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「地味でつまらない」と婚約破棄された25歳の誕生日。実はその裏で、私に執着する完璧エリート専務の壮大な『私を取り戻す計画』が始まっていた  作者: 久遠翠


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第4話「宝石の原石と、磨く人」

 その日から、私の怒涛の一週間が始まった。

 蓮専務から与えられたタスクは、想像を絶するほどのボリュームだった。私は始業時間より二時間も早く出社し、終電ぎりぎりまでオフィスに残ってひたすらデータと向き合った。

 過去十年分の販売記録、顧客データ、市場調査レポート、競合他社のIR情報……。膨大な情報の海に溺れそうになりながらも、私は必死だった。


(専務の期待に応えたい。私にだって、できるんだって証明したい)


 その一心だけが私を突き動かしていた。


 翔太くんや莉奈ちゃんのことは、不思議と気にならなかった。彼らが定時で帰り楽しそうにデートの約束をしている声が聞こえてきても、以前のような惨めな気持ちにはならない。今の私には、そんなことを気にしている暇も心の余裕もなかった。

 一心不乱にパソコンに向かっていると、ふとコーヒーの香ばしい匂いがした。

 顔を上げると、蓮専務がマグカップを片手に私のデスクの隣に立っていた。


「少し、休憩したらどうだ。根を詰めすぎるのは良くない」


「せ、専務!? いつの間に……」


 集中しすぎていて彼が近づいてきたことに全く気づかなかった。慌てて立ち上がろうとする私を、彼は手で制する。


「いい、そのままで。これを」


 そう言って、淹れたてのコーヒーが入ったマグカップを私のデスクにそっと置いてくれた。


「ありがとうございます……。でも、私なんかのために申し訳ないです」


「君は私のチームの重要なメンバーだ。メンバーのコンディションを管理するのも、総責任者である私の仕事だよ」


 彼はあくまでも事務的な口調で言うけれど、その声にはどこか優しい響きがあった。


(重要な、メンバー……)


 その言葉が、疲れた心にじんわりと染み渡る。

 コーヒーを一口飲むと、程よい苦味と深い香りが凝り固まった頭をほぐしてくれた。


「進捗はどうだ?」


 蓮専務は私のパソコンの画面を覗き込みながら静かに尋ねた。


「は、はい。データの収集はほぼ完了して、今、分析とグラフ化を進めているところです。ただ……」


「ただ?」


「この部分のデータの関連性がどうしても見いだせなくて……。私の分析が、的外れなのかもしれないのですが……」


 私は行き詰まっていた箇所を指さして正直に打ち明けた。

 すると彼はしばらく黙って画面を見つめた後、おもむろに口を開いた。


「なるほど。視点は面白い。だが、切り口を少し変えてみてはどうだろう。例えば、このデータを顧客の年齢層ではなく、居住地域の気候データと掛け合わせてみたらどうなる?」


「え……気候、ですか?」


 全く思いもよらなかった視点だった。文房具の売上と気候。一見、何の関係もなさそうだ。


「うちの主力商品のボールペンは、特殊なインクを使っている。特定の温度や湿度で、書き味が微妙に変化する特性があるんだ。もしかしたら、そこにユーザーの無意識の選択が隠れているかもしれない」


「そんなことまで……ご存知なんですか」


 驚いて彼を見上げると、蓮専務は「当然だ。自社製品のことだからな」とこともなげに言った。

 彼の助言は、まさに天啓だった。言われた通りにデータを組み替えてみると、そこには驚くほど明確な相関関係が浮かび上がってきた。


「すごい……! こんなにはっきりと……!」


 思わず声を上げると、彼は満足そうに口の端を上げた。


「君の企画書は、宝石の原石だ。磨けばどこまでも光る。それを磨くのが、私の役目だよ」


「……!」


 その言葉に、心臓が大きく音を立てた。


(宝石の原石……? 私が?)


 翔太くんには「地味でつまらない」と言われた私が?

 顔がカッと熱くなる。彼のまっすぐな視線から逃れるように、私は慌ててパソコンの画面に目を戻した。


「あ、ありがとうございます! この視点で、もう一度レポートをまとめてみます!」


「ああ。楽しみにしている」


 彼はそれだけ言うと、静かに自分の執務室へと戻っていった。


 一人残されたオフィスで、私はしばらく動けなかった。胸の高鳴りがなかなか収まらない。


(磨くのが、私の役目……)


 彼の言葉が頭の中で何度もこだまする。それはただの上司から部下への言葉なのだろうか。それとも……。


(ううん、考えすぎだ。専務は、ただ私の能力を評価してくれているだけ)


 そう自分に言い聞かせるが、一度意識してしまった熱は簡単には冷めてくれそうになかった。


 それからの数日間、私は蓮専務の的確な助言を受けながらレポートの完成度を高めていった。彼は決して答えを教えず、私が自分で答えにたどり着けるよう巧みにヒントを与えてくれる。

 まるで優秀な家庭教師のようだった。彼と話す時間は緊張はするけれど、信じられないほど知的で刺激的だった。


 そして、約束の一週間後。私は完成したレポートを手に、蓮専務の執務室のドアをノックした。


「入れ」


 中に入ると、彼は大きなデスクで分厚い書類に目を通していた。


「専務、依頼されていたレポートが完成しました」


 私は深呼吸を一つして、レポートを彼に手渡した。数十ページに及ぶ、私のこの一週間の全てが詰まったものだ。

 蓮専務は無言でそれを受け取ると、静かにページをめくり始めた。

 パラ、パラ、と紙の音だけが響く、緊張の瞬間。

 やがて最後まで目を通した彼はふっと顔を上げた。

 そして、今まで見た中で一番優しい顔で、こう言ったのだ。


「素晴らしい。期待以上だ、白石さん」


 その一言で、私のこの一週間の苦労は全て報われた気がした。

 心の底から込み上げてくる喜び。それは誰かに恋をするのとは少し違う、もっと純粋で誇らしい感情だった。

 私は、この人の下でならもっと輝けるかもしれない。

 そんな確信にも似た予感が、私の胸を温かく満たしていた。

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