恋と言うには穏やかで 愛と呼ぶには儚くて (くろ飛行機版)
記憶は、時と共に色褪せる。
まるで花弁のように、ほろほろと散っていく。昨日のことも、1週間前のことも、1年前のことも、いつかは思い出せなくなっていく。
――――――遠い日の記憶。紫色の、花の下で。
そう書かれた大昔の日記を閉じ、僕は静かに目を閉じた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
僕は久しぶりにこの場所を訪れる。
広大な芝の丘、その頂上にそびえ立つ一本の木の根元。そこを目指し、ひたすら足を進めている。
新緑の中に、咲き誇る紫色の花――――――“ライラック”と呼ばれる初夏の花は、四つの花弁がついた小さな花が集まり、一つの大きな花房を形成している。
この木を見ていると、昔の思い出が鮮明に蘇ってくる。幼いころから、ずっと変わらぬこの景色がとても愛おしい。
『久方ぶりなのだ』
突然聞こえたその声に、僕は顔を上げる。
聞こえた声も、そして視界に入ったその姿も、あの頃と全く変わっていなかった。
和服を着た、端正な顔立ちの若い女性だ。美しい顔に似合わず、にししと下品に笑っている様子が懐かしかった。
「やぁ、本当に。いつぶりだろう」
僕は彼女に近づいていく。照り付けるじりじりとした太陽光が、自然と僕を木陰へ誘う。
『お主が来なくなってからだ。ざっと……二年か?』
感覚としては、ついこの間のように思える。僕は嘆息と共に言葉を吐き出す。
「そんなにか、とても長かったろう」
この二年、僕は高校を卒業して、大学生になった。遠い都会に引っ越しをして、たくさんの友だちができた。サークルやバイト、新しい趣味を見つけ、充実した毎日を送っている。
そして分かったことがある。楽しい月日は、あっという間に過ぎ去る。
『そうでも無いとも。儂の歳月、甘く見積もるなよ?』
彼女は、ふんと胸を張った。その様子がとても可愛らしくて、つい笑ってしまう。
時間感覚は、年齢とともに早くなる。だから僕は、先ほどの発言を心の中で訂正する。
「ふふ、そうだったね。でも、そんなに会っていなかったのは、なんだか残念だなぁ」
彼女は、残念という言葉に一瞬寂しそうな顔をして、僕の目を見る。
『そういうものか?』
これは彼女の口癖だった。見た目に反して、古風なしゃべり方をするところが好きだ。
「そういうものさ」
懐かしさで胸が熱くなる。それが顔に出たのだろうか。
彼女は僕の顔を見て満足そうに笑った。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
僕は早速、墓参りを始める。紫色の花の下にあったのは、とても小さな墓石だった。名前もなく、とても墓石には見えないが、持ってきた花と餡団子を供える。
彼女は、僕の行動を興味深そうに見ていた。そう言えば、僕の墓参りを見られたことは、これまでなかったような気がする。
『ところでな? これは何をしているのだ?』
「これかい? 人の弔いだよ」
彼女は様子を不思議そうに覗き込む。僕は線香に火をつけ、墓石に手を合わせる。
ここには、僕のひいひいひいおじいさんとひいひいひいおばあさんが眠っているらしい。
僕は幼い頃そう聞かされて、途方もない時の流れを感じたのを覚えている。
『弔い……聞かぬなぁ』
彼女があまりにも不思議そうな顔をするものだから、僕は簡単に説明する。
「いなくなってしまった人に、ありがとうとさようならを伝える儀式さ」
彼女は、不思議そうに首を傾げている。
そう言えば僕も、祖父からこんな風に説明されたことを思い出す。
今の自分たちがここにいるのは、ご先祖様がいてくれたおかげなんだぞ、と。
実感はなかったけど、これを続けているうちに、不思議と習慣として定着してしまった。
――――――だから今日は、これまでの感謝と謝罪をしに来た。
