虚無の聖女と、臨界突破のプラズ〇クラスター
――翌朝。
佐藤真由は、人生で最も「帰りたさ」が極まった状態で、王城の深奥にある王立魔導研究所の床を踏んでいた。
昨夜、アルベルトによって「聖なる純化(魔法洗濯)」のために接収されたはずの愛用スウェットは、なぜか洗濯もされぬまま、再び彼の腕の中にあった。アルベルトはそれを、まるで戦場から守り抜いた軍旗のように、恭しく胸に抱いている。
「……マユ殿。申し訳ない、私の不徳の致すところだ。セドリックという男は、アブラムシほどの小さい度量で、この『聖衣』の洗浄に国家予算の魔石を使うことを拒みおった」
「……あ、そう。結局洗えなかったんだ。じゃあ、もう普通にコインランドリー……じゃなくて、手洗いでいいんですけど」
「滅相もない! 貴女の神気をただの井戸水で薄めるなど、万死に値する!」
アルベルトの精悍な顔は、朝から絶好調に狂っていた。対峙するセドリックは、一睡もしていないのか、縁の細い眼鏡の奥の瞳をより一層険しくさせている。
「……団長、寝言は寝てから言ってください。マユ殿、単刀直入に申し上げます」
セドリックは、神経質そうな指先で一本の細長い水晶の杖を弄んだ。
「貴女には、この国が定義する『魔力』が一切存在しません。通常、人間であれば生命活動を維持するための微弱な魔素を帯びているものですが、貴女からはそれすら感じられない。……極論を言えば、そこに立っているのが不思議なほどの『虚無』。魔導学的には、生きた屍に近い状態です」
「……屍……。まあ、社畜時代はそんな感じでしたけど。じゃあ、役に立たないってことで帰してくれます?」
「マユ殿、何を仰る!」
アルベルトが、真由の肩をガシリと掴んだ。武骨な手の熱が、ドレス越しに伝わってくる。
「その『虚無』こそが、一切の濁りを許さぬ至高の証! セドリック、貴公の陳腐な水晶などでは、マユ殿の深淵なる神域を測ることなど不可能なのだ!」
「……いいでしょう。では、そこまで言うなら、これを使わせてもらいます」
セドリックが机の引き出しから取り出したのは、赤黒い、不吉な光を放つ歪な石だった。
「これは『大罪の吸魔石』。触れた者の魔力を無差別に吸い取り、その者の魔力の『本質』を色として映し出す禁忌の魔道具です。……もし彼女が本物なら、この石は聖なる黄金に輝くでしょう。だが、ただの無能なら――何も起きないか、最悪、生命力を吸い尽くされて干からびるかだ」
「セドリック! 貴公、マユ殿を死の淵に立たせるつもりか!」
「団長、あなたが彼女を『聖女』と呼んで城に留める方が、国家にとってよほど不健全です。……さあ、マユ殿。勇気があるなら、これに触れていただけますか?」
真由は、その禍々しい石を見て、本能的に「あ、これ触っちゃダメなやつだ」と察した。
だが、隣でアルベルトが「案ずるな! 私がマユ殿の盾となる!」と叫びながら、励ましのつもりか、より一層強く彼女の手を握りしめてきた。
(……いや、痛い! 力加減! 腕の骨がミシミシ言ってる!)
「ちょっ、アルベルトさん、離して……!」
真由が、アルベルトの手を振りほどこうともがいたその拍子に、彼女の指先がセドリックの差し出した「赤黒い石」に触れた。
――その瞬間。
室内の空気が、キィィィィンと高周波を立てて震えた。
赤黒かった石が、真由の指先が触れた箇所から、見る間に透明なクリスタルへと「変色」していく。いや、変色ではない。石の内部に蓄積されていた数百年分の淀んだ魔力が、真由という強力な浄化フィルターを通過したことで、不純物を根こそぎ奪われ、不気味な赤黒さが一掃されてしまったのだ。
「……なっ!? 石の呪詛が消えていく!? 何だ、この光は……! 目が……私の目が潰れる!」
セドリックが腕で視界を遮るが、現象は止まらない。
真由に触れているアルベルトを通じて、彼の中の膨大な魔力が真由へと流れ込み、真由を介して石へと叩き込まれる。
ろ過され、研ぎ澄まされ、不純物ゼロの「超純度エネルギー」に変換された魔力が石に充填されていく。
――パリンッ!
耐えきれなくなった魔道具が、あまりの純度と圧力に、ついに臨界点を突破して砕け散った。
破片が床に飛び散り、研究室を真っ白な光の粒子が満たす。
「…………」
静寂。
セドリックは、先祖代々受け継いできた国宝級の魔道具が、ただの輝く砂利に成り果てた光景を、呆然と見つめていた。
「……見たか、セドリック。これがマユ殿の『奇跡』だ」
アルベルトだけが、勝ち誇ったように胸を張る。その碧眼には、やはり後光の差した真由(と、ついでに彼の脇に抱えられたスウェット)が映っている。
「彼女は魔力を『出す』のではない。この世のあらゆる魔力を『あるべき姿』へと正し、浄化する……。マユ殿こそが、この濁った世界を救う聖女なのだ!」
(……いや、大事な石を壊しただけだよね!? 弁償とか言わないよね!?)
真由は、顔を真っ青にしてセドリックを見た。
セドリックは、砕け散った石の破片を一つ拾い上げると、震える声で呟いた。
「……ありえない。数百年の濁がこもった吸魔石を、ただの接触で『純粋結晶』に変えるなんて……。……しかし、測定器の数値はやはりゼロだ。彼女自身からは何も出ていない。……ただ、他人の魔力を『劇的に高品質にする』だけの、歩く洗浄機……?」
「『浄化の聖女』と呼びたまえ」
アルベルトがドヤ顔で言い放ち、再びスウェットを抱きしめ直した。
「……もう、好きにしてください。私は……その布の『未知の細糸』の構造を解明することで、この現実から逃避することにします……」
こうして、真由の「浄化フィルター」としての能力が、最悪な形で証明されてしまったのである。




