1-1.最後の夜の二人
空っぽのロッカーを見ても何の感慨も湧かないというのには、予想していたはずだけれど、我ながら驚いた。名残惜しさが無いのは良いとしても、すっきりした気持ちにもならないというのは、不思議に感じるしがっかりもする。しかし、きっとそういうものなのだろうと思う。たぶん私の年齢も、その原因なのだろうし。
事務室に戻る。蛍光灯は全部点いているけれど、人の気配はほとんどない。歩きながら、待合室に面したカウンターに目をやると、そこには横長の格子のグリルシャッター(職業柄覚えた言葉。そうでなければ、知ることもなかったに違いない)が冷たく佇み、その向こう側では、事務室から漏れた明かりの中に、丸みを帯びたソファーが背中合わせに並んでいる。安易なほど鮮やかなその彩りも、照らす光が足りないせいで、ひどく寒々しく見える。まるで、色褪せた将来の姿を先取りしているように。さらに奥には、自動ドアのガラスに隔てられた駅前の交差点の街灯が、夕闇の中でぽつんとたたずんでいた。直視すれば眩しい程の明かりだというのに、ひどく寂しく。
通路を挟んでカウンターに隣接する自分の席で荷物をまとめ、空っぽだと分かり切っているはずの引き出しの中を、一つ一つ確かめる。実際、全部空っぽだった。ロッカーと同じような質感の灰色のデスクの引き出しは、ゆっくりと開け閉めをしても、古い金属製のデスク特有の、あの騒々しくも寒々しい音が鳴る。うめき声か押し殺した悲鳴のように聞こえたのは、たぶん私の感傷のせいだろう。去る私、残るあなた。別の主を待つあなた。二年前、正確には一年半前に再会したあなた。半年間空っぽなまま私を待っていたあなた。その前に五年間付き合ったあなた。もう会うことのないあなた。さようなら。
もう一度カウンターを一瞥し、今度は反対側に目を向ける。私の他に残っているのが、奥の壁際の次長席に一人。パソコンの画面と手元の書類を交互に見比べ、めったにパソコンの操作はしない。手が動くのは、手帳に何かを書くぐらい。その振る舞いがひどくわざとらしく見えたのは、実際わざとらしいからだと思う。何をやっているのか(やっていないのか、と言うべきか)を知っているので、特にそう感じる。
私がゆっくりと歩み寄り、席の前で立つと、これまたわざとらしく、そこでやっと私の存在に気づいたとでも言わんばかりに、彼が顔を上げた。別に悪い印象は抱かない。そんな振る舞いは、もう見慣れすぎていたから。別にこの人に限らず。
柔和な、少なくとも柔和そうな印象が、深い皺といくらかたるんだ顔の皮膚に浮かんでいる。着ているスーツはいかにも上質で、ネクタイは、マンゴーか外国の鳥の鶏冠のような鮮やかな橙色をしている。それがどういうセンスなのかはともかく、全体として収まりよく、穏やかそうな良い印象を裏切らない形をとっている。近づくと感じざるを得ない、そして本人はきっと自覚していない、鈍く刺すような臭いは別として。
――すみません次長、そろそろ失礼します。
――ああ、お疲れ様。ふう……でもこれで、本当にお別れか。寂しくなるなあ。
――すぐに慣れますよ。後任の方が埋めてくれるでしょうし。
――それでも、小夜さんほどの人がいなくなるのは惜しいよ。
――大丈夫じゃないですか? きっと私より優秀ですよ。今の若い子はすごいですから。
彼の残念そうな様子がわざとらしく見えるのは、あえてそう装っているから(そしてそれが失敗しているから)ではないと思う。本当に残念に思っているのだけれど、直接的に引き留めるような言葉を使えないから、表情とかため息で表そうとしていて、それが過剰になっているということなんだろう。
だから、視線を落として何か逡巡するような様子も、本心からというか、自然なものだったらしい。それがどうしたという話だけれど。実際、どうしたんだろうか。
むしろよっぽど重要なのは、彼と言葉のやりとりをしている間に私の作っていた笑顔が、ちゃんと自然な物に見えているかどうかということだった。幸い、実際にそうできていたらしい。彼ののんきな様子が、それを確かめさせてくれる。ついでに、視線が胸や足の付け根の間にやたらと向けられているのも、いつも通りだという印象の証拠になっている。