『いなくなった後にか? なんの意味があるのだ』
彼女は僕の真似をして、木に咲いている紫色の花を一房ちぎると、墓に供える。
いなくなった後にする意味、か。
僕はそっと立ち上がると、遠くの空をぼんやりと見つめる。
考えたこともなかった。無意味ではないだろう。こうして手を合わせ、思いを巡らせることに、意味はある。
だけど、本当は生きているうちにする方がずっと良いと、分かっていた。
「無いよ。でも、少しだけ整理出来れば、その人の事を思い出す時、少しでも長く笑顔でいられるだろう? 人に思い出して貰うなら、笑顔で語られたいものだよ」
そう。思い出を語る時はいつだって笑顔で語りたいのだ。彼女に言った言葉は、僕自身の願望だった。
『そういうものか?』
また口癖を言う彼女を見て、胸がざわつく。
――――――幼いころから変わらぬ、この気持ち。ずっと変わらぬ、この気持ち。
「そういうものさ」
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
『そうだ、先日はお主以外の者が来たぞ! 三年前にお主が連れてきた、何といったか……そう、ジュケンセイちゃんなのだ』
線香の長さがずいぶんと短くなった頃、ふと彼女は切り出した。
風の流れが変わり、線香の煙が反対方向に流れる。
ジュケンセイちゃん、というのは面白い響きだ。僕は思わず笑ってしまう。
「それは名前では無いよ。妹ちゃんと呼ぶようなものだ」
『むぅ……笑わずとも良かろうに』
ぷう、と頬を膨らませる彼女が一瞬寂しそうな顔をしたので、僕はごめん、と謝る。
彼女の言うジュケンセイちゃんとは、僕の従兄妹のことだ。
三年前、僕がまだ高校二年の時だった。僕の従兄妹―――現在大学三回生の中村穂花は、遠く離れた都会に住んでいる。僕は、地元の大学に通っているので、この田舎には簡単に帰ってくることができるが、穂花はたまにしか帰って来られなかった。
穂花はアクティブな性分で、日本全国様々なところに旅行と称して行ってしまうような女の子だ。久しぶりに帰ってきた穂花は、早速僕にこの町の案内を頼んできた。
食事処や、観光地、町の美味しいパン屋さんなど、色々なところに行きつくして、最後に僕の脳裏に浮かんだのがこの場所。
「えっ? 恋が必ず成就するパワースポットがある?」
穂花は、嬉しそうににっこりと笑って、「行きたい!」と言った。
その顔に、どこか暗い影があるような気がして、印象に残っている。
ライラックの花は、散ってしまった後だったが、今日みたいに爽やかな風が吹いていた。
彼女は、僕が穂花を連れてくると、嬉しそうに質問攻めにしてたっけ。
「でも、そうか……なんだか、その繋がりの中で僕が生きている様で嬉しいな。葬式に人が集まるのは、そういった意味もあるのかな」
僕は綺麗に掃除をした墓石を見て、様々な“人との縁”を思い出した。
穂花だけではなく、様々な人間とこの場所に来た。彼女はいつも僕たちを歓迎し、にししと笑って話をしてくれた。
――――――そんなかけがえのない思い出が、僕をここに誘う。
『嬉しいのか?』
彼女は、僕の顔を心配そうに覗き込んで、そう聞いてきた。
嬉しいと同時に、寂しくもある。
「もちろん。何も無くなる様に消えていくのは寂しいものだからね」
思い出は、いつまでも色褪せない。ここで僕が経験した彼女との思い出が、そう証明してくれている。
――――――そう思えば、寂しくはない。
『そういうものか?』
「そういうものさ」
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
『確か、お主が初めて来たのも、人に連れられてだったな』
ライラックの木を離れ、細く小さな道を進んでいく。
芝の中に、土の道がまっすぐ伸びていて、その先に小さな鳥居が見える。
先を行く僕の背中にぴたりとついてくる彼女は、背中をつんつん突っついて、早く行けと催促する。
