ゾンビ少女ふるえるちゃん
誰かが名前を呼んでいる気がした。
それが誰なのか、わからない。
彼が呼ぶ自分の名前もよく聞き取れない。
ボーン、ボーンと鐘の音で正時を知らせる古い壁時計。
びくりとして目を覚ますと、ひどい寒さにようやく気づいたように、少女は急いで自分を抱き締めた。
埃の積もった屋根裏部屋のような、茶色とオレンジ色の薄暗い空間だった。埃を通して明かりの差し込む窓を正面に、壁にもたれて自分は床に座っていた。
「あら、お目覚め?」
急に話しかけられた。左のほうからだ。少女は声の主を確認した。声は上げなかった。表情は寒さのために泣きそうだ。
「震えてるの?」
ロッキングチェアの上からまっすぐこちらを珍しいものを見るように覗き込んで来るメイド服姿の少女の顔は、逆光ということもあり、薄暗くてよく見えなかった。わかるのは顔の右半分がもげてなくなっているということだけだ。
「寒いの?」
彼女の問いに首を横に振ると、ようやく言葉が出た。凍りついていたような唇を、ひび割れるような音を立てて、遅れて開いた。
「寒くはないわ。でも、なんだか寂しいの」
「綺麗な顔してるのね」
顔の右半分がもげた少女が言った。
「ゾンビとは思えないぐらい。羨ましい」
「あなたも可愛いわよ」
「あら。右半分がないのにわかるの? 全部ないのに」
「想像力には自信があるの」
「ところでなんで寂しいの?」
「わからない」
「わからない?」
メイド服の少女は首をぎ、ぎ、ぎ、と左に傾け、それ以上傾けたらもげた部分から緑色の体液が滴りそうになったところで動きを止めた。
「誰かに会わなきゃいけない気がするの」
「それで震えてるのね、ふるえるちゃん」
「ふるえるちゃん? それが私の名前なの?」
「知らないけど。震えてるからそう呼んだの。あたしにも名前を頂戴?」
「みぎもげちゃん」
「いい名前。気に入ったわ。ありがとう」
「ここはどこ?」
「知らないわ」
「知らないの?」
「知らないけど、死者の来るところよ。だって死者ばっかりいるんだもの」
「他にも死者がいるの?」
「いるわよ。見えない?」
ふるえるちゃんが耳を澄ませ、目を凝らすと、とたとたと木の床を鳴らす足音が聞こえた。よく見ると目玉に小さな足だけ生えたものが忙しそうに歩き回っている。
「めだまちゃん」
ふるえるちゃんは早速名前をつけてあげた。
「小さくて見えなかった、ごめんなさい」
めだまちゃんは何も聞こえていないように、2人のすぐ側を早足で通ると、そのまま部屋中を歩き回り続けた。
扉を開けて、ピンク色のワンピースを着た、目の大きすぎる女の子が入って来た。小さな唇が独り言を繰り返すように動き、たまに舌打ちのような音が聞こえる。
彼女は大きすぎる目で何も見ずに歩いて来て、2人の前で立ち止まった。ふるえるちゃんは彼女が何を繰り返し呟いているのかを、耳を澄ましてよく聴いてみた。
『あんだこんなろー、ケツについた火んころー、脳味噌くいて、脳味噌くいて、おめーののーみそくったろー』
それをずっと繰り返していた。
「はなうたちゃんだね」
ふるえるちゃんが名前をつけた。
「そのまんまじゃないの」
みぎもげちゃんが少し文句を言った。
「あたしにつけたネーミングセンスはどこ行ったの」
◆ ◆ ◆ ◆
僕は彼女を探していた。火葬にされる前の安置室からいなくなった彼女はきっとゾンビ化してどこかをうろついている。
道行く人に写真を見せて、聞いて回った。
「あら! 可愛い娘ね! 芸能人さんかしら?」
写真を見てなぜだか嬉しそうにそう言った年配の女性に、僕は答えた。
「古溝絵瑠というんです。僕の恋人でした。冬の海に身を投げて死んでしまったのですが、今は恐らくゾンビになってどこかを徘徊しているんです」
彼女にとどめを刺さなくてはならない。
一刻も早く!
彼女が人間の脳味噌の味を覚える前に。
彼女が僕の新しい恋人に襲いかかる前に!
◆ ◆ ◆ ◆
「外には何があるの?」
ふるえるちゃんはみぎもげちゃんに聞く。
「ふつうよ。ふつうに世界。ここはべつに異世界とかそんなところじゃないから」
「じゃあ、はなうたちゃんは外でお食事して来たのね?」
「いいえ。彼女は人間の脳味噌が食べたいなって歌うだけよ。ここにいる子は誰も人を傷つけられない、優しい子ばかりなんだもの」
「そっか。考えたら、めだまちゃんなんて食べたくても食べられないわよね。口がないのに」
「あたしだって無理よ。口が半分しかないのに」
そう言ってみぎもげちゃんは断面から見える舌をぺらぺらと揺らしながら、にぱぁと笑った。
「……寒い」
ふるえるちゃんはまた自分を抱き締める。
「抱き締めてあげようか?」
「大丈夫。きっとこの寒さはね、あの人じゃないと止められないの」
「あの人って?」
「わからない」
「忘れちゃったのね?」
こくりとふるえるちゃんはうなずいた。
◆ ◆ ◆ ◆
どこだ?
