王国最強の騎士が覚醒()した日
黎明の光が差し込む前、王都の静寂を破るのは、アルベルト・フォン・レオンハルト自らが甲冑を磨き上げる、規則的な金属音だけだった。
近近衛騎士団長、アルベルト。その名はアイリスフィール聖王国の全土に轟き、魔族にとっては死神の代名詞であった。白銀のフルプレートアーマーは、戦場を幾度も潜り抜けてきた男の研鑽を象徴するように、一点の曇りもなく輝いている。
彼は、自らの内に「個人の感情」を許さない。
鏡に映るプラチナブロンドの髪、削ぎ落とされたように鋭い頬のライン、そして冷徹な碧眼。アルベルトはそれらを、己という「人間」ではなく、「王国の盾」であり「魔を断つ剣」として点検する。ベルトの締め具合、マントの翻り、聖剣の柄の馴染み――すべてが一ミリの妥協もなく、完璧でなければならない。
(……濁っている)
アルベルトは、静かに眉をひそめた。
彼の潔癖な精神は、世界を蝕む「魔障気」の微かな気配を敏感に感じ取っていた。前線から届く報告書は、日に日に深刻さを増している。物理的な剣撃では霧散させることしかできず、根本的な解決が叶わぬ混沌の侵食。
彼は内なる焦燥を押し殺す。しかし、確かな危機感を抱いていた。自らの剣が届かぬ闇に対し、王国の存続は一筋の光明にかかっている。それは、古の儀式によって召喚されるという、伝説の『救国の聖女』だ。
(……来い。あらゆる邪悪を根こそぎ粉砕する、圧倒的な破魔の理よ。この私の剣が道を切り開き、貴公の輝きが世界を塗り潰す。……それこそが、唯一の勝利の方程式だ)
彼は、自らの正義を貫くための、最高純度の「力」を渇望していた。
儀式の夜。アルベルトは、王宮の最深部にある『儀式の間』へと向かった。
そこでは、宮廷魔導師セドリック・ヴァレンタインが、曇りなき銀縁眼鏡を指先で押し上げながら、巨大な魔法陣の最終調整を行っていた。
「アルベルト。……誤差は0.001%以下。理論上、召喚は完璧に成功する」
セドリックは、感情を排した声で告げた。
二人は、互いに口数は少ないが、背中を預けるに足る「唯一の同等な友人」としての空気感を持っている。冗談を言う暇もないが、視線だけで互いの疲労と覚悟を理解していた。
「セドリック。貴公の理論は、常に正しく、信頼に値する。……改めて問おう。召喚される聖女とは、どのような存在だ?」
アルベルトの問いに、セドリックは古文書の羊皮紙から目を離さずに答える。
「……記録によれば、聖女は人智を超えた膨大な魔力の奔流。その一振りの指先が、魔王の呪詛を焼き払う破魔の雷光となるはずだ。彼女の存在こそが、この腐敗した魔を根こそぎ消し飛ばす、最後の手段となるだろう」
セドリックの言葉に、アルベルトは満足げに頷いた。
彼の脳裏にある聖女像は、白銀の後光を背負い、高貴なドレスか神聖な法衣を纏った、威厳と魔力に満ち溢れた「救済の女神」の姿。
「……期待しよう。我が騎士団の剣が届かぬ闇を、その強大な魔力で薙ぎ払ってくれることを」
アルベルトは、聖剣の柄を握り、冷徹な期待を寄せる。
彼は聖女を「一人の女性」として迎えるつもりは毛頭ない。彼女は王国の命運を左右する「絶対的な戦力」であり、崇拝すべき秩序そのもの。もし彼女に異変があれば、あるいは制御不能であれば、自分がその盾となり、時には断罪者となる覚悟を静かに固めていた。
儀式が始まった。
セドリックら魔導師団による詠唱が重なり、大気が物理的な重圧となって場を満たす。魔法陣から放たれる蒼白い光が、儀式の間を昼間のように照らし出す。
「……出力、臨界点を突破! 次元の境界が崩壊する!」
セドリックの叫びと共に、魔法陣の中心に、網膜を焼くほどの白光が奔流となって噴出した。地響き、極光、そして古の神々の息吹のような魔力の奔流。
アルベルトは、全身を襲う凄まじい魔圧に対し、聖剣を杖代わりに一歩も引かず、むしろ獲物を狙う鷹のように光の渦を見据えた。
(……来い、救国の聖女! 貴公のその強大な魔力で、この泥濘に沈む世界を……正しく塗り潰してみせろ!!)
