星降るバルコニーと、綿100%の休息
その夜、屋敷を包むのは、いつになく穏やかな静寂だった。
魔王軍からの「至急お洗濯便」もようやく途切れ、セドリックも自室のラボで、スウェットの毛玉を顕微鏡で覗きながら寝落ちする。そんな夜。
真由は、先程アルベルトが力技で外してくれた、膝の重い黄金台座から解放され、久しぶりに身軽な足取りでバルコニーへと出た。
夜風が、ヨレたスウェットの生地を優しく撫でる。
「……あ、マユ殿」
先客がいた。アルベルトだ。
彼は手すりに寄りかかり、遠い王宮の灯りを眺めていた。シャツのボタンを二つほど外し、月光を浴びるその横顔は、戦場の英雄とは思えないほど物憂げで、毒気が抜けている。
「……眠れませんか」
真由が隣に並ぶと、ヨレたグレーの生地を、壊れ物を確かめるように指先でなぞった。
「……不思議な布だ。これほどまでに心を凪がせ、戦いの衝動を忘れさせる」
彼の声は、夜の静寂に溶け込むほどに低く、穏やかだった。真由は思わず、自分の袖をぎゅっと握りしめて返す。
「……これ、1980円の安物なんですよ? アルベルトさんの着てるリネンシャツ一枚で、私の部屋着が何百着買えるか……」
「価格など、私には意味をなさない。……マユ殿。先ほど、厨房で貴女が茶を淹れている姿を見ていた」
真由が驚いて顔を上げると、アルベルトの碧眼には、信仰に近い忠誠ではなく、もっと個人的で、痛切なまでの思慕が宿っていた。
「貴女は、膝のあのダイヤを邪魔そうに抱えながらも、湯気の向こうでふっと……この世界の人間と同じように、小さく息を吐いた。私は、その瞬間に悟ったのだ」
アルベルトが真由の肩を引き寄せ、自分の胸元へと導く。シャツ越しに伝わる、力強く、けれど規則正しい鼓動。
「……世界は、貴女のそのスウェットに跪いている。だが、私は違う。私は、その布の下にある……貴女の体温を、誰よりも近くで守っていたい」
アルベルトは彼女を完全に腕の中に閉じ込め、吸い込まれそうなほど深い抱擁で包み込んだ。真由は彼の胸に顔を埋めたまま、籠もった声で呟く。
「……アルベルトさん。私、聖女でもなんでもないんですよ? ただの、部屋着が大好きな、ズボラな人間なんです」
「知っている。……だからこそ、離したくない」
彼のプラチナブロンドの髪が真由の首筋に触れ、石鹸の香りと、彼自身の体温が混ざり合った独特の香りが、真由の思考を白く塗りつぶしていく。
「……行かないでくれ。マユ殿。……いつか、貴女がそのスウェットを脱ぎ捨てて、私の手の届かない場所へ消えてしまうのが……私は、死ぬほど怖い」
騎士の鎧を脱いだ一人の男としての、震えるような独白。真由は、彼のリネンシャツの背中を、おずおずと、けれどしっかりと掴み返した。
「……私だって、怖いです。明日になったらセドリックさんがまた変な改造を持ってくるのも怖いし、魔王さんが洗濯物を持って窓を割るのも……。でも、一番怖いのは……」
真由は一度言葉を切り、アルベルトの胸に額を押し当てた。
「……この安らぎに慣れて、自分の世界を忘れちゃうことかもしれない。……アルベルトさんの腕が、このスウェットよりずっと温かいって、知っちゃうことかもしれない」
「……マユ、殿……」
アルベルトの腕に、ぐっと力がこもる。
星空の下、二人の影は分かちがたく重なり合っていた。世界の浄化も、聖女の使命も、すべてが夜の帳の向こう側へと追いやられていた。