どこだ、絵瑠?
僕はあてもなく街を探して回る。
ポケットにはゾンビを滅ぼす銃を忍ばせている。
僕は確かに彼女のことが好きだったさ。
でも、彼女がいけないんだ。絵瑠が寂しがり屋すぎるから。僕のスマホをチェックしたり、気づかないところから僕の様子を眺めていたり、それで僕に他にも好きな女の子がいることを知ってしまった。
それでも彼女は僕を許すと言った。僕が真知子と別れさえすれば、それでいいと言ってくれた。彼女が冬の海の崖の上から足を滑らせたのは運が悪かったんだ。決して僕が背中を押したからじゃない。あれは事故だった。
それにしてもあの時は笑った。
どうして絵瑠は、自分だけが僕の恋人だなんて、そんな自信を持っていたのか。
僕は真知子に知られたくなかったんだ。真知子以外にも遊びで付き合っている女の子がいることを。
早くゾンビ化した絵瑠を見つけ出して処分しなければならない。
逆恨みしたあいつはきっと、僕の恋人を殺しにやって来る!
◆ ◆ ◆ ◆
ボーン、ボーン、ボーンと柱時計の鐘が鳴った。
「頭の中で優しい人の声がするの。男の人の声よ」
「恋人だったの?」
「たぶん」
ふるえるちゃんはそう言って、また自分の身体を抱き締める。
「そんな優しい人がいるのに」
みぎもげちゃんは左に傾げかけた自分の首を止めながら、聞く。
「なんであなたはここへ来ちゃったの?」
「覚えてない。きっと何か悲しいことがあったのね」
「綺麗な青白い肌。羨ましい」
そう言いながら、みぎもげちゃんがふるえるちゃんの冷たく濡れた頬を撫でる。
「死んですぐだから綺麗でいいなあ……。あたしなんか死んで10日も経ってるから断面がウジュウジュしてきたもん。綺麗な黒髪ロングに、美しい蒼色の薄い唇、細いのにボリューミーな胸。羨ましい、羨ましい! こんな素敵な恋人をここに来させるなんて、あなたの恋人は頭がおかしいわ」
「彼のことを悪く言わないで。彼は優しい人よ。覚えてないけど」
「でも、忘れなさい。あなたはゾンビになったんだから」
「私……彼を探したい」
「ダメよ。ゾンビが外を歩いていたら殺されるわ。何もしなくてもゾンビなんだもの」
「彼に会いたいの」
「鏡を見た? 青白くなって頭から血を流してるあなたを見たら、いくら優しい恋人でも逃げて行くわよ」
まだ自分の姿は見ていなかった。立ち上がると、壁に立てかけてあった姿見に自分を映す。可愛いものがそこに映って、嬉しくなった。岩礁にぶつけた時の頭の傷から血は止まらず流れていたが、それでも損なわれないほどの可愛い自分の見た目を誇らしく思い、ここに来てから初めて笑顔になった。
「大丈夫。これなら大丈夫。それに彼は優しいから、きっと温かく抱き締めてくれるわ。私は震えが止まらないんだもの」
ふるえるちゃんは歩き出した。
「彼なら……いいえ彼だけが、この身体の震えを止めてくれるわ、きっと」
「行っちゃうんだ? 彼に会いに? じゃ、ちょっと待って?」
そう言うと、みぎもげちゃんは自分の着ている可愛いメイド服を脱ぎはじめた。
「あたしの服と交換しなよ。そんな地味な服装で会いに行っちゃいけないわ。恋人に会いに行く時にはお洒落をしなきゃ」
「ありがとう。でもどうしてメイド服を着ていたの?」
「メイドカフェの店員だったの。お外に買い出しに出た時にダンプに右から轢かれてね」
「なるほど。それで右側がもげちゃったのね」
「うん。気持ち悪いでしょ」
「ううん。みぎもげちゃんは可愛いよ」
会話を交わしながら服を交換し終わった。メイド服に身を包んだふるえるちゃんはスカートの両端をつまみ、姿見に向かってポーズを決めると振り返った。
「ありがとう、みぎもげちゃん」
ここへ来て初めてにっこりと笑顔を満開にさせた。
「寒いの、治るといいね」
ブルブルと震えながら笑うふるえるちゃんをうっとりと見つめながら、みぎもげちゃんが言った。
「じゃ、行ってくるね」
そう言ってふるえるちゃんはドアを開けた。森の中だった。木立ちの隙間から街の灯りが見えた。
彼の名前はわからない。しかし少し前から思い出していた。哀しそうな蒼い色を湛えた、優しそうな彼の顔。記憶の中に愛しい恋人の姿を見ながら、森の中を歩いた。ただひたすらに、彼に会いたくて、想うほどに身体が震えた。
彼に会えたら後ろからそっと忍び寄って、ぎゅっとその愛しい身体を背中から抱き締めたい。そして身動きできないほどに身体を密着させて━━みぎもげちゃんには言ってなかったけど━━その頭に歯を立てて、熱烈で強烈なキスがしたくてたまらなくなっていることを。
※イラストはひだまりのねこ様より頂きました♡