「そうだね、隣の家のおじさんに、近所を教えて貰っていた時だ」
僕も穂花と同じだった。
八歳の時、親がたまたま用事で都会に行くので、この辺りにある祖父母の家に預けられた。僕の家から祖父母の家までは車で一時間弱ほどの距離だったが、当時の引っ込み思案な僕にとっては冒険だった。
隣の家のおじさんは、僕が来たと知るとすぐに野菜や果物を持ってきて僕に食べさせてくれた。
僕が穂花にしたのと同じように、町を案内し、僕の遊び相手になってくれた。
そんな、鮮明な冒険の記憶の最後に、ライラックの木が現れる。
咲き誇る花を前に茫然としていた僕に、おじさんが突然、好きな人はいないのかと聞いてきた。
――――――風と共に現れたのは、美しい髪を靡かせ、にししと笑いかけてくれる美しい女性だった。
当時の僕が見たことのない着物を着ていて、とてもいい匂いがしたのを覚えている。
『あやつな? 儂の所なぞ、年に一度と顔を出さんのにしたり顔で語るだろう? おかしかったぞ』
おじさんはそんな女性をうっとりと眺めて親指を立てると、その先を女性に向けて、「これ、神様。初めて見たろ?」と笑った。
僕は意味が分からず、より呆然とした。
――――――こんなのが、僕と彼女との出会いだった。
「だから笑ってたんだね。とても素敵だったよ」
初めて会った時から、変わらぬ彼女の笑顔は、独特だった。
少年のような快活さと、いたずらっけ。そんな笑いに、僕は魅了された。
彼女は、ぴょんと先を行く僕の前に顔を出すと、にやにやと見つめてくる。
『今日は口が軽いのぅ。しかし、儂はいつも素敵だろうて』
それを自分で言ってしまうところも、僕は好きだ。
「違いない」
『笑うところでは無いぞ』
「ごめんね」
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
赤い塗装の禿げた、小さな鳥居が1つ。土の道が、いつの間にか石の道に変わっていて、それが一直線に社まで続いていた。手水舎もなく、社の前に小さな賽銭箱が置かれているだけ。
鳥居の前に立つと、僕は、丁寧に参拝を開始する。
鳥居の前で一礼し、石の道の左寄りを歩く。お賽銭を入れ、二拝、二拍手、一拝。
それをゆっくりと、心を込めて行った。
これが正しい参拝方法なのか、実は自信がなかった。なので、しっかりと心だけは込める。
『しかし、長いなぁ。人は不可思議な事に労力を使うのだな』
ようやく参拝が終わったところで、彼女はあくびをしながらそう言った。
彼女らしいと、僕は思わず笑ってしまう。
形式や手順などは、人が勝手に決めたことで、彼女にとってはあまり意味のないことなのだ。
けれど、少しだけ残念な気もする。
「そうかもね。大きすぎて、複雑すぎる感情って宝を、持て余してるんだよ。でも、それが良さなんだろうね、きっと」
形式は、人が神様に思いを伝えたいから創り出されたものだと思う。
心を込める所作も同じ。形式や手順あってこその心意気だと、僕は思っている。
『そういうものか?』
彼女はまた、考えるそぶりをしてから、いつもの問いを僕に投げかける。
この気持ちを、分かってもらおうとは思わない。けれど、さっき言った言葉が少しだけ告白じみていると思った僕は、恥ずかしくなった。
「そういうものさ」
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
時間とは、あっという間に経ってしまうものだ。
そんな当たり前のことでさえ、いざ経ってみなければ気づかない。紫色の花は、先ほどと変わらず咲いている。違うことといえば、日が傾き始めている、ということだけ。
「ごめんね。そろそろ、行かないとかな。ありがとう」
こんな言葉、本当は言いたくない。できることなら、ずっとここにいたい。
そんな我儘を口に出したくて仕方がない。
