魔導師セドリックの受難と、聖衣(スウェット)の洗濯問題
アルベルトの私邸に到着して早々、佐藤真由は人生最大の危機に直面していた。
「……さあ、マユ殿。その古の理を刻んだ御衣を、今すぐ脱ぎ捨てるのです」
豪華な客間のど真ん中で、アルベルトが微塵の迷いもない声で宣言した。彼の背後には、まるで供物でも捧げるかのように、純白のシルクで設えられた寝巻きを持った侍女たちが控えている。
「いや、無理です! 恥ずかしいし、これ着てないと落ち着かないんで!」
「分かっております。その布地こそが、異世界において貴女の身を守り続けてきた『外殻』であることを。だが、見てください。その裾、その袖……。これほどまでに塵芥に塗れていては、マユ殿の尊き力が阻害されてしまう」
アルベルトはそう言うと、本当に踵を返し、壁に向かって直立不動の姿勢を取った。武骨な背中は、まるで鉄壁の城壁のようだ。逃げ場を失い、さらに侍女たちの「さあ、聖女様、こちらへ」という無言の圧力に屈した真由は、泣く泣く、毛玉だらけのグレーのスウェットを脱ぎ捨てた。
直後、静寂を破ったのは、布が擦れる音を敏感に察知したアルベルトの歓喜の溜息だった。
「……おお! 今、部屋を満たす空気が一気に澄み渡った……! やはりあの御衣が、マユ殿の強大すぎる力を封印する『重し』となっていたのだな!」
「違います、ただの着替えです! 早く返してください!」
真由が叫ぶより早く、アルベルトは振り返り、侍女がトレイに乗せた「脱ぎたてのスウェット」を、王冠でも扱うように両手で恭しく持ち上げた。
――同刻。王立魔導師セドリック・ヴァレンタインは、自室の机に突っ伏していた。
魔導師特有の藍色のローブに身を包んだその体躯は、騎士たちに比べれば驚くほど細い。青白い肌に、縁の細い銀の眼鏡。整った顔立ちはどこか冷淡で、常に正解を求め続ける数学者のような厳格さを漂わせている。
「……ありえない。あんな、膝の出た布を纏った女が聖女なはずがないんだ」
セドリックは、細く長い指で眼鏡のブリッジを押し上げた。そこへ、扉を叩く音もなく一人の男が踏み込んできた。上質な私服に着替えたアルベルトである。その武骨な手には、先ほど真由から「預かった」グレーのスウェットが捧げ持たれていた。
「セドリック! 大至急、王立魔導図書館の禁書庫を開けろ!」
「……団長、不法侵入ですよ。それと、その薄汚れた布を私の机に置かないでください」
セドリックは、嫌悪感を隠そうともせずに薄い唇を歪めた。だが、アルベルトは止まらない。
「汚らしいだと!? 貴公、これはマユ殿が纏われていた『万物を浄化する法衣』だぞ! 見ろ、この膝の膨らみ……ここに彼女が歩んできた救済の軌跡が刻まれているのが分からんのか!」
アルベルトの精悍な顔は、これまでにないほど澄み渡り、そして等しく狂っていた。
「禁書庫にある『古代の純化魔法』を調べたい。この法衣に宿る神気を損なうことなく、表面の不純物(ポテチの粉)だけを消滅させる方法をな!」
「……ただの洗濯を、国家機密の魔法で解決しようとしないで、正気になりなさい。私は鑑定魔法をかけましたが、これは綿のような天然繊維に、見たこともない奇妙な透明の細糸が混じった、気味の悪い混紡素材です。この細糸、魔導回路すら通さないほど無機質で……おそらく、極めて安価に大量生産された、魂の宿らぬ模造品ですよ」
「黙れ、この盲目の魔導師め! 貴公にはこの布から溢れ出す、天上の調べが聞こえぬのか!?」
「聞こえません。大体、これを持って廊下を走ってきたんですか? 騎士団長が、女物の股引きを抱きしめて? 衛兵たちがどんな目で見ていたか想像がつきますか?」
「私を見る彼らの目は、崇敬に満ちていた。……おそらく、聖なる波動を感じ取ったのだろう」
「それは引き気味の恐怖です」
セドリックは冷徹に言い放つと、魔力測定用のクリスタルをスウェットに近づけた。当然、針はピクリとも動かない。
「見なさい。無反応です。彼女があなたに触れて『浄化された』と感じたのは、あなたが彼女に一目惚れして、脳内の興奮物質が暴走した結果の勘違いですよ。恥を知りなさい!」
「……セドリック」
アルベルトの空気が、一瞬で「最強の騎士」のものに変わった。鼻筋の傷が引き締まり、鋭い碧眼が射抜くようにセドリックを捉える。
「貴公、まさかマユ殿に不敬を働くつもりではあるまいな? もし彼女を『偽物』と呼ぶなら、たとえ友人であっても、私の剣が黙っていないぞ」
(……ダメだ。この男、完全に『聖女教』の信者になってやがる)
セドリックは深く、深く溜息をついた。
「……分かりましたよ。では、条件です。その『聖女様』を私の研究室に連れてきてください。改めて、より精密な検査を行います。もしそこでも魔力が出なければ、団長、あなたには強制休暇……というか、精神科医を紹介します」
「いいだろう。だが覚悟しておけ。マユ殿の真実を目の当たりにした時、貴公は自らの無知を恥じて跪くことになるだろう」
アルベルトは再びスウェット(聖衣)をひっ掴むと、満足げに去っていった。後に残されたのは、疲れ果てたセドリックと、彼が誤って机にこぼしたインクのシミだけ。
セドリックは、手元の資料に「騎士団長、重度の精神錯乱」と書き加えるべきか、真剣に悩み始めた。