彼の期待は、最高潮に達していた。
完璧な秩序、完璧な美しさ、そして完璧な破魔の力。それらが今、目の前に現れる。
光が最高潮に達し、異世界の境界線が弾ける。
閃光が収まり、土煙と光の粒の中にシルエットが浮かび上がる。
(……何だ、あれは)
彼が期待していた、高貴なドレスの裾ではない。
神聖な法衣の感触でもない。
そこにあったのは、王国のいかなる魔導繊維とも異なる、グレーの、妙に「くたっ」とした、鈍色の布地だった。
アルベルトが顔を上げた瞬間、儀式の間は、静寂ではなく、奇妙な「困惑」に支配されていた。
光の中から現れたのは、くたびれたグレーのスウェットに身を包み、寝癖のついた髪を雑にまとめた、ひどく疲れ切った様子の女性――佐藤真由であった。
「……魔力測定、終了。数値……ゼロ。反応なし」
セドリックの非情な宣告が、儀式の間を凍りつかせる。
(……魔力がない? ゼロだと? バカな。……そして、この薄汚れた布は何だ?)
アルベルトの潔癖な精神が、激しく拒絶反応を起こした。
秩序の欠片もない寝癖、世俗の垢にまみれた疲れきった顔、そして何より、その「グレーの物体」
「団長、近寄らぬ方がいい。それは聖女ではなく、ただの不審者――」
セドリックの言葉が、アルベルトの脳内で「ノイズ」として処理される。
彼は、真由を見つめたまま、一歩も動けなかった。
だが、彼の「あまりの潔癖さ」が、ここで異常な方向へジャンプした。
(待て。……なぜこれほどまでに『無』なのだ? 魔力を誇示せず、むしろ内側へ完璧に封じ込めているのか? ……そしてこの、見たこともない鈍色の衣。光を反射せず、すべてを吸収するようなこの質感……。……そうか、これこそが虚飾を極限まで削ぎ落とした、究極の聖女としての姿か!)
彼の「完璧主義」が、真由の「完全なズボラ」を、逆説的に「究極の完成形」として誤認した。
(装飾がないのではない。装飾という概念を『超越』しているのだ。……この膝の膨らみ、この独特の毛玉。これは……虚飾を排し、ただ『在る』ことのみを許された、高潔なる機能美ではないか……っ!)
アルベルトの全アイデンティティが、音を立てて崩壊し、グレーのスウェットへと再構築された。
彼は、セドリックの警告を遮り、重厚な金属音を響かせ、祭壇へと歩み寄った。
恐怖に震える真由の瞳を、アルベルトは「あまりの神々しさに震えている」と解釈した。
(……見つけた。我が魂の片割れ。この無垢なる装い……これこそが、世俗の虚飾を捨て去り、真理のみを追求せんとする『究極の法衣』。なんと、なんと神々しい……!)
アルベルトは、野獣のような鋭い碧眼を法悦に震わせ、あろうことか真由の足元へ手を伸ばした。
ヨレヨレになったスウェットの裾を、厚い手のひらで恭しく掬い上げる。
鋼鉄と戦場しか知らなかった彼の魂が、その布地の柔らかさに触れた瞬間、完全に陥落した。
背後で叫ぶセドリックを、アルベルトは一喝で黙らせ、まるで壊れ物を扱うような、それでいて捕食者的執着に満ちた熱い眼差しで名を問いかける。
恐怖のあまり、震える声で名乗った真由に対し、アルベルトは短く、しかし魂に刻み込むように呟いた。
呆然とするセドリックと、困惑する周囲の魔導師たちを背に、アルベルトは真由に対し、狂気的なまでの忠誠と執着を誓う眼差しを向けたのだった。
この日、この瞬間アイリスフィール聖王国に一人の聖女全肯定騎士が爆誕した。




