「」私だけの短編
同じ生き方をしている人へ。
私は、短編の方が性に合っている。長編は苦手だ。それは、物語だけじゃなく、私の日常にも言えることだった。
長編の映画や小説は、途中で飽きてしまう。ずっと見ていると、景色になってしまうから。登場人物の感情も、物語の背景も、そして私自身も、すべてが風景の一部に溶け込んでいく。
この学校生活も、私にとっては退屈な長編だ。朝起きて、同じ制服を着て、同じ道を歩き、同じ教室の同じ席に座る。先生の話も、友達の笑い声も、すべてが遠い景色のように感じられる。
悲しくなるのは、そんな毎日に飽きてしまう自分に気づくからだ。
こんな日々を繰り返していると、自分が何者なのか分からなくなる。感情がどこにあるのかも分からなくなる。分からなくなってくると、頭の中で変なことを考え始める。「私はここにいるのかな?」と。そんなことを考えていると、授業中なのに、突然ノートに意味不明な文章を書き始める。これはネガティブじゃない。ただの馬鹿な頭の整理だ。
つくづく、私はガラクタなのだと思う。
皆は同じ素材で、同じ形に作られた既製品。私は、その中に紛れ込んだ、歪でどこか欠けたガラクタだ。朝の満員電車、学校の廊下、賑やかな街中。どこを見ても、皆は同じ顔をして、同じ方向を見て、同じ歩幅で歩いている。私はそんな既製品に紛れて、目を避け、縫うように歩く。
見つからないように、バレないように。
でも、たまに見つかってしまう。「あいつ、なんか変じゃない?」そんな視線を感じると、心臓が跳ね上がり、足がすくむ。逃げなければ。そう思って、私は全力で走り出す。
そして、別の人間を演じ始める。
明るくて、元気で、誰とでも話せる人間。完璧な既製品を演じていると、自分がガラクタであることを忘れることができる。でも、それはあくまで演技だ。家に帰れば、私はまたガラクタに戻る。鏡に映る自分は、疲れた顔をして、どこか虚ろな目をしている。この繰り返し。偽りの自分を演じ続けた代償のように、心はボロボロになっていく。
いつになったら、私は自分自身でいられるのだろう。
そんなことを考えていると、ふと、あるガラクタの山が頭に浮かんだ。壊れたおもちゃ、錆びたブリキ、使い古された人形。それらは、誰にも見向きもされずに、ただそこに存在していた。
でも、そのガラクタたちには、それぞれ短い物語があるように思えた。
朝、通学路の途中で見かける、一匹の野良猫。たった数秒、目が合うだけの短い物語。
昼休み、窓から見える、流れる雲。形を変えながら、ゆっくりと消えていく。それを見つめる、たった数分間の物語。
放課後、誰もいない教室で、一人、イヤホンで音楽を聴く。たった一曲分の、短い物語。
私は、この無機質な日々の中で、自分だけの短編を探して生きている。同じ毎日の中で、新しい一瞬を見つけ、その一瞬に全神経を集中させる。永遠に続くような退屈な日常の中で、短い、短い、きらめきを探す。
それが私だ。長続きしないし、永くは踊れない。でも、それでいい。
私は今日も、既製品のふりをして、街の中を歩く。でも、心の中では、自分だけの物語を探している。いつか、このガラクタの私にしか作れない、たった一つの物語が生まれることを信じて。
私より人生を楽しんで見せて
私からあなたへ。