第3話「雲の上の人と、始まりの会議」
プロジェクト初日。私はほとんど眠れないまま朝を迎えた。
クローゼットの中から一番地味で目立たないグレーのスーツを選び、髪も一つにきつく結ぶ。少しでも「できる社員」に見えるように。いや、せめて「できない社員」だと思われないようにと必死に武装した。
(大丈夫、大丈夫……。言われたことをきちんとこなせばいいだけ)
何度も自分に言い聞かせながら、役員フロアへと続くエレベーターに乗り込む。普段は立ち入ることのない、静かで格式高い空間。その空気に早くも私は飲まれそうになっていた。
通された会議室にはすでに数名のメンバーが集まっていた。各部署から選りすぐられたエース級の人たちばかりで、誰もが自信に満ち溢れているように見える。その中で私だけが場違いな存在に思えて、小さく身を縮こまらせた。
「おはよう。君が、営業三課の白石紬さんだね」
声をかけられて顔を上げると、そこに立っていたのは一条蓮専務だった。
写真や遠くから見た姿よりも、ずっとずっと美しい人だった。隙なく着こなした高級スーツ。滑らかな黒髪に、理知的な光を宿す涼やかな瞳。まるで精巧な彫刻作品のようだ。あまりの完璧さに息をのんだ。
「は、はい! 白石紬です! よろしくお願いいたします!」
緊張のあまり声が裏返ってしまった。恥ずかしさで顔が真っ赤になるのが分かる。
(うわあ、最悪だ……。絶対、使えない奴だと思われた)
うつむく私に、専務はかすかに口元を緩めたように見えた。
「緊張しなくていい。君のことは人事部長から聞いている。期待しているよ」
「あ……ありがとうございます」
「期待」という言葉の重みに胃がきりりと痛む。
やがてメンバー全員が揃い、プロジェクトに関する最初の会議が始まった。
今回のプロジェクトは、創業以来の主力商品である文房具シリーズを海外市場向けに全面的にリニューアルし、一大ブランドとして確立させるというもの。会社の未来を左右する、まさに社運を懸けた計画だ。
蓮専務は流れるような口調でプロジェクトの概要と目的を説明していく。その声は低く心地よく響くが、内容は鋭く的確で一切の無駄がない。メンバーから次々と質問が飛ぶが、彼はどんな質問にも即座に、そして完璧に答える。
(すごい……。頭の回転が、全然違う)
私はただ圧倒されるばかりだった。この人たちと同じ空間で同じ仕事をするなんて、本当に私に務まるのだろうか。不安は募る一方だ。
翔太くんのことなんて考えている余裕は一瞬もなかった。ただ、この場から逃げ出したいという気持ちでいっぱいだった。
会議の終盤、蓮専務が私の方をまっすぐに見つめて言った。
「白石さん。君にはまず、過去十年間の国内販売データと、主要競合他社の海外展開に関するデータを全て洗い出し、分析レポートを作成してもらいたい。期限は一週間後だ」
「えっ……!?」
思わず素っ頓狂な声が出た。過去十年分のデータ。競合他社の海外展開。それは膨大な量の情報だ。普通に考えれば、一人で一週間でこなせる作業量ではない。
(無茶だ……。これは、試されてるんだ)
きっと私にそんな能力はないと判断してプロジェクトから外すための口実なのだろう。そう思った。
他のメンバーたちも、少し驚いたような顔で私を見ている。その視線が痛い。
「……承知、いたしました」
震える声でそう答えるのが精一杯だった。
会議が終わり、メンバーたちがそれぞれの部署に戻っていく中、私は一人席を立てずにいた。
(どうしよう。どうすればいいの……)
目の前にそびえ立つ、あまりにも高すぎる壁。絶望的な気持ちでうなだれていると、ふと影が差した。
顔を上げると、そこにはまだ蓮専務が立っていた。
「何か、問題でも?」
冷たいとまでは言わないが、感情の読めない声だった。
「い、いえ……。ただ、少し作業量が多いかと……」
おそるおそるそう言うと、彼は私の手元にあるノートパソコンに視線を落とした。
「君ならできる。私はそう判断した」
「……え?」
「君が毎週提出している営業三課の週次レポートは、いつも見させてもらっている。他の誰よりもデータが整理されていて、分析の視点が的確だ。特に、グラフの見せ方が素晴らしい。あれだけの資料を毎週欠かさず作成できる君なら、今回のタスクも問題なくこなせるはずだ」
思いがけない言葉に、私は目を丸くした。
(私のレポートを……? 専務が?)
営業三課の週次レポートは私が担当している雑務の一つだ。誰も見ていないだろうと思いながらも、自分なりに工夫を凝らし、少しでも分かりやすくなるようにと毎週時間をかけて作成していたものだった。
地味で、誰にも評価されない、つまらない仕事。そう思っていた。
まさか雲の上の存在である専務が、そのレポートに目を通してくれていたなんて。
「君の仕事は、丁寧で誠実だ。私は、そういう仕事をする人間を信頼する」
そう言って、彼は初めてはっきりと私に微笑みかけた。
その瞬間、凍りついていた私の心が、ぽっと温かくなるのを感じた。
(見ていてくれる人が、いたんだ……)
翔太くんに「地味でつまらない」と切り捨てられた私の仕事。それを、この人は「丁寧で誠実だ」と評価してくれた。
嬉しくて、泣きそうになった。
「ありがとうございます……! がんばります!」
気づけば私は力強くそう宣言していた。さっきまでの不安が嘘のように消え、代わりに胸の中に熱い何かが込み上げてくる。
「ああ。期待している」
蓮専務は満足そうにうなずき、静かに会議室を後にした。
一人残された会議室で、私はぎゅっと拳を握りしめた。
(やってやろう。絶対に、最高のレポートを仕上げてみせる)
それは私にとっての小さな、でも確かな再出発の誓いだった。
二十五歳の誕生日に全てを失った私へ、神様が与えてくれたたった一つのチャンスなのかもしれない。
私はこの光を絶対に手放さないと、強く心に決めた。




