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その聖女、魔力ゼロにつき。~騎士団長の一目惚れが斜め上すぎて、異世界が平和になりそうです~  作者: サハラ


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禁忌の細糸と、魔導師の廃業宣言

 王立魔導研究所。そこは今、王国の最高頭脳が「真理」という名の絶望に直面し、音を立てて崩壊していく現場となっていた。

 薄暗い部屋の中に、幾重もの拡大魔術が投影されている。セドリック・ヴァレンタインの目の前には、アルベルトに内緒で、死を覚悟して切り取った「グレーの布きれ」の断片があった。


「……ありえない。こんな、こんなことがあっていいはずがないんだ」


 セドリックは、数日間不眠不休で顕微鏡を覗き続けたせいで、その端正な顔立ちは幽霊のように青白く、銀の眼鏡は指紋と冷や汗で曇りきっている。


「魔導回路も、精霊の加護も、古代の呪文の痕跡も……一切ない。それなのに、この繊維は何だ!? この、顕微鏡の限界を超えてもなお、狂いなく並び続ける『鎖のような分子構造』……! まるで、神が鉄の定規を使って世界を設計したかのような、冷徹なまでの機能美ではないか……!」


 彼が覗き込んでいるのは、現代日本の化学技術の結晶、ポリエステルと綿の混紡構造だ。

 魔力に頼って全てを物理現象として捻じ曲げてきたこの世界の魔導師にとって、石油から合成された無機質な高分子化合物は、もはや「異端」を通り越して「宇宙の幾何学そのもの」に見えていた。

 その時、研究室の重厚な扉が、物理的な衝撃によって蝶番ごと吹き飛んだ。


「セドリック! 息災か! 隣国から『水龍の涙』を持ち帰ったぞ!」


 プラチナブロンドを振り乱し、風のように乱入してきたアルベルト。その精悍な顔は旅の疲れすら感じさせず、むしろ真由の浄化フィルターを通した魔力が巡り続けているせいで、肌のツヤが異常に良い。

 そして、その屈強な腕には、「もう好きにして」という虚無の表情を浮かべ、宝石ジャラジャラの重たいドレスを引きずった真由が、巨大なぬいぐるみのよう小脇に抱えられていた。


「……ちょ、アルベルトさん、降ろして。このドレス、重すぎて首が折れる。それに私、まだ朝ごはんの途中で攫われたんですけど……」


「マユ殿、辛抱を! 貴女の御衣を救うため、そしてこの頭の硬い魔導師を真理へと導くため、一刻も早くここへ来る必要があったのだ!」


 アルベルトは真由を床にソッと(しかし、逃げ場を塞ぐように壁際に)立たせると、宝物殿の鍵でも開けるかのような手つきで、懐から「究極の純水」が詰まった小瓶を取り出した。そして、もう片方の腕で、もはや神体のように扱われているグレーのスウェットを、恭しくセドリックの鼻先に突き出した。


 だが、セドリックは振り返りもしない。彼は虚空を見つめ、何かに取り憑かれたような手つきで、空中に魔法数式を書き殴っている。


「……団長。もう、魔術なんて必要ないのかもしれません」


「……何だと? 乱心したか、セドリック。この純水の価値が分からんのか」


「見てください、この布の細糸一本一本を! 魔力を一切通さないくせに、これほどの強度と伸縮性を両立させている。我々が一生をかけて編み出す防御結界よりも、アルベルト、貴方が持っているその『グレーの物体』の方が、よほど合理的に物理法則を支配しているんですよ……!」


 セドリックは、よろよろと立ち上がると、机の上に積み上げられた高価な魔導書を、ゴミを捨てるような仕草で床にぶちまけた。


「私が学んできた『魔導流体解析』も、『古代ルーン文字の共鳴理論』も、その……その『部屋着』の前では、子供の落書き同然だ! マユ殿の世界では、神ですら工業機械を回して服を作っているというのか……!?」


「フハハハ! ようやく理解したか、セドリック。だから言ったのだ、これこそが真理だと!」


 アルベルトが満足げに笑い、掲げられたスウェットを真由が見上げた時――彼女は、膝のあたりに不自然な四角い穴が開いていることに気づき、さらに絶望の淵に沈んだ。


(……やめて。セドリックさん、解析するために切り取ったでしょ、それ。ただの、近所の衣料品店で1980円で買ったやつなのに。穴まで開けられて……挙句にセドリックさんの人生が、私の安物のせいで崩壊していくのを見てるのが一番辛い……。あと、アルベルトさん、それ『水龍の涙』とか言ってるけど、ただの洗濯水でしょ? )


「団長、私は……今日を以て王立魔導師を廃業します」


 セドリックが、魔導師の命よりも重いはずの杖を、カラン……と床に落とした。


「私はこれから、魔術ではなく……この『未知の構造ポリエステル』を崇める学問……『構造工学』という名の新たな深淵に身を捧げます。マユ殿! どうか、どうか私にこの『ウエストのゴム』が、なぜこれほどまでに絶妙な圧で腰をホールドするのか、その理を教えてください!!」


 セドリックが、ドレスの重みで身動きが取れない真由に詰め寄る。その銀の眼鏡の奥には、狂信者のような輝きが宿っていた。

 アルベルトは「不敬だぞ!」と言いながらも、セドリックがようやく真由の偉大さを理解したことに満足し、なぜか二人で真由(と、掲げたスウェット)を挟んで拝み始めた。


「……帰りたい。もう、本当に、有給とかどうでもいいから帰らせて……」


 真由の魂の叫びは、理論に敗北した魔導師の狂喜と、信仰をさらに拗らせた騎士の称賛の声にかき消されていった。

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