことではないぞ」

「はい……」


 由岐はまた、申し訳なさそうに頭を下げた。


「それでな、殿様は七年前の事件を赦せぬと言いだし、その……御小姓を殺した方の家臣、記録所役に息子が生まれていたことを突き止めると怒りは怨念のように変化し……」


 周一郎はそこまで言うと麦湯を飲んで、いつの間にか雨の止んだ庭に眼をやった。羽が濡れぬようにと休んでいた蝉たちが、また競うように鳴き出した。斜めに射し込む日差しに朱が交じり、濡れた草の上の光りの雫を輝かせている。


 由岐は先を聞きたそうにじっと周一郎の横顔を見つめている。ふいにうつむき、先ほど握られた手首をさわり、頬を赤らめた。


「その男児の骸を差し出せと、命じられた」

「へっ……」


 違うことを考えていた由岐は、手首を握られたとき以上の驚きの表情をしたが、周一郎の視線は庭に向いたままである。


「あっ……はい……まあ、骸をで、ございますか……七年前ということは?」

「そうだ、今は六つ、うちの宗介と同じ歳だ」

「なんと惨い……」


 由岐は我がことのように袂を上げて涙を拭っている。その姿を横目で見た周一郎の心中は複雑であった。


 この話は、昨夜、佐喜の家で聞かされた。普段と変わらぬ笑顔で、はじめのうちは周一郎に接していた佐喜であったが、酒に一口、唇を付けたあと、突然に泣きだし、胸の奥にあった苦悩を打ち明けたのだ。


 藤五郎の首を塩漬けにしたものを、藩主に差し出せと命じられたのは一月も前のことであるらしい。その間にも、周一郎は何度も、佐喜を訪れていたのだが、佐喜は自分と息子に降りかかった突然の不幸を、周一郎に話すことを憚った。人の夫である周一郎に、要らぬ負担を掛けてはならないという配慮からと、余計なことを言って、周一郎に疎まれたくないという怯えからである。


 しかしそれももう限界であった。実家の父は昨年他界しており、年老いた母に相談できる筈もなく、実兄はというと、その暗愚な藩主に仕える身。佐喜に肩入れしたことで、家の存続を危ぶまれるようなことには手を拱くに決まっている。第一嫂が赦すはずがない。佐喜は、嫂とは犬猿の仲である。もう頼る人間は、周一郎の他に見当たらなかった。


 全てを知った周一郎は、佐喜を哀れみ、互いの苦しみのように受け止めた。そしてどうにか、この母子を自分の手で護ってやりたいと考えたのだが、その手段が見当たらない。


 佐喜は、町奉行の榊原忠之に通じてくれと周一郎に頼んだ。佐喜が榊原を頼みにするのは、彼の性質によるものである。


 町奉行榊原忠之という人物は、織田信長の弟織田信包の系譜を引き継ぐ一族の一人で、寛政八年養父榊原忠尭より、榊原家の家督を相続した。旗本から徒士頭、西ノ丸目付、小普請奉行、主計頭に叙任すると、文化十二年には勘定奉行に、文政二年に北町奉行に栄転を果たした。鼠小僧次郎吉の裁判を担当をしたことでも評価は高いが、その他に、水野忠邦より、台付けの流行の取り締まりを命じられた時などは、

「富くじが幕府公認の博打なのに、台付のみを取り締まるのは道理ではない」と、老中である水野を喝破し、また、商人の杉本茂十郎が賄賂を差し出して癒着を計ると、逆に杉本を摘発した。


 気性が強くまっすぐで、私曲のない榊原の性格に佐喜は期待したのである。理不尽な藩主の命令を、榊原なら、どうにかしてくれるのではと、涙ながらに周一郎に訴えた。しかし、それは同時に佐喜との関係が榊原に露見する恐れも含んでいる。実体な榊原だからこそ、何らかの処分を周一郎に与えかねない。


「のう由岐、そなたならどうする?」


 藁にでも縋るような思いで、周一郎は由岐に打ち明けた。もちろん、その男児の母が、自分の妾などということは教えない。


「逃げます」

「ん……?」

「わたくし、もしも宗介が同じ立場になったとしたら、世間の嘲りを受けても、宗介を抱いて江戸を去ります、どこまでも逃げます」

「そうか、逃げるか……」

「はい、子供は母親にとって命ですから」

「母親にだけではないぞ、俺にとっても、宗介や小里は命だからな」


 由岐は微笑したが、すぐにその笑みを隠してうつむいた。この様な話しを聞いた後で不謹慎だと思ったのだろう。由岐は、そういう女である。


 その夜、周一郎は久しぶりに由岐と同衾した。由岐の体調が良かったことも心を揺さぶられたが、それよりも陽の下で見た、妻の艶やかな素肌を懐かしく思ったことがいちばんの理由である。


