第9話「仕組まれた舞台と、彼の本心」
懲罰委員会の後、私は蓮さんの執務室に呼ばれた。
重厚なマホガニーのドアをノックすると、「入れ」という落ち着いた声が返ってくる。
中に入ると、蓮さんは大きな窓の外を眺めながら静かに立っていた。夕焼けの光が、彼の横顔を美しく照らし出している。
「専務……いえ、蓮さん。お呼びでしょうか」
「ああ。座ってくれ」
促されるままに革張りのソファに腰を下ろす。緊張で心臓が早鐘を打っていた。
彼は私の向かいに座ると、まっすぐに私を見つめて言った。
「今日の委員会、君には辛い思いをさせてしまったな。すまない」
「い、いえ! そんなこと……。むしろ、私のためにあそこまでしていただいて……」
感謝の気持ちを伝えると、彼はふっと表情を和らげた。
「君が気に病むことはない。彼らは、自らの行いの報いを受けただけだ」
その言葉はどこまでも冷静だった。でも、私には分かっていた。彼がどれほど私のことを考えてくれていたかが。
「……蓮さんは、もしかして全部知っていたんですか?」
思い切って尋ねてみた。
私が翔太くんに婚約破棄されたこと。莉奈ちゃんが裏で不正を働いていたこと。そして、翔太くんたちが、いずれ大きなミスを犯すであろうこと。
蓮さんは私の問いに少しだけ目を伏せた後、静かにうなずいた。
「……ああ。だいたいのことは」
やっぱり、そうだったんだ。
「高坂君が、君という素晴らしい女性をぞんざいに扱っているのは、ずっと前から気づいていた。そして、姫川さんの素行の悪さも調査済みだった」
「調査……?」
「私は、私の大切なものを脅かす存在を、決して許さない」
彼の瞳に、鋭い光が宿る。
「君をこのプロジェクトに抜擢したのも、全ては彼らから君を合法的に引き離し、そして彼らの無能さを白日の下に晒すためだ」
「……!」
息をのんだ。
つまり、この状況は全て蓮さんが仕組んだ舞台だったということ……?
私がプロジェクトで才能を発揮すること。翔太くんたちが私の不在によって業務を滞らせ、ミスを犯すこと。その全てが、彼の計算通りだったというのだろうか。
「なんて、ことを……」
「卑劣なやり方だと思うか?」
彼は私の反応を試すように、静かに尋ねた。
私は、首を横に振った。
「思いません。ただ……ただ、驚いて……。私のために、そこまでしてくださったなんて……」
声が震える。
(私のために……。この、完璧で、雲の上の人が……)
信じられない気持ちと込み上げてくる熱い感情で、胸がいっぱいになった。
「なぜ……、私なんかのために……」
「君だからだ、紬さん」
彼は、初めて私のことを名前で呼んだ。
「君が、白石紬だからだ。他の誰でもない」
その声は、熱っぽく切実な響きを帯びていた。
「私は、君がこの会社に入社してきた、その日からずっと……君だけを見ていた」
「え……?」
入社した、その日から?
(そんな……。だって、私と蓮さんは今までほとんど接点なんてなかったはず)
混乱する私に、彼は続ける。
「君は覚えていないかもしれないな。入社式の日に、緊張でハンカチを落としただろう。私がそれを拾ったんだ」
「……!」
言われて、記憶の断片がよみがえる。
そうだ。あの日、あまりの緊張に手が震え、母がお守り代わりに持たせてくれた白いレースのハンカチを落としてしまった。それを誰かが拾ってくれたのだ。顔もよく見えないままお礼を言って受け取った、あの時の……。
「あれは……蓮、さんだったんですか……?」
「ああ。あの時からだ。私は、君から目が離せなくなった」
彼の告白は、あまりにも衝撃的だった。
「控えめで、いつも一生懸命で、誰にも気づかれないような場所でコツコツと努力を続ける君の姿を、私はずっと見ていた。君の作る資料はいつだって丁寧で、愛情がこもっていた。君がどれほど素晴らしい仕事をする人間か、私は誰よりも知っていたつもりだ」
「…………」
言葉が出ない。
私が地味でつまらないと、自分自身でさえ思い込んでいた私のことを、彼はそんな風に見ていてくれていたなんて。
「だから、許せなかった。君という宝物を、あんな男が独占していることが。そして、君を傷つけ、その価値を貶めることが」
彼の瞳に、嫉妬と怒りの炎が揺らめいているのが見えた。
「今回のことは、全て君をあの男から取り戻すために、私が仕掛けたことだ」
全ては、私のために。
その言葉の重みに、涙が溢れそうになるのを必死でこらえた。
「君は、私が思っていた以上に強くて美しい翼を持っていた。少し背中を押してやっただけで、見事に大空へ羽ばたいてくれたな」
彼は、心から愛おしそうに私に微笑みかけた。
「紬さん。私は、君のその翼が他の誰にも折られることのないように、そばで守り続けたい。……いや、私だけのものにしたい」
彼の声が、熱を帯びていく。
「これは復讐劇なんかじゃない。君を手に入れるための、私の長年にわたる計画の始まりに過ぎないんだ」
独占欲に満ちた、甘く、そして少しだけ恐ろしい響き。
でも、不思議と嫌な気はしなかった。
むしろ、彼のその執着にも似た深い愛情に、心が震えるのを感じていた。
この人は、本気だ。
私の全てを、懸けてくれている。
その事実が、私の心をどうしようもなく揺さぶるのだった。




