第1話「絶望のバースデー」
登場人物紹介
◆白石 紬
本作の主人公。文房具メーカーに勤める、控えめで真面目なOL。長年の恋人から25歳の誕生日に婚約破棄され、自信を失ってしまう。しかし、プロジェクトをきっかけに眠っていた才能を開花させ、自己肯定感を取り戻していく。
◆一条 蓮
紬が勤める会社の専務で、社長の御曹司。眉目秀麗、頭脳明晰、仕事も完璧なエリート。普段は冷静沈着で他人に興味を示さないが、紬にだけは異常なほどの執着と独占欲を見せ、過剰なほど甘く溺愛する。入社当時から紬に一途な想いを寄せている。
◆高坂 翔太
紬の元婚約者で、同じ部署の同僚。見栄っ張りで自己中心的な性格。地味な紬に飽き、社内の人気者である後輩の莉奈に乗り換えるが、その無能さから後に痛い目を見ることになる。
◆姫川 莉奈
紬や翔太の後輩。可愛らしい見た目とは裏腹に、計算高く腹黒い性格。猫を被ったぶりっ子口調で翔太を誘惑し、紬から奪い取る。しかし、その化けの皮はすぐにはがされることになる。
私の人生で最も不幸な日は、間違いなく今日この日だろう。
二十五歳になったばかりの誕生日。そして長年の恋人であり婚約者でもあった高坂翔太くんとの二十五回目のデート記念日。そんな特別な日に、私は人生のどん底へと突き落とされた。
目の前に座る翔太くんは、気まずそうに視線をさまよわせながら冷たい言葉を紡ぐ。
「だから、別れてほしい。婚約も、なしだ」
「……え?」
声がうまく出ない。高級フレンチレストランのきらびやかな照明が、急に色を失って見えた。
テーブルに置かれた、今日のために用意した翔太くんへのプレゼントが入った小さなベルベットの箱。その存在がひどく場違いに感じられた。
「なんで……? 私、何かしたかな」
絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く震えていた。
私たちは大学時代から付き合い始め、同じ会社に就職し、順調に関係を育んできたはずだった。来年の春には結婚式を挙げる予定で、式場のパンフレットを二人で眺めたのはほんの一週間前のことだ。
(どうして? 何が起きたの?)
混乱する私の心を置き去りにして、翔太くんはため息混じりに前髪をかき上げた。
「悪いとは思ってる。でも、もう無理なんだ。好きな人ができた」
好きな人。
その言葉が、鋭い刃物のように私の胸を貫いた。息が詰まる。世界から音が消え、ただ翔太くんの唇の動きだけがスローモーションのように見えた。
「……誰、なの」
聞きたくない。でも、聞かずにはいられなかった。
翔太くんは一瞬ためらった後、あっさりとその名前を口にした。
「姫川だ。……姫川莉奈」
「莉奈……ちゃん?」
会社の、私たちの後輩。いつも笑顔を振りまき、誰からも好かれる部署のアイドル。小動物のように可愛らしく、甘え上手で、私とは正反対の女の子。
(あの子と、翔太くんが……)
頭が真っ白になる。
そういえば最近、二人が親しげに話しているのをよく見かけた。残業する翔太くんに、莉奈ちゃんが「お疲れ様ですぅ」と可愛らしい声で栄養ドリンクを差し入れている場面もあった。私はそれを、微笑ましい先輩後輩の光景だとしか思っていなかったのに。
「紬はさ、地味なんだよ。真面目なのはいいけど、一緒にいてもつまらない。安心はするけど、ドキドキしないんだ」
追い打ちをかけるような言葉が、私のプライドを粉々に砕いていく。
地味。つまらない。
それは私がずっと気にしていたことだった。派手なことが苦手で、いつも控えめに、目立たないように生きてきた。そんな私を、「紬はそのままでいいよ」と言ってくれたのは、翔太くんだったはずなのに。
「莉奈は、いつもキラキラしてる。俺を男として見てくれるし、一緒にいるとこっちまで楽しくなるんだ」
「……っ」
もう何も言えなかった。翔太くんの目に映る私は、もう色褪せた存在でしかない。彼の心は完全に莉奈ちゃんへと移ってしまったのだ。
「そういうわけだから。指輪、返してくれるか?」
無情な言葉と共に彼の手が差し出される。
私は震える指で、左手の薬指にはめられた婚約指輪をゆっくりと外した。翔太くんと一緒に選んだ大切な宝物。それが今、こんなにも重く虚しいものに感じられるなんて。
指輪が彼の手に渡った瞬間、私たちの関係は完全に終わりを告げた。
「じゃあ、俺、もう行くから。会計は済ませてある」
彼はそう言うと一度もこちらを振り返ることなく席を立ち、レストランを出て行った。
一人残されたテーブル。運ばれてきたばかりのバースデープレートには、「Happy Birthday Tsumugi」と書かれたチョコレートの文字が踊っている。その隣で、小さな花火がぱちぱちと虚しく火花を散らしていた。
涙が、勝手に溢れてくる。
(地味で、つまらない……)
翔太くんに言われた言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
そう、私はずっとそうだった。自信がなくて、いつも人の顔色をうかがってばかり。自分の意見を言うのも苦手。そんな私が、翔太くんの隣にいる資格なんて最初からなかったのかもしれない。
彼がくれたのは、つかの間の夢だったんだ。
泣きながら店を出て、冷たい夜風に吹かれながらとぼとぼと歩く。街のイルミネーションが、滲んだ視界の中でぼんやりと広がっていた。誰もが幸せそうな顔で通り過ぎていく。私だけが、この世界でたった一人、不幸のどん底にいるようだった。
家に帰っても、一人。明日、会社に行けば、幸せそうな翔太くんと莉奈ちゃんの顔を見なければならない。
(もう、無理かもしれない……)
会社を辞めようか。いっそ、この街から消えてしまおうか。そんな考えばかりが頭をよぎる。
自己肯定感も未来への希望も、何もかもを失った。
私の二十五歳は、これ以上ない最悪の形で幕を開けた。