ー江戸を離れるか。


 由岐は周一郎の胸に顔を預けて眠っている。そういった情況で、周一郎は佐喜のことを考えていた。佐喜が藤五郎と共に江戸を離れることは良案の様に思われたが、そうすれば、もう二度と佐喜に会うことは叶わないだろう。悩み所である。ふと、自分も旅装束となり、佐喜と、藤五郎の手を取って、箱根の山を越える情景を思い浮かべていた。


ーふっ、馬鹿げている。


 与力という、人も羨む身分を捨て、家も捨て、子を捨ててまで、佐喜と、我が子胤ではない藤五郎と、破綻の旅に出るなど、頭をかすめるだけでも身震いがした。


 由岐は病弱で退屈な女だが、妻として精一杯の努力をしている。常に周一郎の親を労り、仲も良い。周一郎の姉や妹たちとも気が合うようで、由岐の体調の良い日などは、三人誘い合い、寺社参詣ついでに水茶屋で、お喋りに興じたりしている。とはいっても喋るのは姉や妹たちの方で、由岐はもっぱら聞き役だが。


 この暮らしを葬り、佐喜を選ぶなど、愚かとしか言い様がない。だとしたら、他に藤五郎を救う道はあるのか?つらつら思い悩んだ結句、佐喜と別れるほか、道はないような気がしてきた。

数日後、周一郎は佐喜の家を訪れた。いつものように中間一人だけを従わせ、着流し姿に、編笠を深く被るという念の入れ様だ。例え浮気がばれたとしても、あの由岐が騒ぐとは思われなかったが、家には妻の他に、未だ周一郎を小倅と呼ぶ口うるさい母と、十八になってもおきゃんで、嫁の貰い手も決まらない妹がいる。そこに、ちょこちょこ嫁ぎ先から遊びに来る、口から先に生まれたような姉が加われば、どのような事態に陥るか知れたもんじゃない。周一郎は遊び人だが、愁嘆場は苦手であった。


「心細かった」


 格子戸を開くと、待ち構えていたように佐喜が胸に飛び込んで来た。あまりの勢いに、周一郎が一瞬、後ろに倒されそうになったほどだ。


「どうした、……まあ中で話しを聞こう」


 すっかり取り乱した佐喜を、抱えるようにして茶の間に行くと、佐喜は堰を切ったように泣きだした。宥めながら、よくよく話しを聞き出すと、藤五郎の首を、明日までに藩邸に差し出せと命じられたらしかった。肩を大きく震わせ、二つ折りになる佐喜を抱き起こすと、この数日、一睡もしていないのだろう。鬢は乱れ、眼の下は黒くくすんでいた。酷く醜い顔だった。


「周一郎殿、わたくしと藤五郎を連れて逃げて下さいまし」

「なっ……」


 周一郎は動揺を隠せなかった。鬼女のような顔をした佐喜は、周一郎の腰に縋り、衿を両手で鷲掴みにして揺さぶった。痩せて様変わりした顔は、まるで、見知らぬ女を見ているような錯覚を覚えさせた。


「まあ、落ち着け佐喜、なっ……」

「これが落ち着いていれますか、藤五郎が殺されようとしているのですよっ、ねえ、お願い、わたしたちを連れて逃げて……貴方様なら、通行手形を不正に入手するのも容易いでしょう。いざとなったら母子二人、自害するしかないのよ、ねえ周一郎殿、一緒に……」

「……」


 周一郎が黙っていると、佐喜は大きく首を振った。


「ずっと一緒にいてくれと言ってるんじゃないのよ。無事に落ち着ける場所まで辿り着けたら、貴方様は江戸に戻ればいいじゃない。それまで親子の振りをしてくれればいいだけだからさ、ねっお願い、他に頼れる人がいないんだよ」

「無理だ」


 周一郎は、佐喜の手首を掴んで引き離すと、きっぱりとした口調でそう言い切った。所詮、佐喜も藤五郎も他人に過ぎず、その二人のために、むざむざと危ない橋を渡る必用などないと考えたのだ。しかも眼の前の女は、これまでの冷静で、聡明な佐喜とは違い、醜く取り乱した、一人の情婦にすぎない。