彼女は、そんな僕の心を見透かしたかのように、僕の肩を叩く。
『のぅ、主。次はいつ来る?』
また来るね、といつも僕は言っていた。そのたびに彼女は嬉しそうに手を振って送り出してくれた。それが嬉しくて、僕は何度も何度もここに来た。祖父母の家に行きたいと、親にせがんだ。
けれど――――――人は成長する。
「……ごめんね、約束は出来ないかも。でも、覚えていたら。きっと真っ先に行くだろうさ」
もう二度と、ここには来られない。
僕はとても意地悪なことを言ってしまった。
覚えていたら、だなんて。忘れるはずなどないのに。
『そういう……ものなのだな?』
「そういうものにするさ」
彼女は夕日をまっすぐ見つめていた。
何年も、何年も、ここにいてこの夕日を見つめ続けているのだろうか。
彼女は僕の方を見る。そして僕の傍まで走って来ると、指を僕の額に当てる。
「いて」
少しの痛みが、僕に現実を意識させる。彼女の髪は爽やかな風に巻かれて、まるで夕日に溶けるように輝いた。
彼女の口が、ありがとうと動いたのを見て、僕は涙を堪えることができなくなる。
彼女は僕の涙をそっと手で拭って、
『儂はな、お主を忘れんよ。来るのを楽しみに待つとも。それは、嬉しいものか?』
その問いは、優しさだった。僕が永遠に、この思い出に苦しむことになるのなら、それは彼女にとっても辛いことなのだ。
僕は深く考えたのち、震える声を絞り出す。
「そうだね、とても。でも、それが苦しみになるなら、捨てて……と言いきれない弱い男だけどね、僕は。それでも待つかい?」
彼女はまた、にししと笑う。
『無論だとも。早く来いよ、若いの』
僕は、精一杯笑顔を取り繕った。これ以上、彼女に涙は見せたくない。
「そうするよ」
僕は振り返らなかった。振り返れば、きっと戻ってしまう。
ずっと、あの子の傍にいたかった。
――――――さようなら、そしてありがとう。
夕日を背に、僕はひたすら走った。涙が止まらなかった。
いつか、を待つことは途方もないことだと、わかっていた。
あの一帯が開発のために更地になったのは、それから一か月後のことだった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
ある晴れた日のこと。
小鳥がさえずり、風が季節を運んでくる。
また、あの花が咲く季節がやってきた。
「おねえさん、そこでなにしてるの?」
少年が一人、元気よく石段を登ってやってきた。真新しい大きな社の傍に、木製のベンチがある。そこに座って足をぶらぶらさせていた女性は、そう聞かれてにししと笑った。
『うん? そうだな、人を待っておる。坊はどうしてここへ?』
見たところ7、8歳の男の子だった。膝や頬に小さな絆創膏が貼ってあり、真新しい運動靴がよく似合っている。
「ここね、おばあちゃんの、思い出のばしょなの。初恋の人と、おねがいしに来たんだって。ぼく、こっちにこしてきたの」
『そうか』
少年は無邪気に笑うと、女性の隣に勢いよく座った。そして女性の真似をして足をバタバタとさせる。
「おじいちゃんには、しー、だよ〜って言われたの。そういうものなのかなぁ?」
女性は腕を組んで、少年をまじまじと見つめる。
――――――笑顔がよく似ているなぁ。
そんなことを考えていると、胸のあたりがぽかぽかと温まる。
『そういうものなのだろうな』
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「ここ、どんな所なの?」
少年は、小さな社を見て、興味深そうにそう聞いた。
きょろきょろと落ち着きがなく、辺りを走り回る。そして社の中をじっと覗く。
そんな様子を見た女性は、社務所から餡団子を3つ持ってきて、少年に差し出した。
『妾の家なのだよ、ここは。おばあちゃんも少しばかし知っておるぞ』
「そうなの!? おねえさん、すごいんだねぇ」