「他にできることを考えよう、手形……手形と資金を用立てる。それで手を打ってくれ、……なっ?」


 悄然と項垂れる佐喜を残し、菊川橋に近い自邸に戻ったのが四つ半(午後十一時頃)台所で水を飲んでいるところに、はばかりに立った、息子の宗介と眼が合った。


「まだ起きていたのか?」

「いえ、尿意をもよおしまして」

「そうか、明日も手習所であろう。用を足したらすぐに寝なさい」

「はい、父上」


 宗介は膝の前に、小さな両手をついて、おやすみなさいませと辞儀をして、手燭をさげる端女に足元を照らされながら、廊下を小走りに渡って行った。周一郎は、その幼い背中が、闇に飲み込まれるまで見届けた。


 すると悲愴が胸を衝き上げた。佐喜がいま、どの様な思いでいるのかと、漆黒に、蹲るように佇んでいた佐喜の躰を思い出していた。良く聞こえなかったが、立ち去る周一郎の背に、呪詛の言葉を吐いた気がした。悲観した佐喜が妙な気を起こさねばよいと、祈る思いで床に就いた。

 

 翌朝、まだ夜が明けきっていない時分から周一郎は動き出した。夏の朝は早い、うっかりすると、佐喜の逃げる道は閉ざされる。まずは昵懇にしている奉行所の役人の門を叩き、関所手形を発行させた。はじめは怪訝な顔をしていた役人も、「心付けだ」と小判を五枚も握らせると、何も聞かずに黙々と作成しはじめた。この役人にも妻子があるが、最近、賭場に出入りしているという良くない噂がある。奴は、喉から手が出るほど金をほしている筈だと睨んだ。その勘は、的を獲ていたといえよう。


 佐喜の家の格子戸を潜る時、既に空が白み初めていた。佐喜は、昨夜の様子とはうって変わって元気そうで、藤五郎も、いつもの人懐こい笑顔で迎え出たので、周一郎を困惑させた。


 居間で藤五郎が朝餉を食べている。忙しそうに台所と居間を行き来する佐喜の後を追いながら、声を小さくして周一郎は、


「何を呑気にしてる」


 大枚を包んだ袱紗と手形を、佐喜の手に握らせた。


「あら、それはもう済んだのですよ」


 佐喜はホホホっといつもの様に声高な笑い声を上げると、金と手形を、周一郎の胸に押し戻した。


「どういうことだ?」


佐喜の腕を掴み、台所の隅まで連れて行くと、「わけが分からぬ。説明しろ」と声を低くして問いただした。佐喜はまだ笑っている。


「昨夜、貴方様がお帰りになってから、藩邸から使者が参られましてねえ」

「深夜にか?」

「ええ。なんでも殿様のお心が変わられたと。もう七年も前に処罰も終えたことゆえ、此度のことは忘れてくれと申されたのよ、本当にいやになっちゃう」


 佐喜は手をひらひら振って笑っている。周一郎はまだ疑念が解けない。


「誠か?」

「ええ」

「ほんとうに、本当か?」

「はいっ」


 胸を張って返事をする佐喜に、周一郎は安堵の溜息をついた。今朝からの奮闘を思い返すと苦笑し、首筋の汗を懐紙で拭った。


「安心したら腹が減ったな、何か喰わせてくれ?」


 これからもまた、以前のような生活ができると思い、周一郎は込み上げてくる笑みを隠さずにそう言ったが、佐喜は意外にも冷たい態度で、周一郎の笑顔をはね除けた。


「朝餉なら、ご新造様にこさえて貰って下さいな。わたくしはこれから用がございますので」

「そっそうか……じゃあ」


 少し肩透かしを喰らった気分であったが、昨日の今日では、佐喜に冷たくされても仕方がないと、周一郎は素直に佐喜の家を出た。


 与力の特権である湯屋の女湯に一人っきりで入り、男湯から漏れ聞こえる会話に耳を澄ませたあと、ぶらぶらと管轄内を歩き廻っていた。自邸に着いたら、空が真赤に燃える夕暮れ時になっていた。


 屋敷に入り、父や母に帰宅の挨拶をし、居間に落ち着くと、由岐が、夕餉の膳を運んで来た。今日もまた血色の良い顔色をしていた。


「お聞きになりました?」


 由岐が聞いた。神妙な顔をしている。


「唐突だな、何のことだ?」


 訛りを隠そうとする由岐の話しはいつだって分かりづらい。周一郎は構えた。


「以前、お前さまから聞いた、例のあの、御小姓と殿様の話し、萩藩のことでございましたのでしょう」


 周一郎の箸が止まった。何を今更という思いで由岐を見つめた。


「首を持っていかれたらしいのです」


 周一郎は、全身の血が引いていくのを感じていた。箸を膳に戻し、膝を正して深呼吸をした。由岐はもう泣いている。


「母御と見受けられるお方、何様と申されましたかな……?お一人で、首桶を抱えて藩邸に持っていかれたと……惨いことでございますな、お前さま……」

「その話しは誰から聞いた?」

「庄右衛門が、手習へ宗介を送り届けたあと、昼前でございましたかね、屋敷に飛び込んで来て、話して聞かせてくれましたのよ、……お前さま?」


 由岐は、硬直する周一郎を案ずるように膝を寄せた。庄右衛門とは宗介付きの中間である。宗介の外出時の供をしている。顔の色を無くした周一郎が、はっと顔を上げた。


「そういえば、宗介はどうした?挨拶に来なかったが、まだ戻ってないのか?」

「ええ」


 由岐は廊下の方に眼をやって


「今日は剣術の道場に通う日ですので、……それにしても遅い……見て参ります」


 不安になったのか、由岐は居間を出ると玄関の方へ向かった。間を置かず、何かが倒れたような音がした。


「おいっ」


 周一郎が声を上げたのと、ほぼ同時に、由岐の叫び声が屋敷の中に響き渡った。


「如何したっ!」


 床の間の刀架けから太刀を取り、手に下げて座敷を走り出た周一郎は、玄関に辿り着く前に、鼻をつく異様な匂いに顔を歪めた。そして、それが血の臭いだと分かると、不安に胸を押し潰されそうになっていた。


「一体、何事だ」


 玄関に走りついた周一郎の眼の前に広がったものは、眼を覆いたくなるような惨状であった。


 立ち竦む庄右衛門の背後には、見知った顔の同心や小者などが並んでいるが皆、一様に眼を伏せていた。


 土間に臀をつき、武士の子と思しき衣服を着けた骸を抱いて、由岐が泣き叫んでいる。


「その子は……」


 聞かなくても分かっていた。首がなくても、我が子を見間違える親はいない。現に母親の由岐が、首のない子供の遺体を、すぐに宗介と判断し、血を吐くような叫び声をあげているではないか。


「一体、誰が……」


 そう言ったのは庄右衛門であった。周一郎は庄右衛門を睨み下ろし


「貴様、なぜここに居るっ」


 言葉と同時に庄右衛門の首筋から刀を振り下ろしていた。一瞬で遺体となった庄右衛門の躰が、土間に崩れるように倒れたが、由岐は動じなかった。宗介を護る筈の庄右衛門が、のうのうと息をしていることが、周一郎には赦せなかった。


「由岐、出掛けてくるぞ」

「お前さま……」


 由岐は片手を上げて、周一郎の裾を取ろうとしたが、一寸ほど届かなかった。


「どちらへ……」震える声で由岐が聞いた。

「……」

「お前さま、行かないで」


 由岐から、行かないでという言葉を聞いたのは初めてだった。


ー皮肉なことよ、今ここで漸く夫婦となれたか。


 虚しい思いが胸を突き刺したが、できるだけ、やさしい笑顔を作り振り向いた。由岐の顔は、宗介の血で真赤だった。縋るような眼で周一郎を見上げ、血の色をした手を延ばして、夫を行かせまいとしている。普段から頼りなげな女だったが、これほどまでに感情を露わにしたことはない。


ー数刻ののち、この女は生きていまい。


 由岐が自ら命を絶つ姿が見えていた。急激にこの家を覆う暗黒は、だれにも止めることのできない速度で進んでいた。


 周一郎は由岐の涙と無念を、瞼の裏に焼きつけた。


「仇を取ってくる……戻るまで待て、戻ったら、俺を討て」

「お前さま……」


 由岐の眼から、大粒の涙が流れ落ちた。伸ばしていた手を宗介の胴に廻し、首のあった辺りに、顔を埋めて泣いている。


 周一郎は、鞘に収めた刀を手にさげた。慌てて追ってきた与助を、片手を上げて制すると、躊躇いのない足取りで、薄闇の中へと消えて行った。

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