少年は餡団子をパクパクと全部口に入れてしまった。
ちょっと食べすぎたのか、目を丸くして何度も咀嚼する。
女性が喉に詰まらないか心配していると、少年は美味しいと言わんばかりに目をつむった。
『覚えていてくれる人がおるからな』
少年は、頬に入れた餡団子をようやくゴクリと飲み込む。
その言葉の意味がよくわからず、女性に尋ねる。
「わすれられないと、すごいの? んー? そういうものなの?」
女性は深呼吸をし、境内を見回してから、胸を張る。
綺麗に敷き詰められた砂利の中に、石の道が続いていて、その奥に真新しい鳥居が立っている。そして鳥居の先、少し盛り上がった土の上に、女性がよく知っている小さな木が植えられていた。
――――――あれから、ずいぶんと時間が流れた。
丸い目をうるうるさせて、興味深そうに見つめてくる少年と、あの青年が重なって見える。
『そういうものだとも』
少年は、女性が腰かけていた社の傍のベンチに座り、女性を手招きする。
2人はベンチに並んで座った。
「おねえさん、どんな人を待ってるの?」
女性は遠い空を見つめて言った。
『いつもまた来たよ、と餡団子を三人前持ってきて、二人前食べるような奴だ』
先ほど食べた餡団子の味を思い出した少年は、頬を両手ではっ、と押さえる。
「ぼくも好きだよ、あんだんご〜」
『そして、従兄妹を魅了しても、気づかんような罪深い鈍い男だ』
「みりょ……つみ?」
『バカな者、という事だ』
少し間をおいて、少年は食べた餡団子の数を指で数える。
3つとも全部食べてしまった。
「そういうものなの?」
『そういうものなのだ』
縁とは、不思議なものだと女性は思う。
いつかあの若い青年が言った通り、人間はつながりの中で生きているのだろう。ずっと縁は続いていく。
『ほれ、童は帰る時間ぞ』
遠くで“夕焼け小焼け”という童謡が流れている。少しかすれた音が、午後5時を告げ終わると、女性はゆっくりと立ち上がる。
「あ、ホントだ! ごめんね、おねえさん」
『……あぁ』
少年は、門限を気にして急いで駆け出していく。境内に敷き詰められた砂利を蹴る音が、じゃらじゃら響く。
「あ、そうだ!」
少年は何か思い出して、走ったまま首だけ女性の方を向く。
『前を向け! 転ぶぞ!』
注意されて、少年はくるりと踵を返し、立ち止まった。傾いていく日の光が、少年の背中に照り付ける。夕日を背にした少年は、女性に向かって大きく手を振る。
「明日もね! ぼく来るね! また来たよ、ってあんだんご、あげるね!」
――――――少年の姿が、女性の待ち人と重なる。
また来ると言って、お互いに手を振って別れた。あの日のように。
もう会うことはないと、分かっていた。
けれど、ずっとずっと待っている。待っていると、そう決めた。
――――――だってあの青年は、約束を破る男ではないと知っていたから。
『お主に言われれば、満足だろうな……』
女性の目からほろりと落ちた雫を、少年が見ることはなかった。
「おねえさん、またね!」
『あぁ、またな!』
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
駆けだしていく少年を見送った女性は、ずっと西の空を見ていた。
赤と青の美しいコントラストが、空を染めている。
そして訪れる夜の闇に、女性は重い腰を上げた。
ゆっくりと社務所へ向かう。
そこに置いてあったおみくじの入れ物から、そっと1枚紙を取り出す。
《恋路神社 御籤》
狛犬は笑い、灯篭が揺れる。恋が成就するパワースポットとして、あのころとは違い有名になったこの神社に明かりが灯った。
『なんじゃ。くだらぬ人間の戯れかと思っとったが、これはこれで、良いの……』
女性は小さなライラックの木の傍まで行くと、小さな枝に、手を伸ばす。
待ち人来たる、と書かれた中吉の御籤が、そっと夜のライラックの木に結ばれた。